番外編 10年後(前編)
カツカツと通路に響く靴音は、日頃よりもやや早いリズムを刻んでいる。
社交界の奥様方の心をがっちり掴んで離さない端麗な顔立ちに、気難しげな表情を浮かべて歩みを進めている年若い青年が、その音の根源だ。
前を見据える蜂蜜色の瞳には、隠しきれない戸惑いの念が窺える。
多少乱暴気味に濃紺のふわふわとした髪をかきあげ、身に溜まる苛立ちを少しでも外へ逃がそうと大きく息を吐く。
『お前に息子ができた』
凄まじい衝撃。
領地の視察中に父より突如として知らされたその一報は、独身のルーセリトを混乱の渦に陥れるに十分な威力をもっていた。
ルーセリトの弟であるウェルファが、父親より正式な公爵家当主の座を譲り受けてまだ間もない。彼を支えていくのが兄である自分の役目だと思っているし、事実、ウェルファはルーセリトの上司になるのだ。そんな彼より先に結婚するのはどうも後ろめたいと、婚約の話が持ち上がる度に断ってきたルーセリトである。
見た目こそは麗しい貴公子だが、前世の記憶持ちということで精神年齢は身体年齢よりも大分老けている。そんな自分が、同世代のご令嬢と結婚というのはちょっと考えられないというのも少なからずあるわけで。
一方ウェルファも、自身が尊敬してやまない兄より先に身を固めるのは弟としてあってはならないと考えているので、こちらも婚約すらしていない。
部下としての立場を重んじるルーセリトと、兄の顔を立てようとするウェルファ。
両者の意見は平行線を辿るばかりで、一向に解決の兆しが見えないでいた。
なんとも頑固な兄弟だと彼らの両者は常々頭を悩ませていたのである。
ルーセリトはあれやこれやと過去を振り返ってみるが、あり得ないと首を振る。
いずれにしろ、真相を確かめるためになんとしても父親に会わなければ。そのために急遽予定を切り上げて帰ってきたのだから。
「父上、失礼します」
返事も待たずに父の部屋の扉を開ける。普段は当たり前のようにしているノックすら忘れる始末だ。いかにルーセリトが動揺しているか分かる。
「先日のてが、み……」
しかし、一刻も早く事情を聞きたいルーセリトを裏切るかのように、いつもはそこにいるはずの父の姿が見あたらなかった。扉の先は静寂に包まれた空間のみが広がっている。
─あの野郎逃げやがったな!
ふざけんなクソジジイと叫びたくなるのを舌打ちで我慢する。
深く息を吸うことで心を落ち着かせようとしたが、その前に視界の傍らで蠢くものに気づき、ほぼ反射的にそちらへ顔を向けてしまった。
本棚と本棚の隙間に潜り込むように身を小さくし、ルーセリトを無感動な碧い瞳でじっと見つめてくる、5歳くらいの子供。
こえーよ。こいつこえーよ。
プチパニック状態のルーセリト。表情も動きもピリシと固まる。
「……」
「……」
双方ともに無言である。
その居心地の悪い緊張感を先に破ったのは、早々に立ち直ったルーセリトであった。
「…君の名前を教えてくれないか? 俺はルーセリトだ」
むやみやたらに近づくのはよくないと判断。その場にしゃがみこんで会話を試みる。
意識して声音を柔らかくし、表情も優しげに見えるよう微笑んだ。舌打ちをかました後のことなので無意味かもしれないが。
「……ラオ」
ぽつり、と。
聞き逃してしまいそうなほど小さく呟かれた彼の名前は、部屋の静かさも手伝い、しっかりとルーセリトの耳に届いた。
「ラオ、ね。うん。格好いい名前だ」
そして何より覚えやすいし呼びやすい。
近くに寄る許可を貰いラオの前まできたルーセリト。すぐ隣にある一人掛けの椅子など無用とばかりに絨毯が敷かれた床の上に座り込めば、ぎょっとしたように目を見張り、肩を揺らすラオ。
そんな彼の様子に小首を傾げるルーセリトだが、そう言えば時々、ウェルファも同じような顔をするなと思い出して微かに笑い声を上げた。そうすれば不思議と目の前の子供に親近感もわいてくる。
しかし幼いころのウェルファのようだ、とは言えまい。なにせ、昔のあの子はクソガキだったのだから。
