8話
医務棟は負傷兵で溢れていた。
廊下まで簡易ベッドが並べられ、うめき声と消毒液の匂いが充満している。魔術師による治癒術と通常の外科処置が同時に行われていて、助手が走り回っていた。
俺は一つ一つのベッドの前で足を止めた。
「大丈夫か」
「元帥殿……。ええ、腕をやられましたが、命は」
「よく戦ってくれた。ありがとう」
兵士が驚いた顔をする。元帥に礼を言われることなど、想定していなかったのだろう。
「あの、元帥殿。包囲の時、本当に死んだ奴らが起き上がってきて——あれは何だったんですか」
「魔族の術師だ。もう倒したから、同じ手は使わせない」
「はあ……。あれは、マジで怖かったっす」
「俺も怖かった」
正直に言った。兵士がきょとんとしている。
元帥が「怖かった」と言うのは、たぶんこの世界では異例なんだろう。
でも嘘をつく気にはなれなかった。
次のベッドに移る。その次。その次。
三十人ほど見舞ったところで、俺の足が止まった。
ベッドの上に、若い女性が横になっていた。
銀髪。左腕に包帯。顔色が悪いが、目は開いている。
「リーゼ」
「……元帥殿」
リーゼは起き上がろうとした。
「寝てろ」
「平気です。切り傷と打撲だけですから」
「寝てろって言ってんだよ」
声が少し荒くなった。
リーゼが目を丸くして、それから——不承不承に枕に頭を戻した。
「……命令ですか」
「命令だ」
椅子を引いて、ベッドの横に座った。
「術師を倒してくれたおかげで、包囲が持ちこたえた。ありがとう」
「当然のことを——」
「当然じゃない。あの距離を魔族の中を突っ切って、術師を焼いたんだ。普通ならできない。リーゼだからできた」
リーゼが口をつぐんだ。
視線が天井を向いている。何かを堪えている顔だ。
「中隊の損害は」
「死者三名。負傷者十一名」
リーゼの声が硬くなった。
「——三人、死なせました」
「知ってる」
「私の判断が遅ければ——」
「逆だ。リーゼの判断が遅かったら、もっと死んでた。歩兵の犠牲はもっと増えてた」
リーゼが俺を見た。
「それでも三人——」
「うん。三人は、帰ってこない。それは事実だ」
沈黙が落ちた。
医務棟のざわめきが遠い。
「リーゼ」
「何ですか」
「あなたの作戦は正しかった。でも次は——犠牲をもっと減らす作戦を立てる。俺が」
リーゼの目が揺れた。
「……あなたの作戦は正しかったと、私も思います」
声が震えている。
「でも次は犠牲をもっと減らしなさい。——元帥として」
前と同じ言葉だ。でも、響きが違う。
最初は不信からの言葉だった。今は——期待からの言葉に変わっている。
「約束する」
リーゼが目を閉じた。
長い息を吐いた。
「少し……休みます」
「うん。ゆっくり」
椅子に座ったまま、リーゼが眠るのを見ていた。
寝息が聞こえ始める。緊張が解けた顔は、戦場の鬼とは思えないくらい幼い。
——二十歳だもんな。俺より年下だ。
こんな若い女の子が、前線で火を撃ちまくって、仲間の死を背負ってる。
……守らなきゃ。いや、違うか。守るんじゃなくて、この人が力を存分に振るえる戦場を作ることが、俺の仕事だ。
* * *
医務棟を出ると、ヘルガが廊下で待っていた。
壁に寄りかかって、紅茶のカップを持っている。こんな場所でも紅茶を手放さないのは、もはや才能だ。
「坊や」
「ヘルガさん。お見舞い?」
「見舞いは済んだわ。あなたを待っていたの」
ヘルガが紅茶を差し出してきた。
「飲みなさい。顔が死んでるわよ」
受け取った。温かかった。蜂蜜の甘さが喉に染みる。
「坊や、少し見直したわ」
「どこが」
「兵士の見舞いに一人ずつ回ったところ。それと——リーゼの前で『怖かった』と言えるところ」
「怖かったのは本当だし」
「だから見直したのよ。嘘をつけない元帥は、案外信頼できるかもしれない」
ヘルガの目が、からかいではなく、静かな評価の色をしている。
「ヘルガさん」
「何かしら」
「魔族の術師——あの黒い靄の術。あれについて分かることがあれば、教えてほしい」
ヘルガの表情が変わった。微笑が消える。
「あれは屍操術。死んだ魔族を一時的に動かす術よ。高度な闇属性の魔術で、人間側では使い手がいない」
「術師を倒せば止まる?」
「ええ。術者が死ねば術は解ける。ただし——」
「ただし?」
「あの術を使える魔族は、そう多くはないわ。だけど、ゼロでもない。今回は一体だったけれど、次は複数来る可能性がある」
嫌な情報だ。
「対策を考えないとな」
「ええ。それで——坊や」
ヘルガが微笑を取り戻した。
「あなたが魔術師団をどう使うか、もう少し見せてもらうわ。今日のところは——合格よ」
「合格? やった」
「まだ仮免許だけどね」
ヘルガが背を向けて歩き出す。
白金色の髪が揺れて、角を曲がって見えなくなった。
仮免許か。
まあ、昨日までは門前払いだったんだ。進歩だろう。
* * *
夜。
執務室で一人、地図を見ていた。
リーデル平原の会戦の結果をまとめた報告書。味方の損害。敵の推定損害。
百三十八人が死んだ。
俺の作戦で。
手が地図の上で止まる。
「……ゲームだったら、ここでセーブしてやり直すんだけどな」
誰もいない部屋で、独り言が漏れた。
戦死者名簿を手に取る。一人目。アーサー・ミルナー一等兵。二十四歳。ルーデン村出身。
顔は知らない。見舞い回りで会ったのは負傷者だけだ。死者にはもう会えない。
「……」
名簿を閉じた。
足音。
ガリウスが無言で入ってきて、俺の隣に立った。椅子に座らない。ただ立っている。
何も言わない。
でも、いてくれる。
それだけで——少しだけ、呼吸が楽になった。
「ガリウスさん」
「何でありますか」
「明日から、次の作戦を考える。敵は退いたけど、終わってない」
「御意。——閣下」
「うん」
「今夜は休んでください」
「……分かった」
頷いた。
ガリウスが一礼して、扉に向かう。
「ガリウスさん」
「何でありますか」
「ありがとう」
ガリウスが振り返った。
表情は変わらない。鉄面皮のままだ。
だが、「御意」の声だけは——今日一番、穏やかだった。




