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婚約者を奪われましたが、前世の知識で幸せを取り戻します  作者: 絵宮 芳緒


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第33話|光と影の盤上

初夏の光が、湖面に細やかな波を描いていた。


ヴァイスベルク侯爵家別邸近くの森。

木漏れ日が揺れ、草と土の匂いが風に混じる。


あの日と同じ場所。

アマーリエは敷物の端を整え、籠から茶器を取り出していた。


「お姉様、今日は湖がきらきらしてるわ」


マリアンネが嬉しそうに身を乗り出す。


「ええ。風が穏やかだからでしょう」


クララが控え、護衛が一定の距離を保って立つ。


穏やかな午後。

香草を含んだ茶の香りが、ゆるやかに広がる。


そのとき――枝を踏む、わずかな音。


護衛が視線を向けるよりも早く、木立の奥から一人の男が姿を現した。


整った身なり。

隣国風の意匠を織り込んだ上衣。

柔らかな笑み。

だが、その目は笑っていない。


アマーリエは静かに立ち上がる。


「失礼ですが……どなたでしょうか」

声は落ち着いている。


男は一礼した。


「名乗らぬままでは無礼だったな」


ゆっくりと顔を上げる。


「アルヴィン・フォン・リヒター。

隣国リヒター公爵家嫡男だ」


空気が張り詰める。

隣国、公爵家、しかも嫡男。


マリアンネが、そっと姉の袖を握った。


アルヴィンは穏やかな声で続ける。

「王家主催の夜会で、あなたを拝見した」


視線は逸れない。


「灯の下に立つあなたは、誰よりも静かで、誰よりも美しかった」


湖畔の風が、止んだかのようだった。


アマーリエはわずかに首を傾ける。


「……夜会には多くの方がいらしておりました」

やわらかく、しかし明確な拒絶。


だがアルヴィンは動じない。


「前回は、いらぬ邪魔が入った」

声音が冷える。


「だが、今度こそ違う」


一歩、距離を詰める。


護衛が進み出る。

「それ以上は――」


その瞬間、木立の奥で別の影が動いた。

アルヴィンの部下。

護衛の注意が割かれる。


ほんの一瞬。

アルヴィンの手が、アマーリエの腕へ伸びる。


「あなたは利用されている。

私が正しい場所へ連れて行く」


その指先が触れかけたとき――


「私の行き先は、私が決めます」

声は澄んでいる。

揺らがない。


アルヴィンの瞳が、わずかに揺れる。


「分からないだけだ」


強い力ではない。

だが確かに、アマーリエの腕を掴む。


「お姉様――!」

マリアンネの息が詰まる。


護衛が戻ろうとした瞬間、刃が閃いた。


部下が立ちはだかる。

空気が一変する。


穏やかな湖畔は、張り詰めた戦場へと変わった。


アルヴィンは低く囁く。

「抵抗しなくていい。

あなたを守るのは、私だ」


――そのとき。

森の奥から、踏みしめる足音が響いた。

重く、迷いのない歩み。


「……そこまでだ」

低く冷えた声が、湖面を震わせる。


アルヴィンの手が止まる。


現れたのは、王弟――レオンハルト。

背後にはフェリクスと数名の影。

布陣は、すでに整っている。


アルヴィンの表情に、ひびが入る。


「……王弟が、なぜここに」


余裕が崩れる。


レオンハルトは淡々と告げる。

「偶然ではない」


その一言で、アルヴィンは盤の真実を悟りかける。

罠。

だが、プライドがそれを認めさせない。


「お前こそ、彼女を利用している」


執着が露わになる。


「私は彼女を選んだ」


レオンハルトは一歩前へ出る。


「彼女が選ぶのだ」

短く、揺るぎなく。


アルヴィンの理性を静かに揺さぶる。

手に力がこもる。


「私は……奪われる側ではない」


婚外子としての劣等感が滲む。


「私が欲しいと思ったものは、必ず手に入れてきた」


だが、アマーリエは“もの”ではない。


その歪みが、狂気を生む。

レオンハルトの目が変わる。


「最後だ。離せ」

声を荒げずとも、圧は揺るがない。


アルヴィンはなお引き寄せようとする。


「あなたは、私を選ばなければ後悔するはずだ!」


アマーリエは静かに返す。

「後悔する選択は、いたしません」


その強さが、アルヴィンの内をかき乱す。


フェリクスが告げる。

「森の外周はすでに押さえ、隣国の王家、公爵家にも通達済みです。

商団主との密約も証拠付きで押さえました」


逃げ道はない。


「……最初から、私を誘い出したのか」


レオンハルトは短く答える。

「動いたのは、お前だ」


その言葉が、戦局を確定させる。

包囲は明らかだった。

圧倒的な現実。


レオンハルトは腕を伸ばし、静かにアルヴィンの手を押さえる。


「彼女に触れる資格はない」


空気が凍る。

アルヴィンの瞳に、狂気と焦燥、そしてかすかな恐怖。


アマーリエは揺るがない。

盤上に立つ者としての覚悟が、静かに光る。


「これ以上は許さん」


湖畔は再び穏やかさを取り戻す。

だが――


三人の胸に刻まれた緊張は、消えてはいない。


――盤は、完全に動いた。

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