番外編―1 『羽衣の奥山(前)』
※『第九章 親征と帰還と 3.』での直義と正季の、会話の途中辺りの話です。
※主に直義の嫁の話です。
※ほぼ完全に想像だけで書いてますので、お気をつけください。
■羽衣の奥山 (前)
「女の恐ろしさは、知っているつもりだったがな」
遠い目をした直義が、ぽつりとつぶやくと、正季は優しい目で笑った。
「だが美しく艶やかだ。この屋敷にも美しい女が多いじゃないか」
「そうか?」
「さっき案内してくれた女も麗しかったな」
直義は無言で、口の端を少し上げた。
……そういえば、と正季が思い出したように付け加えた。
「鎌倉の屋敷で案内してくれた女も、見栄えが良かったな」
「よく覚えているな」
正季が鎌倉の直義を訪ねてきたのは、もう一年以上前だった。
「坂東武者は野暮だ、無骨だと聞いていたのに、さすが足利は違うのか、と感心したからな。執事殿の趣味か?」
足利の筆頭執事、高師直の女癖の悪さは、京でも評判になりつつあった。
だが、直義はゆるやかに首を振った。
「いや……師直は屋敷の女には手を出さん。絶対に」
断定され、おや?っと正季が直義を見つめた。
直義は涼しい顔をしていた。
「なんだ? 穏やかではないな」
師直は……と言いかけて直義は、皆、と言い換えた。
「屋敷にいる女は、俺のものだと思っているんだよ」
正季が心底意外そうな目で、直義を見た。
「そうなのか?」
「そう見えるか?」
「見えぬが、案外見えぬように見える相手が実は……という話も聞く」
直義はくっくっと笑い出した。
「まあ俺の女……というより、俺の為の女というのは、あるかもしれぬな」
意味ありげな言葉だった。
正季は直義の端正な顔をしばし見つめ、やがて
「訳を尋ねていいか?」
と聞いた。
直義は良いとも悪いとも言わず、何の脈絡もなく、ぽつりとつぶやいた。
「俺の女房殿の話だ」
正季の眉がわずかにひそめられた。
「何が、だ? その前に、あんた奥方がいたのが……いや、当たり前か」
市井の民も、十代の頃には嫁をもらう。
ましてや、上に兄がいるとはいえ、直義は名門の若様だった。生まれた時に許嫁がいたとしても、不思議はなかった。
だが正季から見ると、直義の周囲には、侍女と、義姉以外、女の気配は不思議なほどなかった。
「足利みたいな家は、通常だと、家を継がない息子はどこかへ養子に出す」
新田義貞の実弟である義助も、脇屋家に養子に行き、脇屋義助を名乗っている。
実家で飼い殺しになるより、他家で当主になった方がよいという配慮と、後々の跡目争いを避けるためもあった。
「俺の場合は、兄の代に大望がかかっていたからな。父は、俺を他家へ出さず、家で兄の補佐をするようにと定めた」
父である貞氏が、兄弟のどちらに家督を継がせるか、最後まで迷っていた話を、直義は口にしなかった。
「不満はなかったのか?」
「兄弟仲は悪くなかったし、それなりの配慮も約束された。正直、当主になれぬ不満はまるでなかったな。」
むしろ、重い物を背負わされた兄に同情した――と直義はつぶやいた。
正季は、あぁ、と納得したように頷いた。
「そこで、俺は嫁を取ることになったんだが、最初に父が決めた娘が、流行り病にかかってな」
「うん」
「ぐずぐずしていると、北条家から縁談が持ち込まれる」
実際、持ち込まれていた。
「俺は兄とは違って、そんな面倒事はごめんだった」
――自ら滅ぼすかもしれぬ家の娘を貰うなんてのは。
「……だな」
「だから、その娘をもらうことにしたのさ」
「あぁ?」
さすがに正季の眉が寄った。
「助からぬ見込みのほうが高かったが、かろうじて、まだ生きていた。ならば婚姻は可能だ」
「待て。かろうじて生きている状態で、可能はないだろう」
直義は顔を上げて、挑戦的に正季を見返した。
「可能だ。必要なのは婚姻を結んだという外聞だけだからな」
言葉を失った様子の正季に、直義は淡々と続けた。
「婚姻を結んだと披露すれば、北条側は取りあえず諦める。後は、娘がもし亡くなるならば喪に服し、その間に次の相手を探す……そう思っていた」
露悪的に言った後、直義は深くため息をついた。
「上手くはいかなかったようだな」
良くない顛末を先回りした正季を睨むこともなく、庭を見つめたまま直義は口を開いた。
「やはり人道に悖る行いには、それなりに罰が下るらしい。娘は助かった」
それを罰というのはまずいだろう――正季の軽い非難を聞き流し、直義は話を続けた。
「助かったが、顔に痘痕が残った」
正季は不思議そうに訊く。
「あんたなら、痘痕くらい気にせんだろう」
直義がにやっと笑う。
「多分な。だが問題は俺じゃなかった」
相手の娘が、顔を見せるのを嫌がった。
「それは……娘心というやつだな」
分からないでもない、という風に正季が言うのに、そうか?と直義は返した。
「俺に顔を見せるくらいなら、死ぬとまで言われたぞ」
実際、娘は父親の前で短刀を首に当ててみせた。
「父親、貞頼は……足利の外戚に当たるんだが、俺と父の前で『申し訳ない』と、平身低頭したよ」
放っておくと切腹しかねないので、直義は『気にしていない』と、貞頼と己の父に言い切った。
「離縁をと、強く申し出てくれたんだが、顔に出来物が残ったくらいで離縁すると思われるのは、俺が嫌でなあ」
「……まあ、あんたはそういう人だよな」
結局、『その内、お心も変わられよう』と、両家は、そのまま婚姻を継続することとなった。
「どっちの心が、だ?」
尋ねる正季の口元には、皮肉な笑みが浮かんでいた。
「俺はあちらの、あちらは俺の、だろうな」
それから今まで変わってないわけだ――正季は、やれやれと首を振った。
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※思ったより長くなってしまったので前、後編で区切りました。
※タイトルの『羽衣の奥山』は、「いろはにほへとちりぬるを…」の『いろは歌』から「有為の奥山」をひねりました。