第32話|湖畔に差す影
初夏の光が、湖面に細やかな波を描いていた。
ヴァイスベルク侯爵家別邸近くの森。
木漏れ日が揺れ、草と土の匂いが風に混じる。
あの日と同じ場所。
アマーリエは敷物の端を整え、籠から茶器を取り出していた。
「お姉様、今日は湖がきらきらしてるわ」
マリアンネが嬉しそうに身を乗り出す。
「ええ。風が穏やかだからでしょう」
クララが控え、護衛が一定の距離を保って立つ。
穏やかな午後。
香草を含んだ茶の香りが、ゆるやかに広がる。
そのとき――
枝を踏む、わずかな音。
護衛が視線を向けるよりも早く、木立の奥から一人の男が姿を現した。
整った身なり。
隣国風の意匠を織り込んだ上衣。
柔らかな笑み。
だが、その目は笑っていない。
アマーリエは静かに立ち上がる。
「失礼ですが……どなたでしょうか」
声は落ち着いている。
男は一礼した。
「名乗らぬままでは無礼だったな」
ゆっくりと顔を上げる。
「アルヴィン・フォン・リヒター。
隣国リヒター公爵家嫡男だ」
護衛の空気が張り詰める。
隣国。
公爵家。
しかも嫡男。
マリアンネが、そっと姉の袖を握った。
アルヴィンは穏やかに続ける。
「王家主催の夜会で、あなたを拝見した」
視線はまっすぐ、逸らさない。
「灯の下に立つあなたは、誰よりも静かで、誰よりも美しかった」
湖畔の風が止んだように感じられた。
アマーリエは微かに首を傾ける。
「……夜会には多くの方がいらしておりました」
遠回しな拒絶。
だがアルヴィンは気にしない。
「前回は、いらぬ邪魔が入った」
声音がわずかに冷える。
「だが、今度こそ違う」
一歩、距離を詰める。
護衛が進み出る。
「それ以上は――」
その瞬間。
木立の奥から、別の影が動いた。
アルヴィンの部下。
護衛の注意が割かれる。
一瞬。
ほんの一瞬。
アルヴィンの手が、アマーリエの腕へ伸びる。
「あなたは利用されている。
私が正しい場所へ連れて行く」
その指先が触れかけたとき――
「私の行き先は、私が決めます」
アマーリエの声は震えていない。
だが、アルヴィンの瞳が揺れる。
「分からないだけだ」
掴む。
強くはない。
だが、明確な“拘束”。
マリアンネが息を呑む。
「お姉様――!」
護衛が戻ろうとした瞬間、刃が閃く。
アルヴィンの部下が立ちはだかる。
空気が一変する。
穏やかな湖畔は、張り詰めた戦場へと変わった。
アルヴィンは低く囁く。
「抵抗しなくていい。
あなたを守るのは、私だ」
そのとき――
森の奥から、踏みしめる足音がした。
重く、迷いのない歩み。
「……そこまでだ」
低く、冷えた声が湖面を震わせた。
アルヴィンの手が止まり、アマーリエはゆっくりと振り向く。
木陰から現れたのは、レオンハルトだった。
あの日と同じ湖畔。
だが今、彼は名も身分も隠していない。
背後にはフェリクス、さらに数名の影が見える。
完全な布陣。
レオンハルトの視線は、アルヴィンの手に落ちる。
「その手を、離せ」
声は荒げない。
だが、拒絶の余地がない。
湖面を渡る風が、再び香草の匂いを運ぶ。
始まりの場所で、
盤は、ついに動いた。




