第三章 悪党の縁 1.
1.
鎌倉に戻った翌日、直義は部屋で、各荘園から入ってくる石高の届け出を、ぼんやりと眺めていた。
戦をするには兵も必要だが、何より兵糧、武器、馬が要る。
幸い、足利には豊かな領国が幾つもあり、身内の支度だけなら雑作もなかった。
(だが、此度は通常の倍以上の準備が必要になる)
幕府を相手取るには、関東から西国に渡って、なるべく大勢の武士を味方につけねばならなかった。
縁も所縁もない兵を相手にして、物を言うのは大義名分と見返りだった。
今の推進力を失った幕府相手なら、大義は幾らでも付けられる。
加えて後醍醐帝の皇子、大塔宮が元弘の乱以来、盛んに倒幕の綸旨を各地へ送っていた。
(その一枚でもあれば、建前には事足りる。後は……)
突然、どたどたという足音がして、直義ははっとして顔を上げた。
すぐに部屋の前で足音は止まり、普段より幾分抑えた師直の声がした。
「直義様、お客様が参っておりますぞ」
「俺に客? 誰だ?」
「旅装のお方です。坂東の宇津木殿と名乗っておられますが、おそらく名を言っても分からぬだろうと」
「確かに分からんな」
直義は首を傾げた。
「なので、昨夜お坊様と一緒だった者だと、伝えてほしいとの……」
直義の脳裏に、僧侶を庇うようにして立っていた若い男の姿が浮かんだ。
直義はぱっと立ち上がった。
「それなら分かる。師直、ここへお通ししてくれ!」
はいはいと頷いて、師直が立ち去ると、直義は周囲に散らばる紙の束を素早くまとめた。
ほどなくして、師直に連れられ、男が一人現れた。昨日と違いこざっぱりした直垂姿だ。
年のころは、三十前か、三十をさほど出てはいないだろう。
背は長身の師直ほどもあったが、ひょろりとした師直に比べ、厚さもしっかりとした均整の取れた体格をしている。
こうして明るい場所で改めて見た顔は、日に焼けて荒削りだったが、端の上がった口元に愛嬌があった。
「こちらへ」
直義が手で差し示すと、男は会釈をして部屋へ入り、直義の向かいに腰を下ろした。
直義が師直に無言で目配せすると、師直は心得たように頷き部屋を後にした。
足音が遠ざかると、男は床に手を付き、すっと頭を下げた。
「お約束もせず押しかけた不調法、まずはお詫び致します」
聞き取りやすい、落ち着いた声だった。
直義も軽く頭を下げる。
「いや、こちらから礼に伺わなければと思っていたところです。夕べはお世話になりました」
直義と目が合うと、男はやわらかく笑った。
どことなく、鎌倉の人間にはない雰囲気を持った男だと、直義は思った。
「幕府の重鎮たる足利殿のお噂は、かねがね伺っております。正直、このように容易くお会いできるとは思いませんでした」
「どのような噂かは存じませんが、当主である兄とは違い、自分は気楽な立場です。それとも兄への取次ぎをお望みでしたでしょうか?」
鎌倉の有力御家人としての足利へ、武士の売り込みは珍しいことではなかった。
男は静かに首を横に振った。
「いえ、私は直義殿に会いに参りました」
「それは、ゆうべご一緒だった禅師のご意向で?」
男は、今度は困ったような表情で笑った。
「あの方は何と言いますか、世俗への興味があまりお有りでない。ゆうべ争いの場に割って入ったのも、片方が足利の若様だという意識はなかったでしょう」
「貴殿は、あの方の?」
「顔見知りです。私もよく旅をし、あの方もよく旅をされる。そのような者共は、折りに触れ繋がることもあるのですよ」
踊りながら念仏を唱えて回るという『時衆』の流行などもあり、土地を渡り歩く民は、昨今増えていた。
だが、元々旅をして生活を立てている、技芸者、職人、狩人、などを除けば、基本的に民は土地へ付くものだった。
