第一章 妖霊星の宴 2.
2.
これだけ近いと、今、己を取り込んでいる『怪異』と、得宗館に現れたという『怪異』が、無縁のものとも思えなくなった。
実のところ、昨今鎌倉の地に於いて、『怪異』話は別段珍しいものではない。
死体が動いた。
犬がしゃべった。
満月に海が干上がった。
異形の群れが夜道を駆けた、というのもあった。
巷でよく言われる、『怪異が現われるは、吉か凶か?』の判じはともかく、それだけ政情が不安定な証だと、直義は思っていた。
上にある幕府が乱れれば、否も応もなく、下にいる庶民も巻き込まれる。
(だが全てを『怪異』のせいに出来れば、人の罪は問わずに済む)
執権が、幕府が、政を怠っている――そんなことは、口に出せない。
だからすべては、怪異のせい。
理屈は分かるが、こうして己が巻き込まれてみると、また別の考えも湧いてくる。
(偶然か、それとも……)
――足利の本流である、『源氏』の家系は呪われている。
(父も兄も疑うことのない、先祖代々、念の入った積み重ねだ)
公に認める者もいないだろうが、『物の怪』に襲われるに足る条件なら、一族中が満たしているともいえる。
だがそれとは別に、鎌倉の有力御家人、足利の舎弟として、直義が『物の怪』や人に狙われる理由も少なからず存在する。
(どうする?)
と、思案する間もなく辺りが暗くなった。
鳥どもが日を遮ったというより、一息に周囲が昼から夜に転じたようだった。
進むべき方角を見失った直義は、仕方なしに足を止めた。
腰に下げた刀に、手を掛けて考える。
(果たして、怪異に刀が通じるだろうか?)
通じるにせよ、辺りを包む闇は、ただ一つの刀で押し切れる量ではない。
直義は刀から手を離した。
直義が止まったのを見計らったように、鳥の羽音も次第に収まっていった。
だが、完全に静寂になるのを厭うように、ひときわ大きな羽音がバサリッと辺りに響いた。
それと呼応するように、クックッ笑う声が闇にこだまする。
「このような時間に、このような場所へなぞ、足を踏み入れてはなりませんよ、ご舎弟殿」
若い男の声だが、言葉にねとっとした媚びがある。
他に、いかめしい男や、しわがれた翁の声も割って入ってくる。
「逢魔が時に、獣道へなぞ」
「しかも、供も連れずにお一人で」
「いや剛毅のことよ。さすがは足利の副将軍」
「これこれ、お若い衆を揶揄うてはいかん」
「おお、まさしく紅顔の美青年。あの敦盛殿もかくやかな」
ごちゃごちゃと濁り混じった、様様な嗤い声がやんややんやと耳障りに響く。
キンキンとした高い声は、女のもののようにも聞こえた。
「もういいか」
うんざりと直義が口をはさんだ。
尋常ならざる暗闇に、言葉の通じぬ鳥と残されるのは困るが、どんな形の者でも、人の口を利くならば怖くない。
しかも先程から聞えてくる内容は、おどろおどろしいものでなく、その辺の雑色どもの戯言と変わりはない。
「姿を隠して、こそこそと囀る様は、奇怪を通り越して滑稽だ。それとも異形異類の方々は、揃いも揃ってうぶなのか」
直義は腕を組み、挑発するようにあごを上げた。
途端に辺りは怒声に包まれる。
「生意気な! ただびとの分際で」
「強がっておるだけよ!」
「ここが何処かも分からぬ、無知無謬の輩なれば仕方あるまい」
「帰りたくば、這って許しを乞うがよいぞ!」
直義の口の端が、笑みの形に吊り上る。
一つ息を吸い込み、視線をおもむろに正面へ向けると、直義は闇を一喝した。
「笑止千万!」
戦場にあって、あまたの兵を御してきた雄叫びが、闇に隠れた嘲笑を討ち払った。
「俺が膝を折るは、この地にただ一人だけ。それはお前らなどではないわ」
明快に直義が断じると、辺りはしばし静まった。
やがて気を取り直したように、「なるほどなるほど」と、翁の声がした。
「牙を抜かれ、北条の飼い犬に成り下がったとはいえ、八幡太郎の裔か。なかなか肝が据わっておるわ」
謡うように告げられた瞬間、カッと頭の芯が熱くなるのを、直義は感じた。
(犬と呼ばれて怒る矜持が、まだあったか)
己に感心することで、直義は怒りを冷ました。
相手が『物の怪』であろうとなかろうと、何らかの手妻を持っているのは確かだ。
頭に血が上っては、帰路を探るのは難しい。
「さあな。先祖がどなたであろうと、俺は俺だ。『ただびと』に用がないのなら、早々に道を戻すがいい」
「さて。おぬしなんぞに用がなくとも、行きがけの駄賃として鎌倉御家人の身柄を、かたにもろうてもよいのだぞ」
「吝嗇な話だ」
直義がぼそっとつぶやくと、シュッと音がし、何かが飛んで来た。
無造作に刀の柄で払うと、小刀が落ちてきた。
直義は、鞘を抜くべきかどうかと迷った。
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※八幡太郎:源氏のヒーロー、源義家のこと。
源頼朝や足利尊氏のご先祖様です。