第一章 妖霊星の宴 3.
3.
不意に直義の耳へ、ジャリっという草履が砂を噛む音が入ってきた。
やや遅れて、暗闇に赤い光も一筋差し込んできた。
「此処に幕を広げるのは、いずこの御山の眷属ぞ!」
場を制すように響き渡った声は、重ねた歳と、同時に明晰な知性を窺わせていた。
声の方角を探すまでもなく、赤い光の中に男の影が伸びている。
直義はそちらへ目を凝らした。
小柄な、こぢんまりとした輪郭にも関わらず、いるだけで迫って来るような強い存在感がある。
どうやら逆光になっているだけでなく、もともと黒い衣を纏っているらしい。
僧侶か? と思う直義の発想を裏付けるように、『物の怪』の声が応じた。
「何処にいるも我等が勝手ぞ、禅の信徒よ」
まとわりつくような声音を弾くように、清冽な声が返る。
「さにあらず! 此処は八幡大権現の参道ぞ」
僧侶は手にしていた杖を、ザクッと地に突き刺した。
「わしはもとより、おぬしらも勝手は出来ぬはず。理を曲げて、権現縁の者に手を掛けるとあれば、わしも先刻来の騒ぎ」
……見過ごしにできぬがよろしいか?――僧侶がぴしゃりと言い放つ。
その毅然とした態度にかぶせるように、ひどく人間らしい舌打ちの音がした。
「賢しらしい!」
僧侶は毛ほども意に介した様子はなく、淡々と通告する。
「用を終えたなら、疾く巣へ戻られよ。この地は未だおぬしらの版図に非ず」
あたりに、ざぁっと強い風が吹く。
風と呼応するように、たくさんの羽音が再び周囲を満たした。
様々(ようよう)な声が、僧侶と直義に呪詛を投げかける。
「覚えておれよ、乞食坊主」
「そこな小僧は、兄ともども禍津星」
「おぬしが幾度手を加えても、所詮災いを振りまき、墜ちるしかない定めの星よ!」
直義は先程弾き返した小刀を拾うと、羽音のする方角へ投げた。
「余計なお世話だ」
大した期待はしていなかったが、放たれた小刀は闇を、まるで黒い布を裁つように走った。
引き裂かれた闇の間から、朱色の光が流れ出た。
外では夕陽が赤々と燃えていた。
闇から開放され、喜んで良いはずの光景なのに、まるで己を含めて辺り全てが、血に塗れていく様で眉をひそめる。
(不吉な……)
再び響く羽音に、直義は不吉な連想を振り払って顔を上げる。
朱の光の中を、黒い鳥の残像が三々五々駆け去っていくのが見えた。
徐々に後退する闇の中から、男が一人浮かび上がった。
長く伸びる異形の影。
山伏の衣装に包まれた逞しい身体には、大きな羽と、鳶のように曲がったくちばしがあった。
『人にて人ならず、鳥にて鳥ならず』
絵巻物*の一節が直義の脳裏に蘇る。
凶事の先触れとして畏れられている妖怪である。
「天狗……?」
直義は思わず声を上げた。
その放心した一瞬の隙をついて、天狗の懐から小さな刃が放たれた。
はっとして直義は刀の柄を持ち直したが、刃は届く寸前に石のようなもので打ち落とされた。
驚いた直義が用心深く首を巡らすと、小柄な僧侶と、僧侶を庇うように立つ、背の高い男の姿が映った。
逆光で顔は暗く、判別がつかなかった。
水干を着た男はお手玉をするように、左手で小さな石を弄んでいる。
「ちっ!」
舌打ちし、去ろうとする天狗の背に、直義は声を掛けた。
「得宗館に忍び込んだのは、お前達か?」
どこか湿った、くぐもる声が、直義の問いに応えた。
「忍び込んだつもりはない。招かれたのだ」
天狗は悠然と振り返った。
現れた顔は、長い鼻から下が木彫りの作り物で覆われていた。
(仮面か……)
直義は思わずほっとした。
眼光は鋭かったが、よく見れば当たり前のヒトの目だった。
口元は隠されていて見えなかったが、男が嗤っていることを直義ははっきりと感じた。
「畏れも知らぬ源氏の御曹司よ。我らは招かれぬものの前に現れることはない」
だから……、と異形の男は一拍置いて続けた。
「お主も我らを呼んだのよ」
一瞬虚を突かれた直義だったが、反射的に口が開いた。
「笑わせるな」
芸のない言葉しか出ない己が歯がゆかった。
そんな直義に向けたように、一際高い嘲笑が響き渡った。
「おさらば!」
声と共に無数の黒い羽が飛び散る。
羽とその羽音に紛れ込むように、最後の異形は姿を消した。
飛んで行ったようにも見えたが、人ならば飛ぶわけはない。めくらましの業だろう。
「身軽なものだな」
悔し紛れにつぶやく直義に、冷静な言葉が返る。
「技芸者は、西から参るもの」
踊りや軽業を使う技芸者集団は西に多い。
高時がよく招く田楽一座、本座や新座も、京・奈良から招いていると聞いていた。
(だが、今この時期に西から来るものは、娯楽だけではない)
即位以来繰り返し、倒幕の謀略を企てていた後醍醐帝は、昨年ついに兵を挙げた。
鎮圧のために鎌倉から差し向けた軍勢には、直義ら足利勢も参加していた。
乱が収まり、捕らえられた後醍醐帝は、この三月に隠岐に流されている。
あわただしく新帝を立て、表向き静まった京の都も、裏は分からない。
(現に不穏な空気を受けて、御所を警備する六波羅の使いが、三日とおかずに訪れている)
後醍醐帝が流された後も、呼応した寺社や土豪などの勢いは衰えず、西を中心にして、あちらこちらで気炎を吐いていた。
―――――――――――――――――
*天狗とは…『人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、
犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、
左右に羽根はえ、飛び歩くもの』…平家物語からの引用です。