第31話|盤上へ
ヴァイスベルク侯爵家の廊下は、朝の光を受けて静かに輝いていた。
出立前、レオンハルトはアマーリエに会いに来ていた。
扉の前で、ほんの一瞬だけ息を整える。
中にいるのは、守るべき人――。
ノックの音は短く、控えめだった。
「どうぞ」
柔らかな声に招かれ、部屋へ入る。
アマーリエは窓辺に立っていた。
淡い光を受け、その横顔は穏やかだ。
レオンハルトは言葉を探す。
本当は、心配するなと言いたい。
必ず戻ると言いたい。
だがそれらは胸の内にしまい込み、ただ告げる。
「……行ってくる」
それだけ。
だが声音は、いつもよりわずかに低く、やわらかい。
アマーリエは目を細め、静かに頷いた。
「はい。お気をつけて」
短い会話。
けれどそこには、確かな約束があった。
レオンハルトは踵を返す。
その背は、以前よりもわずかに軽い。
守るために動く。
そして、戻るために。
その頃、ベルク子爵家の使用人棟の一室――。
エルザは机の上に置かれた手紙を見つめていた。
ローザリアからの問い合わせ。
封蝋は乱れていない。
だが――紙の折り目。
一度、開かれている。
彼女はため息もつかない。
「……まぁ」
長年仕えた家。
こうした気配には慣れている。
怒りよりも先に思考が巡る。
読まれているのなら、利用すればよい――。
エルザはペンを取り、返書を書き始めた。
例の訪問者について。
南方の商人であったこと。
帳簿にやや不自然な出入りがあったこと。
そして、何気ない一文を添える。
「あの折に応接間の絨毯を新調なさったことも、印象に残っております」
それは事実ではない。
ローザリアが読めば気づく。
――そんなことは、なかった。
静かな合図。
封をし、机の上に置く。
下働きの者が取りに来る位置に。
読まれることを、承知の上で。
数刻後――。
エルザの部屋に黒い影が音もなく入り込む。
アルヴィンの部下である男は、返書をそっと開き、内容を確認してから元通りに戻した。
抜かりはない。
報告を受けたアルヴィンは、書面に目を通す。
南方の商人。
帳簿の動き。
理屈は通っている。
だが――。
「……妙だな」
胸の奥に、わずかな違和感が生まれる。
しかし彼はそれを追わない。
むしろ、別の思考が勝る。
アマーリエの様子を探らせていた部下から、近く妹マリアンネとの外出予定があると報告が入っていた。
その機会を利用すれば――。
再び、アマーリエを“救い出す”ことができる。
今度こそ、正しく――。
彼の中では、それは正義だった。
彼女は王弟に惑わされている。
自分が取り戻すのだ。
直ちに部下へ指示が出される。
静かに、準備は進められた。
その夜。
フェリクスは報告を終え、レオンハルトの前に立っていた。
「やつが、食いついたようです」
レオンハルトは短く頷く。
「……もう少し泳がせる」
盤は整いつつある。
焦る必要はない。
相手が自ら踏み込むのを待てばいい。
同じ夜。
エルザは静かに子爵家を後にした。
長く仕えた家を振り返ることはしない。
迎えに来たのはフェリクスだった。
「ご無事で何よりです、エルザ殿」
「ええ。お嬢様のためですもの」
年長の女性らしい落ち着き。
そこに恐れはない。
翌朝――。
フェリクスの馬車で、エルザはヴァイスベルク侯爵家に到着する。
数日ぶりに、ローザリアと再会した。
視線が合う。
言葉は少ない。
「エルザ……ご苦労様でした」
「いいえ。お嬢様こそ、よくご無事で……」
守られる少女ではない。
共に盤に立つ者へ。
三者、完全に盤上へ。
その頃、別の場所では、静かに馬車の手配が進められていた。
彼はまだ、自分が網の中心に立っているとは知らない――。




