第37話|妹の選択、参謀の報告
少し前の事ーー
「私が、継ぎます」
穏やかな声音だった。
けれど、その瞳に迷いはない。
フェリクスはわずかに目を細めた。
目の前にいるのは、侯爵家の次女――マリアンネ。
年若く、愛らしく、そして姉の陰にいることを当然とされてきた少女。
だが今、その空気はどこにもなかった。
「……軽い決意ではございませんね」
静かな確認だった。
試すためではない。
本気の重さを測るための言葉。
マリアンネは頷く。
「お姉様ばかりに背負わせるのは、もう終わりにします」
柔らかな笑み。
けれど、その奥にあるのは強い意思。
「お姉様は、ずっと家のために選ばれてきました。
ならば今度は、お姉様が自分の為に選ぶ番です」
その言葉に、フェリクスの視線がわずかに揺れる。
「……私を補佐に、と仰った理由は?」
「殿下が側に置いておられる方ですもの」
即答だった。
「冷静で、盤面が見えていて、感情で動かない。
けれど情がないわけではなくて……」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「家を守る参謀に、これ以上の方はいらっしゃいませんわ」
フェリクスは小さく息を吐いた。
買いかぶりです、と言いかけて――やめる。
目の前の少女は、理解したうえで言っている。
「侯爵家は重責がありますわよ」
淡々と告げる。
「華やかさよりも、泥と責任の方が多い立場なのです」
「承知しております」
間髪入れず返る。
「それでも、お姉様の代わりに継ぎます」
――それでも。
その言葉に、フェリクスの瞳がわずかに細まった。
やはり姉妹だ、と。
「……マリアンネ嬢の覚悟、確かに承りました」
静かに一礼する。
「お仕えいたします、次期侯爵」
マリアンネは一瞬だけ目を見開き――
そして、くすりと笑った。
「……安心いたしました」
「何がでしょう?」
「お断りされたらどうしようかと、少しだけ思っておりましたの」
「そのようなことは……」
即答しかけて、言葉が止まる。
マリアンネは小首を傾げた。
「だって、フェリクス様は理性的でいらっしゃるでしょう? 情に流されない方ですから」
「……職務上の資質です」
「ええ、ですから」
一歩、距離を詰める。
「私のような“感情で動く女”は、お好みではないかと」
ぴたりと、空気が止まった。
フェリクスの喉がわずかに鳴る。
「……お戯れを」
「戯れではありませんわ」
マリアンネは、まっすぐ見上げる。
「私、フェリクス様のような方が――好みですの」
静寂。
参謀と呼ばれる男の思考が、一瞬白くなる。
「……っ」
わずかに視線を逸らした。
耳が、赤い。
「……そのようなことを、軽々しく仰ってはなりません」
フェリクスは努めて平静を装う。
だが声が、わずかに固い。
マリアンネはぱちりと瞬きをした。
「軽くではありませんわ?」
首を傾げる。
「私、ずっと思っておりましたもの」
「……いつから、でしょうか?」
思わず聞いてしまうあたり、もう冷静ではない。
「お姉様の件で初めてお会いした日から」
にっこり。
「難しいお顔でお茶を飲んでいらしたのが、とても素敵でした」
「……それは、褒め言葉として受け取ってよろしいのですか」
「もちろんですわ。あの時、私は決めましたの」
一歩、また一歩。
子どもらしい無邪気さで距離を詰める。
「この方を味方につけられたら、きっと無敵だって!」
「……それは戦略的思考です」
「ええ。ですが……」
少しだけ声を落とす。
「好み、というのも本当ですのよ?」
フェリクスの耳が、はっきりと赤くなる。
視線が泳ぐ。
「次期侯爵ともあろうお方が、そのような――」
「いけませんか?」
即座に返す。
悪びれない。
けれど挑発でもない。
ただ、真っ直ぐ。
「好きなものを好きと申し上げるのは、いけないことですか?」
参謀は、完全に沈黙した。
論理では返せない。