「もしかして、俺の父上に連れてこられたのか? ほら、すこしぽっちゃりしてて気の弱そうなおじさん。分かるか?」
こくりと頷く仕草に庇護欲が働く。自分の息子というのがこの子供であることに薄々気付いてはいたが、ほぼ確定じゃないだろうか。
手入れをされていない金色の髪はグチャグチャに絡まっていて、生活環境の悪さをまざまざと伝えてくる。顔立ちは将来有望間違いなしだが、はっきり言って似ていない。
というか、この子はきっと養子だろうなとルーセリトはぼんやり思った。それもちょっと訳ありの。
現状、ルーセリトは確信出来るほどの情報を持ち合わせていないので、一番可能性の高いものとして考えていたのだが、その予測は見事に当たっていた。しかし、彼が詳しいことを知るのはまだ少し先の話である。
まずは警戒心を解いてもらなければ話せることも話せない。それに子供好きという一面もあり、ルーセリトは父親を探しに行くことよりもラオと親睦を深める方を選んだ。
ルーセリトが質問をし、ラオが一言返す。例え素っ気ない言葉でもルーセリトの機嫌が悪くなるようなことは起きず、むしろ穏やかに笑いながら相づちをうっていた。
それが幸をなしたのか定かではないが、段々とラオの言葉数も増えていき、ぎこちないながらも笑顔を向けてくれるようになった。
ルーセリトの見た目が優男だという点も少なからず影響してのことだろう。
我ながら便利な容姿である。
「遅くなってすまなかっ…」
ほのぼのとした二人の時間は、入室した瞬間ルーセリトの姿を見て顔色を蒼白に変えた彼の父によって終わりを告げた。
***
ルーセリトの予測通り、ラオは彼の養子として公爵家に迎えられていた。
元々、ラオは隣国の伯爵家の息子だったのだが、両親の様々な悪行や不正が明らかになったことで没落してしまい、その噂は国を超えてルーセリトの父の元まで届いたらしい。
なんでも、彼らはルーセリト一家と遠い親戚になるんだとかなんとか。
ラオの両親はとてもじゃないが人柄が良いとは言えず、ラオとの関係も決して良好とは言い難いものだったようだ。それはまあ、今のラオの身なりを見れば嫌でも分かる。
子に罪はないと主張したところで、周囲の負の感情が両親共にラオにも向いてしまうのは防ぎようのないことなのだろう。
まだ幼い、将来性に溢れた子供を大人達のくだらない欲望の果てに巻き込んだ挙げ句、これからのラオの人生が潰されるかもしれない状況に追いやられてしまったのだ。
そんな彼の後ろ盾は大きい方がいいとして、ルーセリトの父自ら名を上げたとのこと。
後先を考えろよとも思うが、それ以上に懐の深い父を非難するなど出来る筈もない。黙って事を進めたのはまた別として。
ルーセリトの中でも、ラオを受け入れる覚悟は出来ていた。事情を聞いてもそれは変わらない。
問題はラオ本人がどう思っているかである。
ここはど真ん中直球に、俺が新しい父親だとすっぱり告げるべきだろうか。それで泣かれでもしたら俺の方が泣ける。
きょとんと見上げてくるラオに苦笑いしながら、ルーセリトは口を開いた。
「君はもう、我が家の一員となっている。俺の息子としてだけどね」
「…………む、すこ?」
だよねー、そういう反応になるよね。
父よ、なぜラオに詳しく説明しなかったんだ。肝心な所で役立たずじゃないか。
「つまり、俺がラオの新しい父親ってことかな」
大きな目を更に見開いて動きを停止したラオと、満足そうに頷きを繰り返す父。
なに一件落着みたいな顔してんだと睨み付ければ父も身動きを止めた。気のせいだろうか、息も止めているように見える。あんた馬鹿だろ。
「もしラオが嫌だって言うなら、父上や俺の弟もいるぞ。あと母上も」
「いやだ!!」
俺の心のダメージがやばい。
「他の人はいやだ」
「え、そっち?」
ルーセリトの腰元にぎゅうっとしがみついて離れなくなったラオの様子に誰よりも驚いたのは父であった。
お前は一体何をしたんだと言いたげに視線を寄越してくるが、ルーセリトは肩をすくめて受け流す。
しかし懐かれることは素直に嬉しい。これなら上手くやっていけそうだとラオの頭をひと撫でした。




