第29話|孤高の錯覚
夜は深く、牢の石壁は冷えていた。
見張りの足音が遠ざかる。
――かちり。
微かな金属音。
商団主は目を開ける。
鍵が、回った。
扉が静かに開く。
そこに立つ者は影に溶け、顔は見えない。
「時間だ」
短い声。
廊下に出ると、交代のはずの看守は姿を消していた。
外へ出れば、用意された外套と馬。
逃走ではない。
――手引きだ。
商団主は薄く笑う。
「やはり、約束は守る男か」
そして、そのまま闇へと消えたーー
「商団主、脱走しました!」
フェリクスは簡潔に報告をする。
レオンハルトの執務室に、緊張が走る。
書類から顔を上げて、レオンハルトは呟く。
「……逃がされたな」
怒声はない。
だが声は冷えている。
「裏にいるのは誰だ」
沈黙が続く。
だが彼の中で、ひとつの影が浮かんだ。
アマーリエを攫い、対峙した謎の男。
フェリクスに調べさせたところ、隣国リヒター公爵家の養子である可能性が濃厚だという。
まだ確証はない。
だが、あの目は忘れていない。
「もう少しだけ、泳がせる」
低く告げる。
「必ず尻尾を掴む!」
盤は、静かに動き出した。
重厚な室内ーー
灯りは絞られ、空気は重い。
その暗闇の中、商団主は静かに頭を下げた。
「予定通りです」
アルヴィンは振り向かない。
「王弟は?」
「動いております」
一拍。
「……そうか」
「アマーリエ様は現在、王弟と行動を共に」
指先が止まる。
ほんの一瞬。
空気が変わる。
「……そうか」
声は穏やかだ。
だが、温度が落ちる。
やがてアルヴィンは椅子に腰を下ろした。
「最初に見たのは、王家主催の夜会だった……」
商団主は黙る。
アルヴィンの視線は遠く、過去を見ている。
「……美しかった」
静かに言う。
「だが、私を惹いたのはその美ではない」
指先が机をなぞる。
「誰にも触れさせない……あの孤高さだ」
笑わず、媚びず、群れない。
ただ一人で立っていた。
「――あれは、選ばれた孤独だ」
低く、確信するように。
「私と同じだと思った」
商団主の背に、冷たいものが走る。
だがアルヴィンは気づかない。
「だが……今は違う」
声がわずかに歪む。
「光の側にいる。あの男の隣で」
指先が机を強く押す。
「違う」
囁き。
「それはお前の居場所ではない」
目を細める。
「もし、あの夜会のあと、私が声をかけていれば」
息が浅くなる。
「もし、先に手を差し伸べていれば……」
ゆっくりと視線を上げる。
「彼女は、こちらを見ただろうか?」
商団主は一歩、無意識に下がる。
「王弟の隣ではなく……」
「私の隣で、あの瞳を伏せただろうか」
声が甘くなる。
「公爵家の夫人として。誰にも触れさせず」
「私だけを見るように」
妄想。
だが、彼にとっては未来予想図。
「いや……そうなる」
確信。
「必ず!」
沈黙が続く。
商団主は悟る。
この男は、もう策だけで動いていない。
「……私は、これで」
一礼し、退出する。
扉が閉ま理、辺りはまた
静寂に包まれる。
アルヴィンはゆっくりと背もたれに身を預けた。
瞳を閉じる。
夜会の灯り。
アマーリエの横顔。
王弟の隣に立つ姿。
それを塗り替える。
自分の隣に立たせる。
唇がわずかに上がる。
「待っていろ、アマーリエ」
静かな微笑。
盤は動く。
だが彼の欲望だけは、止まらないーー




