表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者を奪われましたが、前世の知識で幸せを取り戻します  作者: 絵宮 芳緒


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/37

第9話|甘言の夜、静かな転落のはじまり

夜更け。

街の目抜き通りからひと筋外れた、名も目立たぬ小さな宿の一室。


厚手のカーテンが外界を遮り、灯されたランプの光だけが、柔らかく揺れている。


「まあ……本当に? そのようなことを、わたくしのために?」


ローザリアは両手を胸元で重ね、驚いたように目を見開く。

だがその奥には、抑えきれぬ喜悦が滲んでいた。


向かいに腰を下ろすオスカーは、満足げに笑う。


「当然だろう。君は、それだけの価値がある」


そう言うと、ローザリアはゆるやかに立ち上がり、彼の傍らへと歩み寄る。


白い指先が、そっと彼の頬へ触れる。

そのまま、親指がゆるやかに撫で下ろした。


「……お優しいのですね」


触れたまま、距離を縮める。

吐息がかかるほどに。


「ですが……ご婚約者のアマーリエ様は?」


甘く囁く声音。

試すようでいて、縋るようでもある。

オスカーは軽く肩を竦めた。


「形式上のものだ。いずれ、すべては整う」


何の迷いもない声音。

ローザリアはその胸元へ身を預けるように寄り添い、静かに笑った。


「……信じておりますわ」


――信じる、と言いながら。

“整う”とは何か。

いつ、誰が、どう整えるのか。

確約は、ひとつもない。

だがそれでいい。

今は。


未来は約束よりも、既成事実で作ればいい。



卓上には、新たに贈られた宝石箱が置かれていた。

蓋は閉じられたまま。

中身はまだ明かされない。


灯りを受けて、冷ややかに光る。

それは愛の証のようでいて、いつか“証拠”にもなり得るものだった。


オスカーは気づかない。

彼女の香水が、深く衣に染みついていることも。

紅の淡い跡が、襟元に残ることも。


その夜、彼は満ち足りていた。

自分が選ぶ側であり、

戻る場所はいつでもあると――疑いもせずに。


ローザリアの指が、彼の手を取り、奥の寝台へと導く。

ランプの灯りが、揺れた。




だが――

同じ頃。

重厚な扉の奥、静まり返った書斎。


暖炉の火はすでに落ち、残るのは机上の燭台の灯りだけだった。

紙がめくられる、乾いた音。


一枚。

また一枚。

報告書には、簡潔な文字が並ぶ。


――街外れの宿。


――同一人物、複数回確認。


――宝飾店にて高額購入。


燭台の光が、机に落ちる宝石商の領収証を照らす。

男は、ゆっくりと息を吐いた。


「……浅い」


低く、感情の削ぎ落とされた声。


オスカーの父は、椅子に深く背を預ける。


怒鳴りもしない。

机を叩きもしない。

ただ、理解している。


これは“恋”ではない。

“隙”だ。

そして、隙は利用される。


彼は呼び鈴を鳴らした。

控えていた執事が、音もなく現れる。


「宝飾店の店主を押さえろ。記録はすべて写させる」


「は」


「宿の主人にもだ。口止めは必要ない。…覚えておけ。

我々は、まだ動いていない


静かな命令。

まだ、だ。


追い詰めるのは一気ではない。

逃げ道を残し、安心させ、

自ら深みに入らせる。


男の視線が、報告書の一文に落ちる。


――香水の匂い、顕著。

わずかに、口元が歪んだ。


「若いな」

だがその目は、冷えている。


甘言の夜は終わる。

気づかぬうちに、

包囲は始まっていた。




数日後。

グラーツ侯爵家、本邸。


「……父上が?」


呼び出しを受けたオスカーは、わずかに眉を寄せた。

最近は忙しい。

いや――忙しくしている、という方が正しい。


執事は感情を見せずに告げる。


「至急、とのことです」


書斎の扉を開けると、父はすでに椅子に腰かけていた。


「来たか」


低い声。

怒気はない。

それが、かえって重い。


「近頃、外出が多いようだな」


「……社交の一環です」


即答。

父は机上の紙を指先で整える。


「ベルク子爵家の娘と、頻繁に会っていると聞く」


空気が、凍る。

だがオスカーは笑った。


「噂でしょう。多少、言葉を交わしただけです」


父は視線を上げる。


「宿の名まで上がっている」


一拍。

沈黙。

オスカーの喉が、わずかに鳴る。


「……誰が、そんなことを」


「問題はそこではない」


父は静かに言う。


「お前は、何をしている?」


問いは単純。

だが逃げ場がない。


オスカーは、苛立ちを隠さず言い返す。


「私は、選ばれる立場ではありません。いずれ婿入りする身です。多少の自由は――」


「自由だと?」


初めて、父の声が低く沈んだ。


「家の名を背負いながら、か」


机上に、宝石商の領収証が置かれる。


「これは何だ」


オスカーの視線が揺れる。

だがまだ、折れない。


「贈り物です。それだけのこと」


