1話
石の冷たさが背中に刺さった。
硬い。やたらと硬い。
なんだこれ、ベッドじゃないのか。いやベッドではある。ベッドらしき構造物の上に寝かされているのは分かる。けど、マットレスの概念が三百年くらい手前で止まってる感じの硬さだった。
目を開ける。
天井が高い。石造りの、やたらと重厚な天井だ。梁には彫刻が施されていて、燭台の明かりが揺れている。
——LED照明じゃない。
その一点で、桐谷タケルは自分が「ここではないどこか」に来たことを確信した。
起き上がる。頭がずきっと痛む。二日酔いみたいな、脳みそを絞られるような感覚だ。周囲を見回すと、部屋は広い。石壁に織物のタペストリー。窓の外から差し込む光は柔らかく、鳥の声が聞こえる。
テレビがない。エアコンがない。コンセントもない。
代わりに、豪華な木製の机と、燭台と、鎧が一式飾られた壁と——
「お目覚めになりましたか」
低い声。
振り向くと、扉の前に男が立っていた。灰色のひげを蓄えた、巨大な体格の中年男性。軍服らしき堅い服装で、背筋がまっすぐ伸びている。
威圧感がすごい。ラスボスかと思った。
「あ……えーと。ここ、どこっすか」
我ながら間抜けな第一声だった。
男は微動だにせず答える。
「グランデル王国、ヴァルトハイム王宮の貴賓室であります。自分はガリウス・ヴェーバー准将。閣下の副官を拝命いたしました」
閣下。
……閣下?
「いや、待って。俺、大学生なんですけど」
「そのようなお話は伺っております。しかし、国王陛下のご決定であります」
ガリウスと名乗った男の表情は、コンクリートみたいに固かった。
* * *
事態を整理するのに、三十分ほどかかった。
ガリウスに連れられて廊下を歩きながら——廊下がまた無駄にでかい。天井から下がるシャンデリアは蝋燭式で、石壁には甲冑が並んでいる。RPGの城そのものだ——聞いた話を頭の中でまとめる。
一、ここは異世界。地球じゃない。
二、俺はどういうわけかこの世界に転移してきた。
三、転移の直前に「神託」があったらしい。内容は「異界より優れた指揮官が来る」的なやつ。
四、で、その指揮官として、俺が王国軍の元帥に任命される。
——マジか。
いやいやいや。元帥って。ナポレオンとかロンメルとかのやつだぞ。軍の最高指揮官。それを大学生にやらせるのか。いくら神託でも頭おかしいだろ。
「……あのさ、ガリウスさん」
「なんでありますか」
「元帥って、本当に俺がやるの? もっと適任の人いるでしょ」
「前任の元帥は三ヶ月前に戦死されました。後任の選定が難航しておりました」
ガリウスの声に感情は乗っていない。事実を述べているだけだ。
「貴族将官はそれぞれの派閥を優先し、統一指揮が取れない状態が続いております。そこへ神託が下りました」
「だからって異世界人を……」
「国王陛下は、しがらみのない外部の人間を求めておられたのかと。自分はそう解釈しております」
つまり政治的判断か。神託を口実にした人事改革。
軍オタ的には理解できなくもない。歴史上、外国人を招聘して軍の改革をした例はある。プロイセンのシャルンホルスト改革とか。
でもあれは外国人であって、異世界人じゃないんだよな。
「ガリウスさん、正直なところ聞いていい?」
「何でありますか」
「この人事、どう思う?」
ガリウスが足を止めた。初めて、その巨体がわずかに振り返る。
「自分の所感を申し上げるなら——」
間があった。
「まだ判断の材料がございません」
正直だった。好感が持てる。
* * *
謁見の間に通された。
広い。馬鹿みたいに広い。大理石の床に赤い絨毯が敷かれ、両脇に近衛兵が並んでいる。その奥に玉座。
玉座に座っているのは、四十代後半くらいの男性だった。白髪交じりの短髪に、鋭いが疲れた目。威厳はあるが、余裕がない。窮地にある指導者の顔だ。
「来たか。異界の客人よ」
国王アルドリック三世。
ガリウスが片膝をつく。俺もそれに倣った。膝のつき方が分からなくて、微妙にぎこちない。
「楽にしてよい。形式は後でいい」
国王の声は意外なほど実務的だった。
「桐谷タケル——と申すのか。我が国は今、存亡の危機にある。率直に話そう」
アルドリックが立ち上がり、横の壁に掛けられた巨大な地図を指す。
「東の魔族連合が侵攻を開始してから二年になる。我々は国境のフェルゼン要塞を中心に防衛線を築いているが、戦線は膠着——いや、正直に言えば徐々に押されている」
地図を見る。
——おっ。
軍オタの血が騒いだ。大陸の西側に王国、東側に魔族領。中間に山脈と平野。要塞の位置、河川、森林。地図の情報量は豊富だった。
「魔族は身体能力で我々を上回る。夜間の視力、再生力、そして数だ。我々は魔術師団の火力と要塞線で対抗しているが、限界が近い」
「魔術師団って、女性だけの部隊ですよね」
口が勝手に動いた。ガリウスがちらりとこちらを見る。
アルドリックの目が一瞬細くなった。
「……ほう。すでにそこまで知っているか」
「いえ、さっきガリウスさんに聞いただけっすけど。魔法が女性限定ってのは、戦力構成にかなり影響しますよね。魔術師の損耗率はどのくらいですか」
また口が走った。止まらない。
「あと、補給線の状態も気になります。要塞が前線ってことは、後方からの輸送距離が……この地図の縮尺だと、結構遠いですよね」
