第35話|侯爵邸の静寂
アルヴィンの気配が森の奥へと完全に消えたことを確認し、レオンハルトはようやく小さく息を吐いた。
張り詰めていた緊張が、わずかに緩む。
アマーリエの傍らに立ち、落ち着いた声音で告げる。
「……侯爵邸に戻ろう。話したいことがある」
その声は静かだが、どこか決意を帯びていた。
アマーリエは微かに頷き、柔らかく微笑む。
「ええ。私も殿下に、お伝えしたいことがあります」
その言葉の奥に、まだ語られていない何かが滲む。
マリアンネがクララと共に続き、フェリクスは影のように一歩後ろに控える。
視線は絶えず周囲を巡り、護衛の配置を確認している。
一行は馬車へと乗り込み、ヴァイスベルク侯爵邸へ向かった。
馬車の中。
揺れる車輪の音が、静かに響く。
アマーリエは窓の外を見つめながら、湖畔での出来事を思い返していた。
恐怖はあった。
だがそれ以上に、はっきりと自覚したことがある。
――私は、選ぶ。
守られた安心感と、盤上に立つ者としての覚悟。
その二つが、胸の内で静かに交錯していた。
向かいに座るレオンハルトもまた、彼女の横顔を一瞬だけ見つめ、何かを決めたように視線を外す。
言葉にすべきことは、もう先送りにはできない。
邸へ戻る直前、回廊の影ーー
マリアンネはフェリクスの袖をそっと引いた。
「少し、お時間をいただける?」
その声音は、驚くほど落ち着いている。
フェリクスは一礼する。
「承知いたしました」
周囲を確認すると、マリアンネは真っ直ぐ見上げた。
「お姉様と殿下の恋の障害は……お姉様がヴァイスベルク侯爵家の後継者であること、ですわよね?」
フェリクスの瞳がわずかに細まる。
「……否定はできません」
迷いのない返答。
マリアンネは一歩、距離を詰める。
「でしたら、解決策はひとつです」
「フェリクス様。あなたがこの侯爵家に婿入りし、私の婚約者となり、この家を継げばよろしいのです」
沈黙。
空気が止まる。
「……は?」
低く、わずかに声が揺れた。
マリアンネは理路整然と続ける。
「ラインハルト伯爵家には、リオネル様がいらっしゃるでしょう?
後継者にはお困りになりません」
「あなたが婿入りなされば、侯爵家は安泰。
お姉様は後継の責から解放され、殿下と共に歩めます」
その瞳は、冗談ではない。
「お姉様を、大公妃にしたいのです」
その一言が落ちた瞬間――
フェリクスの胸に、かすかな衝撃が走った。
この少女は、打算で動いていない。
姉の未来を、本気で盤に置いている。
十四歳。
だが、その覚悟は軽くない。
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、彼の思考が揺らぐ。
――もし、私が受ければ。
だが次の瞬間、理性が立ち上がる。
「マリアンネ嬢は……まだ十四歳でいらっしゃいますよね?」
「ええ」
「私は三十六です」
「三十六……?」
「はい」
「まぁ。お父様よりお若いではありませんの」
真顔。
フェリクス、思わず目を閉じる。
「それに、王子殿下との縁談の噂もございます」
「そのようなもの、断ればよろしいのです」
頬をふくらませる。
その表情は年相応だ。
だが、最後にもう一度だけ言う。
「私は、本気ですわ」
その真っ直ぐさに、再び小さく揺れる。
――背後から低い声。
「……何の話だ」
振り向けば、ヴァイスベルク侯爵。
フェリクスは、内心で天を仰ぐ。
マリアンネはにっこり微笑んだ。
「家の未来について、前向きなご相談ですわ」
侯爵の顔がゆっくりと固まる。
回廊に、奇妙な静寂が落ちた。
侯爵邸の応接間ーー
扉が閉まり、二人きりになる。
しばらくの沈黙。
先に口を開いたのは、アマーリエだった。
「……どちらから、お話いたしましょうか」
小さく息を整え、続ける。
「では、私から」
レオンハルトは黙って頷く。
その姿勢が、急かさない強さを示している。
アマーリエは指先を重ねた。
「私は……前世の記憶を持っています」
空気が、わずかに張り詰める。
だがレオンハルトは動じない。
「異なる世界で生き、学び、そして……死にました」
声は震えていない。
「なぜこの世界に来たのか。なぜ命を終えたのか。
理由は分かりません」
静かな告白。
「ですが、その記憶があったからこそ、今の知識があります」
レオンハルトはゆっくりと頷く。
「ああ……だから、あのような知識を」
疑いではなく、納得だ。
それだけで、救われる。
アマーリエはわずかに目を伏せる。
「両親には、ここまでは話しました。ですが……」
顔を上げる。
「ここからは、殿下だけに……」
まっすぐな瞳。
「私が信じられるのは、殿下だから……かもしれません」
その言葉に、レオンハルトの呼吸が一瞬だけ止まる。
「この世界に来た意味。
私が死んだ意味」
静かに問いかける。
「殿下なら……教えていただけるのではないかと、思ってしまうのです」
その願いは、依存ではない。
共に考えてほしい、という願い。
レオンハルトはわずかに視線を逸らし、そして小さく笑う。
珍しく、少しだけ照れた表情。
「……買いかぶりすぎだ」
だが、声音は柔らかい。
「私は無骨者だ。
仕事と政治のことばかりで、生きてきた」
「人を信じるということも、必要以上にはしなかった」
アマーリエは静かに答える。
「殿下のお立場なら、仕方のないことかと存じます」
レオンハルトは首を振る。
「だが……」
一歩、距離が縮まる。
「そんな私が……俺が、君のことを思うと、冷静でいられなくなる」
初めて、一人称が崩れる。
「この一連の件が落ち着いたら……」
真っ直ぐ見つめる。
「共に歩む道を、考えてはみてくれないだろうか」
静かな、しかし確かな申し出。
プロポーズではない。
だが未来を示す言葉。
アマーリエの心臓が高鳴る。
こんなにも真っ直ぐな眼差しを向けられたことはない。
けれど――
侯爵家の後継者。
その責務が、胸に重くのしかかる。
「殿下……」
声がわずかに揺れる。
「私は、侯爵家の跡取りです」
それは拒絶ではない。
現実。
二人の間に横たわる壁。
それでも、目は逸らさない。
静かな部屋に、二人の呼吸だけが重なる。
その頃、森の奥ーー
アルヴィンは目を閉じ、深く息を吸い込んでいた。
瞼の裏に浮かぶのは、湖畔に立つ二人の姿。
守る者と、守られる者。
その構図が、胸を焼く。
「……まだ終わっていない」
低い呟き。
理性は退却を選んだ。
だが、執着は消えていない。
むしろ、より静かに、より深く根を張り始めていた。
次は、正面からではない。
盤外から崩す。
邸。王家。利害。噂。
使えるものは、すべて使う。
森の影の中で、アルヴィンの瞳が静かに光る。
侯爵邸の静寂とは対照的に、盤外の影は、確実に形を変えつつあった。
――次の一手は、すぐそこまで迫っている。




