第36話|それでも――選ぶ覚悟
「それでも――」
低く、静かな声だった。
けれど、その一言には揺らぎがなかった。
レオンハルトはアマーリエをまっすぐに見つめる。
逃げ道を与えない。
だが、縛りつけもしない。
ただ真っ直ぐな決意の瞳。
「必ず、打破してみせる」
侯爵家の事情も。
大公という立場も。
慣習も、しがらみも。
すべて。
「その時は――必ず、答えをくれ」
彼はその手を取り、そっと持ち上げる。
白い指先に、ためらいなく口づけた。
甘い戯れではない。
覚悟の印。
「……ええ」
小さく、けれど確かに頷く。
“その時”が来るならば、逃げない。
そう胸に刻んだ。
レオンハルトの足音が遠ざかる。
指先に残る熱。
あれは夢ではない。
――それでも。
自分は侯爵家の跡取り。
その責務から逃げることは許されない。
それでもなお――
今世の父は、きっと。
私の幸せを願ってくれる。
まだ何も聞いてはいない。
それでも、その確信が胸にあった。
「お嬢様。侯爵様がお呼びです」
運命は、待ってくれない。
執務室は、いつもより静かだった。
ヴァイスベルク侯爵は机の向こうで深く息をついている。
父であり、当主であり――そして一人の男として迷っている顔。
「……アマーリエ」
低い声。
誇り高く、聡明な長女を見つめるその瞳に、わずかな揺らぎがある。
「お前のことも……マリアンネのことも、聞いた」
「私はな……お前には、今度こそ幸せになってほしかった」
守るために選んだ縁談だった。
堅実で、波のない未来を。
だが。
侯爵はゆっくりと顔を上げる。
そこには迷いを押し殺した、当主の目。
「お前を、後継者から外す」
空気が止まる。
「……それは、後継者失格ということでしょうか?」
「違う!」
即答だった。
「お前は私の誇りだ。失格などあるものか」
そして続ける。
「マリアンネが、自ら望んだのだ」
姉ばかりに背負わせない、と。
「補佐にはフェリクスを、とまで言い出した」
アマーリエは静かに頷く。
「……良い方ですわ。殿下が側に置いておられる方ですもの」
侯爵もまた認めている。
年は離れているが、冷静で誠実な青年。
娘たちは、それぞれ覚悟を決めた。
侯爵は立ち上がる。
迷う父ではない。
家を守る当主の姿。
「家は、私が守る。マリアンネも覚悟を決めた」
そして、ゆっくりと歩み寄る。
その手が、娘の肩に置かれた。
今度は――ただの父の顔。
「だから今度は……お前が自分の未来を選べ」
抱き寄せる。
幼い頃のように。
「幸せになるのだぞ……」
その言葉は、真っ直ぐ胸に届いた。
ああ……。
さきほど胸に灯った予感は、間違いではなかったのだ。
自然と涙が溢れる。
家族は檻ではない。
支えであり、守りであり――
愛そのものだった。
涙を拭い、アマーリエは顔を上げる。
「……わたくし、自分の未来を選びます」
侯爵は深く頷いた。
娘たちは歩き出した。
誇らしく。
少し寂しく。
けれど確かに――未来へ。




