第40話|溺れるほどに
静まり返ったアマーリエの執務室に、灯りがひとつ。
今日も侯爵邸を訪れていたレオンハルトは、まだアマーリエの手を離していなかった。
覚悟も、王の了承も、侯爵家の決断も告げた。
そして――彼女は逃げなかった。
「……手を」
小さく言いかけた瞬間。
「この手を離す理由があるか?」
即答だった。
真顔で、距離が近い。
近い、近過ぎるのだ。
(無理、無理、無理、無理!近い近い近い近い!)
アマーリエの前世である、五十年分の理性が、悲鳴を上げている。
「王弟殿下……」
「今は、レオンハルト……だ」
低く、穏やかに訂正される。
その声音が、反則だ。
「……そなたは、逃げなかった」
「逃げませんと申し上げました」
「だから私は……」
そこで、ほんの一瞬だけ声が変わった。
あの二度の誘拐の恐怖、酩酊させられた夜、そして失うかもしれなかった瞬間の重み――
全てがレオンハルトの胸に蘇る。
胸の奥で小さく震える心臓を感じながら、レオンハルトは決意を固める。
「……俺は、止まれない」
手を握り直し、視線は揺るがない。
「もう二度と、そなたを失いたくないからだ」
視線だけで伝わる熱さ。口には出さない言葉が、指先の力や握り方にすべて込められている。
距離が、さらに縮む。
手は繋がれたまま。
親指が、そっと彼女の甲を撫でた。
触れるだけで、心の距離も一瞬で近づくのを感じるアマーリエの鼓動が跳ねる。
(これ、恋人繋ぎってやつでは……?
いや違う違う違う!
まだ指は絡んでない、でも時間の問題では??)
心臓が、限界突破する。
「そなたは、大公妃になる覚悟を決めた」
「はい」
「ならば私は」
視線が、真正面から絡む。
「全力で、そなたを甘やかす覚悟を決めた」
「…………は?」
甘やかす?
王弟が。
真顔で?
国家機密を告げるみたいな顔でーー
「覚悟を決めた女を、独りで立たせるつもりはない
低く、静かで、 でも、熱を孕んでいる声音。
「並び立つと言った。ならば並ぶ」
「……」
「だが……」
指先に力がこもる。
「そなたの頬が赤くなるのを見るのは、私の特権だ」
(破壊力!!!!)
顔が熱い!絶対に赤い!
前世オタク五十代、ほぼ耐性ゼロなのに。
推しに真顔で囁かれたら、即死するタイプである。
「お、王弟殿下は、少し距離を――」
「嫌だ!」
即答。
しかも少し笑った。
ずるい。
「……そなたが覚悟を決めた以上、私は遠慮しない」
「遠慮……」
「今まではしていた」
「え?」
「していた」
さらりと言う。
「触れたいと思っても触れなかった。名を呼びたくても抑えた」
息が詰まる。
「だが、もう……いいだろう」
指先が、ゆっくりと動く。
今度は――
(あ、これ完全に恋人繋ぎになるやつ)
指が絡む。
思考だけが叫ぶ。
(合法!!合法だけど心臓が違法!!!)
「……手が冷えているな」
「緊張しているだけです」
「なら、私が温めよう」
当然のように言うな!
レオンハルトは、彼女の手を包み込むように握り直す。
「そなたは強い」
低い声。
「だが、強いからといって甘えぬ理由にはならぬ」
視線が優しい。
優しいのに、逃げ場がない。
「私の隣に立つと決めたのなら」
ほんのわずかに額が近づく。
「俺の隣で、俺に甘えろ」
(俺出たーーーー!!)
王弟レオンハルト、タガが外れた瞬間だった。
アマーリエの理性が爆散する。
「……っ」
「嫌か?」
不安ではない、確認だ。
対等な問い。
アマーリエは、ゆっくり息を吸う。
「……嫌では、ありません」
「では?」
「……慣れておりません」
正直に伝えると、レオンハルトは僅かに目を細めた。
「なら、慣れればよい」
簡単に言うな!
「私は、そなたが慣れるまでいくらでも待てる」
でもーー
「だが、今は離さない」
やっぱり離さない!
手は、しっかりと繋がれたままだった。
逃げ道はない。
けれどーー
(嫌じゃない)
むしろーー
(……嬉しい)
胸の奥が、静かに熱を持つ。
救われるのではない。 支えられるのでもない。
並ぶのだ。
その覚悟の延長線上に、この熱がある。
アマーリエは、小さく息を吐いた。
「……では」
「うむ」
「少しだけ」
指に力を込める。
「甘えさせていただきます」
今度は一瞬、レオンハルトの呼吸が止まったような気がした。
「……今、殺す気だったのか?」
「え?」
「いや……」
目を伏せる。
だが耳が赤い。
「……反則だ」
(王弟が反則って言った……!!)
限界モード再び。
静かな部屋に、重なる鼓動だけが響く。
――その様子を、扉の外で偶然目撃してしまった男が一人。
フェリクスは、静かに天井を仰いだ。
(殿下が、女性の手を離さない……だと……?)
長年、女性に興味を示さなかった主。
寄ってくるのは地位目当てや計略のある者ばかり。
殿下は常に冷静で、距離を保っていた。
それがーー
(最近だ……)
アマーリエ嬢と関わり始めてからだ。
明らかに様子が違う。
(ああ……そうか)
今さらながら理解する。
(殿下、ようやくご自覚なさったのか)
長年想い続けた恋心ではない。
だがーー
自覚してからの勢いが、恐ろしい。
(……これは止まりませんね)
フェリクスは、静かに踵を返した。
(アマーリエ嬢、どうかご武運を)
心の中で、そっと合掌したのだった。