沈黙が落ちた。
ガリウスが石像みたいに固まっている。近衛兵たちが微妙にざわめく。
国王だけが、不思議そうにこちらを見ていた。
「……面白い質問をするな」
怒られるかと思った。が、アルドリックは笑った。疲れた、けれど本物の笑みだった。
「元の世界でも軍人だったのか」
「いえ、ただの軍事オタクです。……趣味で戦術とか戦史とか勉強してるだけの一般人です」
「オタク、とは」
「えーと。好きすぎて詳しい人、みたいな……」
異世界語に「オタク」の概念がないことに気づく。翻訳されないのか、この言葉。
アルドリックは気にせず続けた。
「よかろう。桐谷タケル、貴殿を王国軍元帥に任ずる。異界よりの神託に基づき、全軍の指揮権を委ねる」
重い。
一言が、とてつもなく重い。
「……本気ですか」
「本気でなければ、このような茶番はしない。貴殿がどれほどの人物かは、まだ分からん。だが——今の我が国に、失うものは少ない」
失うものが少ないから賭ける。
追い詰められた国家の判断としては、合理的だ。
「分かりました」
自分の声が思ったより静かだった。
「やります。やれるかどうかは分かりませんけど、やらないよりはマシだと思うんで」
アルドリックが頷いた。
「ガリウスを副官につける。優秀な男だ。信頼してよい」
ガリウスが一礼する。「御意」
——この人、本当に台詞が短いな。
* * *
謁見が終わり、あてがわれた執務室に戻る。
机の上に地図が広げられ、報告書の束が積まれていた。ガリウスが手配してくれたらしい。仕事が早い。
椅子に座って、息を吐く。
元帥。
おれが、元帥。
……マジか。
頭の中は混乱しているはずなのに、不思議と手が地図に伸びた。軍オタの性だ。目の前に本物の戦場地図があるのに触らないなんて、無理だ。
「フェルゼン要塞が主防衛拠点。東に広がるリーデル平原が主戦場。北東のネーベル森林が奇襲ルート……」
指でなぞりながら呟く。
報告書を手に取る。部隊編成、兵力、補給状況。文字は異世界語だが、なぜか読める。転移の副作用か何かだろう。深く考えないことにする。
「ガリウスさん、一つ聞いていい?」
「何でありますか」
「この補給線、途中に渡河点が一箇所しかないんだけど。ここ押さえられたら終わりじゃない?」
ガリウスの眉が、微かに動いた。
「……ほう」
初めて聞いた、感心の「ほう」だった。
「ご慧眼であります。実はその渡河点の防備強化は、前任の元帥が着手する前に——」
言葉を切った。
前任の元帥が死んだ。その話の続きは重い。
「今は手薄であります」
「じゃあ最優先で手を打たないと。敵に気づかれる前に」
ガリウスが無言で頷く。その沈黙の中に、何か——評価の変化みたいなものが混ざっている気がした。
読み過ぎか。
まだこの人の表情を読むのは早い。
報告書を読み続ける。兵力の数字、魔術師団の配置、敵の推定戦力。情報は膨大だ。だが、不思議と頭に入る。数字を見て、配置図を見て、地図と照合して——
——あれ。
突然、視界が変わった。
違う。視界そのものは変わっていない。目は報告書を見ている。
だが頭の中に、別の映像が流れ込んできた。
上空から見下ろすように——ヴァルトハイムの全景が広がった。
城壁。大通り。兵舎。倉庫。馬場。城門の前に立つ衛兵。市場で買い物をする市民。路地を走る猫。
全部が、同時に、見えた。
「——っ!」
椅子から転げ落ちそうになる。
机に手をついて体勢を保つ。心臓がやたらうるさい。こめかみの奥がじんと痛む。
「閣下! お体に障りましたか」
ガリウスが即座に駆け寄る。
「いや……大丈夫。大丈夫だと思う」
目を押さえる。映像はもう消えている。だが、今見たものの残像がまだ頭に残っていた。
ヴァルトハイムの全景。建物の配置。人の流れ。兵の位置。
まるでリアルタイムストラテジーのゲーム画面みたいに。
「……なんだ、今の」
手が震えている。心臓はまだドキドキ言ってる。頭の奥がぼんやり重い。
だが、怖さよりも先に来たのは——
「……これ、もしかして」
戦場全体が、見える能力?
地図を見る。さっきの映像と照合する。城壁の位置、兵舎の配置、全部正確だ。
——マジかよ。
軍オタが異世界で元帥になって、戦場を俯瞰するチート持ち。
なんだそれ。なろう小説かよ。
いや、なろう小説だとしたらもうちょっと美少女に囲まれてるはずだ。今のところ俺の隣にいるのは、クマみたいにデカい中年の准将だけである。
ガリウスが心配そうにこちらを見ている。心配そうっていうか、ポーカーフェイスのまま微動だにしないんだが、たぶんあれは心配の表情だ。たぶん。
「ガリウスさん」
「何でありますか」
「……前線に行こう。明日にでも」
言ってから、自分でも驚いた。
だが、口をついて出たのは本心だった。
この能力がどこまで使えるか、確かめたい。地図と報告書だけじゃ分からない。
目で見て、足で歩いて、この世界の戦場をこの体で知りたい。
——その衝動を、軍オタは止められなかった。
「明日は早うございます。準備に二日は——」
「じゃあ明後日。それ以上は待てない」
ガリウスが俺を見た。
長い沈黙の後、巨体がわずかに動いた。
「……御意」
その「御意」は、さっきまでとは少しだけ違う響きだった。




