5話
パンが硬い。
石かと思った。歯が折れるかと思った。
兵舎の食堂で、俺は兵士たちに混じって朝食を取っていた。硬いパン、薄いスープ、干し肉の切れ端。これが前線の朝飯か。
「元帥殿が食堂に来るなんて珍しい……っていうか、初めてじゃないですか」
隣に座った若い兵士が、遠慮がちに言った。
「将官は別室で食べるんだっけ?」
「ええ、まあ。普通は」
「俺はこっちでいいよ。つーか、このパン硬すぎない?」
「スープに浸して食べるのが正解です。そのまま齧ると歯が——」
「先に言ってくれ」
兵士が笑った。周囲の兵も、ちらちらとこちらを見ている。
昨夜の戦闘で、俺の指示を聞いた兵士たちだ。直接の面識はないが、「あの若い元帥の指示で配置が変わった」ことは伝わっているらしい。
「なあ、元帥殿」
別の兵士が声をかけてきた。三十代くらいの、日焼けした男。
「昨夜の側面からの敵、どうやって分かったんですか。真っ暗だったのに」
「ああ……えーと」
「見えた」と言うしかないんだが、それだと完全に怪しい人だ。
「……勘、ですかね」
「勘で二百の魔族を見つけるんですか」
「まあ、いい勘なんです」
誤魔化した。信じてもらえてるかは微妙だが、結果が出ているので深くは追及されない。
「でも元帥殿の指示、正確でしたよ。五十メートル地点に密集してるって——本当にその通りだった」
「あの魔術の一撃は凄かったな。一瞬で百匹以上吹っ飛ばしたぞ」
「魔術師団との連携も、今まであんなにうまくいったことなかった」
兵士たちの顔が明るい。勝った。それが大きいのだ。
前線で負け続けてきた彼らにとって、「勝てた」という事実は何よりの士気回復剤になる。
——十七人死んだけどな。
それは飲み込んだ。今この場で言うことじゃない。
* * *
食堂を出ると、廊下でリーゼとすれ違った。
リーゼは俺を見て、足を止めた。
俺も止まる。
「……おはよう、リーゼ」
「おはようございます、元帥殿」
声のトーンが、昨日とは違った。冷たいのは冷たいが、刃の向きが少し変わった感じだ。
沈黙が数秒続く。
リーゼが先に口を開いた。
「昨夜の指示は——」
間があった。
「悪くなかった、と思います」
顔はこちらを見ていない。横を向いたまま、廊下の壁を睨んでいる。耳の先がわずかに赤い。
——おっ。
デレ……ではないか。まだ全然デレてない。でも、昨日の「あなたには任せられません」から比べたら、これは進歩だ。
「ありがとう。リーゼの火力支援がなかったら、もっと犠牲が出てた」
「当然のことをしただけです」
「うん。でも当然のことを当然にできる人は少ないよ」
リーゼが一瞬、こちらを見た。
すぐに目を逸らした。
「……次は犠牲をもっと減らしなさい」
その声は、命令というよりは——願いに近かった。
リーゼは足早に去っていった。赤いマントが廊下の角に消える。
俺は一人で立ち尽くした。
——あの人、過去に何があったんだろう。
「犠牲を減らせ」という言葉の重さ。あれは昨夜の戦闘だけの話じゃない。
もっと前。もっと深い場所にある何か。
今は聞けない。信頼がまだ足りない。
* * *
午前中は戦後処理に追われた。
損害報告の確認。負傷兵の見舞い。戦死者の名簿の作成。
名簿を見ていると、胃の底が重くなる。十七の名前。それぞれに家族がいて、故郷があって、帰りを待っている人がいる。
——切り替えろ。
感傷に浸っても死者は戻らない。今やるべきは、次の戦いで犠牲をもっと減らすことだ。
午後。作戦会議。
ガリウスが戦況報告を行った。
「偵察部隊からの報告であります。魔族の主力がリーデル平原に集結しつつあります。推定兵力は五千から八千」
将官たちがざわめいた。
「五千だと……夜襲の十倍以上じゃないか」
ヴァレンティン伯が青い顔で言う。
「籠城するしかない。要塞に籠もって援軍を待つべきだ」
他の将官たちも頷く。
俺は地図を見ていた。
リーデル平原。要塞の東に広がる、開けた野戦地。ここに敵が集結しているということは——
「打って出よう」
全員がこちらを見た。
「……は?」
ヴァレンティン伯が目を剥いた。
「正気か? 五千以上の敵に、こちらから?」
「籠城しても兵站が持たない。補給線の問題は昨日話した通りです。三ヶ月以内に魔術触媒が尽きる。長期戦になったら負けるのはこっちだ」
「だからといって——」
「逆に聞くけど、ヴァレンティン伯。籠城して、何ヶ月持ちます?」
伯が口をつぐんだ。
ガリウスが静かに補足した。
「現在の備蓄で、三ヶ月の攻囲に耐えることは困難であります」
「でしょ。だったら、向こうが集結を完了する前に叩く。敵が準備万端になってからじゃ遅い」
「作戦は?」
「ある。考えてきた」
俺は地図に指を置いた。
「機動防御。正面は薄く張って敵を引き込み、側面から包囲する。騎兵を使った二重包囲——カンナエの戦い、って言っても分からないか。えーと、要するに」
——古代ローマの教科書的な包囲殲滅戦。
この世界にローマはないが、戦術の原理は同じだ。
「敵を正面で受け止めて、左右から挟み込む。魔術師団を機動火力として使う。敵が気づいた時にはもう囲まれてる——という形」
沈黙が降りた。
将官たちが顔を見合わせている。
リーゼが——いつの間にか会議室の隅に立っていた——一歩前に出た。
「……理にかなっています」
全員がリーゼを見た。
「魔術師団を機動運用するのは前例がありませんが、私たちにはその機動力がある。従来のように固定陣地に貼りつけるより、はるかに効果的です」
ヘルガが後ろで微笑んだ。
ヴァレンティン伯が歯噛みしている。
リーゼが俺を見た。
「ただし条件があります」
「何?」
「私の部下を捨て駒にしないこと。それだけは——絶対に」
その声は揺れなかった。
「約束する」
俺も揺れなかった。
* * *
会議が終わった後、ガリウスと二人で廊下を歩いていた。
「ガリウスさん」
「何でありますか」
「正直、勝てると思う?」
「分かりません。しかし——」
ガリウスが足を止めた。
「閣下の戦術眼は、前任の元帥にはなかったものであります」
初めて聞いた、明確な称賛。
「ただし」
「ただし?」
「戦場は、地図の通りには動きません。それだけは覚えておいていただきたい」
忠告。これも初めてだ。
「……肝に銘じる」
ガリウスが小さく頷いた。
あの鉄面皮に、ほんのわずか——本当にわずかに——信頼の色が見えた気がした。




