11話
森の匂いが重い。
落ち葉と腐葉土と、何か——甘ったるい、けれど不穏な匂いだ。
俺はネーベル森林の西端、木々が開けた場所に陣取っていた。ガリウスと護衛の騎兵小隊が周囲を固めている。
森の中に、リーゼが入っていった。精鋭十五名を引き連れて。
もう三十分が経つ。
目を閉じる。俯瞰を起動する。
森の外の状況は見える。三つの出口すべてに歩兵を配置済み。今のところ、魔族が出てくる気配はない。
森の中は——やっぱりダメだ。靄がかかったような映像しか得られない。リーゼたちの位置すら正確には分からない。時折、青い点がちらりと見えるが、すぐにノイズで消える。
「……頼む」
独り言が漏れた。
ガリウスが隣で無言のまま立っている。
伝令が走ってきた。
「報告であります! 南の出口付近で、魔族の小部隊が森を出ました! 百ほど!」
「応戦しろ。配置済みの歩兵で十分だ。他の出口は動きなし?」
「ありません!」
「了解。引き続き監視」
小規模な陽動か、それとも偵察か。本隊はまだ森の中にいる。
俯瞰で確認する。南の出口で小競り合いが始まっている。歩兵が対応中。問題ない。
——リーゼ。
森の中は見えない。音も聞こえない。
信じて待つしかない。
戦場で一番苦しいのは、待っている時間だ。
* * *
一時間が経った。
突然、森の奥から轟音が響いた。
炎。
木々の上から赤い光が噴き上がった。黒い煙が立ち昇る。
「あれは——」
「リーゼロッテ殿の炎であります」
ガリウスが即断した。あの規模の火属性魔術を使えるのは、リーゼだけだ。
術師を見つけた。戦闘が始まっている。
目を閉じる。俯瞰で森の中を見ようとする。
ノイズ。ノイズ。ノイズ。
——だが、炎の周辺だけ、ほんのわずかにノイズが薄い。
火が魔術的干渉を燃やしているのか? 理屈は分からない。だが、炎の近くだけ、赤い点がちらりと見える。
リーゼの部隊を囲むように、魔族がいる。二十——三十——もっとか。
「まずい。囲まれてる」
ガリウスに告げた。
「リーゼの部隊が魔族に囲まれかけてる。三十以上」
「応援を——」
「歩兵を森に入れたら、もっと混乱する。でも——」
考えろ。
俺に何ができる。森の中は見えない。だが森の端なら見える。
「ガリウスさん。俺、もう少し森に近づく」
「閣下!」
「森の端まで行けば、もう少し中が見えるかもしれない。リーゼを誘導できるかもしれない」
「危険であります」
「分かってる。でもここにいても何もできない」
ガリウスが一瞬だけ目を閉じた。
それから目を開けて、俺の前に立った。
「先導いたします。自分の後ろから出ないでください」
ガリウスの背中が、壁みたいにでかかった。
* * *
森の端。
木々の間に体を滑り込ませる。ガリウスが剣を抜いて前に立つ。護衛の騎兵が馬を降りて周囲を固める。
目を閉じる。俯瞰を起動する。
——近い。
森の中のノイズが、さっきより少しだけ薄い。距離のおかげだ。
リーゼの部隊が見える。かろうじて。青い点が十五——いや、十二。三人減ってる。
周囲の赤い点は——増えてる。四十以上。
そして、赤い点の中に、ひときわ大きなノイズの塊がある。
術師だ。まだ生きてる。
「リーゼ!」
叫んだ。声が届くわけがない。二百メートル以上離れている。
だが——
「伝令! 森の中に声を送れないか!?」
護衛の兵の一人が前に出た。
「拡声の魔術陣符があります。声を増幅する術です」
「使え! 今すぐ!」
兵士が腰から符を取り出し、展開した。青白い光が俺の喉元に収束する。
「リーゼ! 聞こえるか!」
声が魔術で増幅されて、森の中に響き渡った。
反応がある。俯瞰の中で、青い点が一瞬止まった。聞こえた。
「術師の位置は、お前の北西三十メートル! 大きな樫の木の裏! そこを焼け!」
リーゼが動いた。
青い点が北西に向かって突進する。魔族が立ちはだかる。炎が閃く。赤い点が消える。
さらに進む。
樫の木——俯瞰でノイズの塊が見える場所。
リーゼの炎が走った。
爆発。
ノイズの塊が、消滅した。
「……やった」
目を開ける。森の奥から、もう一度炎が噴き上がる。勝利の炎だ。
だが、同時に——
「閣下! 左方!」
ガリウスの怒号。
森の中から、灰色の影が飛び出してきた。魔族だ。五体。
俺たちの位置を嗅ぎつけたらしい。
ガリウスが剣を振るった。
一閃。先頭の魔族の首が飛んだ。
二体目がガリウスに飛びかかる。巨体同士がぶつかる。ガリウスが受け止め、押し返し、斬り伏せた。
三体目。護衛の騎兵が二人がかりで仕留める。
四体目——こちらに来た。
俺の正面。
赤い目。灰色の腕。爪が光る。
体が動かない。足が地面に貼りついたみたいだ。
——逃げろ。
だが逃げるより早く、炎が横から飛んできた。
魔族が一瞬で黒焦げになり、俺の一メートル手前で崩れ落ちた。
熱風が顔を叩く。
振り向く。
森の中から、銀髪の女が走ってきた。両手に炎を纏い、赤いマントが風に舞っている。
リーゼ。
軍服は汚れ、顔に煤がついている。左腕から血が滲んでいる。包帯の下の傷が開いたのか。
だが目は燃えていた。
「元帥殿! ご無事ですか!」
「……ああ。助かった」
声が震えた。情けないが、今にも膝から崩れそうだった。
リーゼが俺の前に立った。まだ警戒を解いていない。森の中をにらみつけている。
護衛の騎兵が残りの魔族を掃討し終えた。
「森林内の術師は撃破しました。残敵は散開して撤退中です」
リーゼが報告した。声が震えている。疲労と負傷を押し殺している。
「リーゼ。腕——」
「大した怪我ではありません」
嘘つけ。血がぼたぼた垂れてるじゃないか。
「医務兵!」
「不要です——」
「これは命令だ。座れ」
リーゼが口を開いて、閉じて。
ゆっくりと、木の根元に座り込んだ。
安堵で力が抜けたのかもしれない。
俺は自分のマントを脱いで、リーゼの肩にかけた。彼女が何か言いかける前に。
「寒いだろ」
「……別に」
「体が震えてるぞ」
リーゼが黙った。
医務兵が駆けつけて、リーゼの腕を処置し始めた。
俺はリーゼの横に座った。木の幹に背を預けて、空を見上げた。
森の天蓋の隙間から、空が見える。青い。
「リーゼ」
「……何ですか」
「ありがとう。命を助けてくれた」
リーゼは答えなかった。
横を向いている。顔が見えない。
だが、耳の先が——真っ赤だった。