武士も同じく、戦いのない時は田を耕す。主の命なくして土地を離れたりはしない。
(この前の男は武士だ。立ち居振る舞いから分かる。だが……)
「あの時、貴殿は飛礫を使われましたね?」
飛礫は本来、『石合戦』――祭礼に使う道具だ。殺傷能力は高いが、武器ではない。
少なくとも、まともな武士ならば使うまい。
直義の質問を聞いても、男の口元にある、うっすらとした笑みは変わらなかった。
「宇津木殿、坂東出身とおっしゃったそうだが、お生まれはどちらか伺ってもよろしいか?」
しばしの沈黙があったが、男はあっさりと白状した。
「生まれは河内です。西方は警戒されるだろうと、出身を偽りました」
直義は顔を顰めると立ち上がった。
「確かに……」
部屋の正面に置かれていた刀を無造作に掴むと、直義は男の前に片膝を付いた。
男の顔をきつくのぞきこみ、鞘の先でだんっ!と床を叩く。
「……まぁた『西』かと、うんざり思うくらいには警戒している。だが、偽られるのはもっと好きじゃない」
客人の刀は屋敷に入る前に、家人に預けられる。
「非礼は詫びよう」
右手に刀を掴んだままの直義に臆する風もなく、丸腰の男は飄々と告げた。
「名も偽りだ。お手前と直に会って話してみたかったので、名乗れなかった」
「誰だ? 朝廷側の差し金か?」
以前も若い公家が、山伏のなりで高氏を訪ねてきたことがあった。
(あの時は驚いたが)
朝廷内にも様々な思惑があることを直義は知った。
だが、男ののどがくっくっと震えた。
「俺が公家連中と繋がっているように見えるかよ、若様」
砕けた物言いが板についていた。
こちらが本当なのだろう。
直義は、ふんと鼻を鳴らし、そっけなく言葉を返す。
「分かるかそんなこと。朝廷は俺にとっては化け物屋敷だ」
男は大きな声で笑うと、体勢を崩した。
「違いない! 確かに朝廷は化け物屋敷だ。後醍醐帝がいないから、今は多少マシだが」
「後醍醐帝が化け物共の首魁だと?」
直義の問いに、「俺の主という訳ではないが」と前置きしてから、男はさらっと答えた。
「あの帝がいた頃の内裏は、毎晩百鬼夜行の異界だったな」
後醍醐帝が、怪しい坊主に入れ込んでいたという噂は鎌倉にも届いていた。
幕府へ向けて、怪しげな呪詛の儀式を延々行っているという報告で、正中元年には六波羅が動く事態にもなっていた。
「話は聞いていたが、今の鎌倉よりも酷そうだな」
「こちらで悪さしているのは、昨日の天狗のような連中だけだろう。後醍醐帝のようなでかい狂い――異形がいないだけ、まだまともだな」
異形の天皇――その言葉を、直義は胸の内で反芻した。
(幕府を呪う天皇なら、今までに幾らもいた。だがあの御方は……)
後醍醐帝は呪詛の儀式で咎めを受けただけでは足らず、七年たって、今度は土豪や悪党らへ号令を出し、幕府打倒の兵を挙げた。
失敗し囚われたものの、尋常な御方でないのは確かだった。
「あの天狗はなんだ? 後醍醐帝とつながっているのか?」
「山の奥に棲む異形の群れ……と言っても元は狩猟民だろうな。人としての法を捨て、奴ら独自の法で動いている」
国を見渡せば、朝廷に税を納めず、幕府の庇護の下にもいない民が、今も少なからずいる。
奥州の蝦夷や、西海を荒らす海賊はもとより、それとは別に、土地を捨てて漂泊する者、届けを出さず土地を開墾する者など、法を外れた民も『異形』や『悪党』と呼ばれることがある。
「案外、配所(流刑地)から文ぐらい運んでいるかもしれんが、基本はただのにぎやかしだ。地上が乱れると掻き回しに降りてくる。こう言っては何だが、今ほど面白い時はそうはなかろう」
確かに、東西を挙げての大きな騒乱は、頼朝公が天下を取った源平合戦以来、百五十年近くなかった。