父は目を細める。


「それが、どこへ流れるかも考えずにか」


沈黙。

そして、決定打。


「アマーリエ嬢は、何と申すか…」


その名が出た瞬間、

オスカーの表情がわずかに歪む。

父はそれを見逃さない。


「……軽挙は慎め。次はない」


その一言で、会話は終わった。


だが――

オスカーは理解しない。


“叱責”だと思っている。

“警告”ではなくーー





グラーツ家とは対照的な、穏やかな午後。


アマーリエの屋敷では、クララが静かに紅茶を注いでいる。

庭には冬薔薇。

マリアンネの笑い声。

だがーー


「……最近、オスカー様からのお便りは?」


母の問いに、アマーリエは一瞬だけ視線を落とす。


「お忙しいのでしょう」


微笑みは、崩れない。

その時。


「ご報告がございます」


家令が一礼し、封書を差し出す。

差出人は不明。

中には、簡潔な一文。


――街外れの宿にて、侯爵家次男を目撃。


アマーリエは、読み終えても顔色を変えない。


だが。

カップの中の琥珀色が、わずかに揺れた。

ティーカップを持つ指先だけが、わずかに震える。


「……そう」


短い一言。

それだけ。

静かだ…あまりにも。





同じ頃、王城ーー


「グラーツ侯爵家の次男が?」


レオンハルトは報告を受け、微笑する。


「ほう……面白い」


机に置かれたのは、宝石の目録写し。


「若さは…罪だな」


側近が問う。


「いかがなさいますか」


レオンハルトは椅子に深く腰をかける。


「もう少し、様子を見てみよう」


同じ言葉でも、意味は違う。


「だが、証は集めておけ」


ゆっくりと指先で机を叩く。


「家を守るためなら、旧知の情も切る。……そういう男だ、グラーツ侯爵は」


レオンハルトは笑う。


「では、息子を揺さぶるとするか…」


甘言の夜は、盤上へと置かれた。


それはもう、恋ではない。


――“駒”だ。





登場人物




アマーリエ・フォン・ヴァイスベルク

(17歳)

侯爵家ヴァイスベルク家の長女で、正式な跡継ぎ。

婿入り前提で婚約していたが、婚約破棄をきっかけに前世の記憶を思い出す。

前世は50代独身の栄養士。

感情に流されず、現実的で観察眼が鋭い。

料理と体調管理の知識を活かし、領地と人を立て直していく。

見た目は落ち着いた美貌だが、内面はかなり肝が据わっている。




レオンハルト・アルベルト・フォン・アウレリア

(26歳)

現国王の弟で、国内外から一目置かれる存在。王位継承権第三位。

武勇と知略を兼ね備えた人物だが、私生活は驚くほど質素。

必要以上に己を飾らず、物事の本質を見る目を持つ。




マリアンネ・フォン・ヴァイスベルク

(14歳)

侯爵家ヴァイスベルク家の次女。

アマーリエの妹で、姉を素直に慕っている。

婚約破棄後も変わらず姉の味方。

年相応の明るさと、貴族令嬢としての教育を受けた聡明さを併せ持つ。




オスカー・フォン・グラーツ

(17歳)

侯爵家グラーツ家の次男。

跡継ぎではなく、立場を主人公の家に頼る形で婿入り予定だった。

自尊心は高いが実力が伴わず、

甘言に弱く、楽な方へ流されやすい性格。

自分が「選ばれる側」だと思い込んでいた。




ローザリア・フォン・ベルク

(17歳)

ベルク子爵家の令嬢。

美貌と愛想を武器に、オスカーに近づいた張本人。

向上心は強いが、現実の身分差や貴族制度を甘く見ている。

自分の行動がもたらす結果を、深く考えないタイプ。




エルンスト・フォン・ヴァイスベルク

(48歳)

ヴァイスベルク侯爵家当主。

暗いグレーブラウンの髪に、鋼のようなグレーの瞳を持つ。

寡黙で理性的な人物で、感情を表に出すことは少ない。

言葉よりも行動と姿勢で示す、典型的な当主タイプ。

長女アマーリエを「娘」としてだけでなく、正式な後継者として見ており、

家の未来を託す相手として厳しくも一貫した態度を取っている。




ルイーザ・フォン・ヴァイスベルク

(42歳)

ヴァイスベルク侯爵夫人。

柔らかな栗色の髪と、優しいヘーゼルの瞳を持つ。

常に穏やかな微笑みを浮かべているが、感情を過度に表に出すことはない。

人をよく観察し、言葉にせずとも状況を把握する聡明さを備えており、

社交界では静かに一目置かれる存在。

家族を前に出すことなく、背後から支える母である。




ヴァルター・フォン・グラーツ

(48歳)

グラーツ侯爵家当主。

寡黙で理知的。家門の繁栄を最優先とする現実主義者だが、冷酷というよりは“重責を背負う者の覚悟”を持つ男。

若き日にはヴァイスベルク侯爵と親しく交わり、互いの力量を認め合った仲でもあった。

次男オスカーを有力侯爵家へ婿入りさせることで、家の未来を盤石にしようと考えている。

息子の未熟さには気づいているが、それでも「いずれ自覚するはずだ」と、どこかで信じている。

だが――家を危うくする選択をしたならば、情を切ることも辞さない。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