マリアンネは満足げに微笑む。
「安心いたしました」
「……何が、でしょう?」
「フェリクス様も、ちゃんと動揺なさるのですね」
くすりと、笑みを漏らす。
「氷のような方でしたら、困ってしまうところでした」
「……私は氷ではありません」
小さく反論する声は、どこか弱い。
「ええ、存じております」
にっこり。
「ですから、お仕えくださいませ。」
「私の参謀であり――旦那様!」
完全に主導権は彼女にあった。
十四歳の少女の、無邪気で計算のない強さ。
フェリクスは小さく息を吐く。
「……敵に回さず、正解でした」
「ふふ。それは賢明なご判断ですわ。光栄ですわ!」
扉の向こうで、侯爵は動けずにいた。
娘の声が、胸に落ちる。
――侯爵家は重責がありますわよ。
理解している。
それでも継ぐと言う。
そしてーー
「好きなものを好きと申し上げるのは、いけないことですか?」
――好きなものを。
侯爵は、ゆっくりと目を閉じた。
ああ。
この子はもう、誰かの決めた未来を歩く娘ではない。
自ら選び、自ら望み、自ら責任を負おうとしている。
それは、父の庇護の外に立つということだ。
胸の奥が、わずかに痛む。
誇らしく。
そして、寂しい。
その直後――
「私の参謀であり――旦那様!」
……旦那様?
侯爵の眉が、ぴくりと動いた。
耳まで赤くなるであろう青年の顔が、容易に浮かんだ。
侯爵は小さく息を吐いた。
まだ、十四だというのに。
だが――
もう子どもではない。
「……立派になったな」
誰にも聞かれぬ声が、廊下に溶けた。
その日の夕刻ーー
「失礼いたします、殿下」
フェリクスは静かに一礼した。
レオンハルトは書類から視線を上げる。
「……随分と早いな。進展があったか?」
「はい」
簡潔な返答。
「ヴァイスベルク侯爵家次女、マリアンネ嬢が侯爵家を継ぐ覚悟を示されました」
手が止まる。
「本気か?」
「侯爵家の重責も理解したうえでの決断です」
レオンハルトはゆっくりと息を吐いた。
「……姉妹は、覚悟を決めたのか」
「はい」
そして、フェリクスは一瞬だけ言葉を選ぶ。
「なお――」
わずかな間。
「私に、補佐として仕えるよう要請がございました」
「ほう?」
レオンハルトの口元が、わずかに上がる。
「正式に、ということか」
「……次期侯爵より、直々に」
その言い回しに、殿下の瞳が面白そうに細まる。
「それは光栄だな。断ったのか?」
「お受けいたしました」
即答。
「当然だろう。お前が断るはずがない」
くく、と小さく笑う。
「で?」
フェリクスの眉がわずかに動く。
「……何が、で、でしょうか」
「婿入りの話は?」
ぴたり。
空気が止まる。
フェリクスの視線が一瞬泳いだ。
「……そのような具体的な話は」
「なかった、と?」
追撃が来る。
「……ございました」
低い声。
耳が、ほんのり赤い。
レオンハルトは、声を立てずに笑った。
「参謀殿も隅に置けぬな」
「殿下!」
「十四だろう?」
「……はい」
「将来有望だな」
完全に面白がっている。
フェリクスは小さく息を吐いた。
「……あくまで、次期侯爵のご冗談です」
「冗談に聞こえたのか?」
沈黙。
フェリクスは答えない。
だが、その沈黙がすべてだった。
レオンハルトは小さく笑う。
「良い判断だ、フェリクス」
声音が変わる。
からかいは消え、主君の声になる。
「侯爵家が自立して動く。それは私にとっても追い風だ」
そして、真っ直ぐに告げる。
「礼を言う」
フェリクスは目を見開く。
「お前が誠実に応じたからこそ、彼女は覚悟を固められたのだろう」
一拍置いて続ける。
「……マリアンネ嬢にも、礼を言わねばならんな」
静かな決意が宿る。
「姉を守るために、自ら家を背負うとは……」
小さく息を吐く。
「見事だ」
そして、立ち上がった。
「兄上に報告する」
その瞳は、揺らがない。
「盤は整った」
政治の空気が、戻る。




