第26話|香る檻と、盤上の再会
重たいまぶた。
ゆっくりと、意識が浮上する。
石造りの天井。
見慣れぬ部屋。
(……攫われたのね)
「目が覚めたか」
窓辺に立つ男。
逆光で表情は読めない。
若い、整った横顔。
だがその瞳は、冷たく静かだ。
「あなたが、首謀者?」
男はわずかに笑う。
だが声は、穏やかだ。
「首謀、というほど大げさではない。
盤面を整えているだけだ」
名は名乗らない。
だが、支配する側の余裕が滲む。
アマーリエはゆっくりと起き上がる。
「ローザリア様は?」
「無事だ。今のところは」
今のところ。
その含みが、胸を冷やす。
「あなたは、なぜこのようなことを?」
男は歩み寄る。
「君が必要だからだ」
即答。
迷いがない。
「侯爵家の後継者。だが、それだけではない」
距離が近い。
「君は、面白い」
アマーリエは目を逸らさない。
「人を駒と呼ぶ方に、興味はございません」
一瞬、男の瞳が揺れた。
次の瞬間。
空気が変わる。
「君は賢い。だから無理はさせたくない」
静かに、さらに香が焚かれる。
先ほどよりも、濃い。
甘く、柔らかく、思考を包む。
「……っ」
視界が滲む。
男の声が、ゆっくりと落ちてくる。
「抗う必要はない」
一歩、近づく。
「力を抜け」
さらに、近い。
「私を信じろ」
その声音は、優しい。
まるで、救う者のように。
「君はもう、安全だ」
思考が鈍る。
まぶたが重い。
(……だめ)
だが声は、頭の奥に染み込む。
力が抜ける。
男が近づく。
「抗うほど、欲しくなる」
指先が、頬へ伸び――
「眠れ」
指先が、頬に触れる寸前。
「おやすみ」
意識が、途切れた。
男は、ほくそ笑む。
「やはり、素直だ」
そして部屋を出て行った。
その頃――
別室にいるローザリアは椅子に縛られていた。
目の前に立つ商団主は、刃物を手にしていた。
「王弟は動く」
薄く笑う。
「ならば先に消しておくべきだが……」
刃先が、頬をなぞる。
「……いや」
欲が滲む。
「このまま終わらせるには惜しい」
王弟にとって価値のある駒。
脅しに使える。
「少し楽しませてもらおうか」
その瞬間――
扉が爆ぜた。
「動くな!」
フェリクス率いる兵が雪崩れ込む。
商団主が後退した。
そのまま制圧。
刃が床に落ちる。
「ご無事ですか?」
ローザリアは息をつく。
「アマーリエ様は……」
フェリクスの顔が強張る。
「奥だ」
彼はローザリアの縄を解くと、奥の間に走った。
暗闇。
深い水の底のような静寂。
その奥で――
慌ただしい音がする。
野菜を刻む包丁のリズム。
鍋が火にかけられる音。
スチームコンベクションのタイマー音。
食器が触れ合う軽やかな響き。
厨房の慌ただしい時間。
湯気。
白衣。
栄養計算のメモ。
(私は……)
与えられた役を演じるだけの存在ではない。
誰かに与えられた言葉で動く存在ではない。
自分で考え、選び、決めてきた。
目の前の誰かを守るために、作り、学び、工夫してきた。
“自分の意志”で。
光が走る。
ページをめくる音。
『ハーブ大全』
『身体に効く野草百科』
ドクダミの頁。
苦味。解毒。抗菌。
(負けない)
その瞬間――
再び、あの声が響く。
――抗うな。
――私を見ろ。
――君は私のものだ。
甘く、優しく、侵食する。
だが今度は、違う。
(違う)
瞳が、開く。
焚かれている香が、濃さを増す。
意識が朦朧とする。
(ドクダミ……まだ、残っている)
呼吸を整える。
“私は、私だ”
霧が裂ける。
覚醒ーー
そして――
再び、男が部屋を訪れる。
覚醒した彼女を見て、目が細くなる。
「……美しい」
怒らない。
焦らない。
むしろ、歓喜に近い。
「私の香を拒むか」
一歩、近づく。
「……いい」
囁くように。
「抗う君がいい……」
指先が空をなぞる。
「壊すのは、簡単だ」
声が低く沈む。
「だが私は、壊したくない」
狂気は、静かだ。
「君が私を選ぶまで、待てる」
微笑む。
「だが――奪われるのは許せない」
その途端、轟音がしてそのまま扉が吹き飛んだ。
煙の中から姿を現したのは、王弟レオンハルトだった。
「遅かったな、大公」
その呼び方に、侮りはない。
だが、明確な挑発がある。
レオンハルトの目が細まる。
「貴様……」
男は肩をすくめる。
「臣下ではない。従う義理もない」
その言葉に、空気が張り詰める。
「彼女は、私が選んだ」
静かな怒気。
それは所有欲ではない。
“運命を決めた”という傲慢さ。
レオンハルトが一歩、踏み込む。
「彼女は物ではない。
選ぶのは、彼女自身だ」
剣先が、一直線に突きつけられる。
男の瞳が、わずかに歪む。
「……面白い」
だが次の瞬間。
その視線は、レオンハルトではなく――
アマーリエへ向く。
ジッと、確かめるように。
「だが、抵抗する女は嫌いではないが――奪われるのは、癪だ」
アマーリエが、レオンハルトを見つめる。
その一瞬、男の目が、暗く沈む。
「……私を拒み、貴様を見るのか?」
声が低く落ちる。
理性の奥に、濁った執着が滲む。
「それは、面白くない」
香が、再びわずかに揺れる。
空気が重くなる。
刃が抜かれる。
鋭い音。
火花が散る。
初撃がぶつかる。
室内に衝撃が走る。
盤上の主と、王弟。
刃と刃がぶつかり合う。
重く、速い。
一歩も引かない応酬。
火花が散り、床石に亀裂が入る。
レオンハルトの剣は鋭い。
だが、男の剣もまた迷いがない。
「……っ」
二合、三合。
男の唇が、わずかに吊り上がる。
「やはり強いな、大公」
余裕がある。
息は乱れていない。
だが――
兵が部屋を囲む。
包囲は完成しつつあった。
アルヴィンは視線だけで状況を測る。
一瞬ーー
ほんの一瞬だけ。
アマーリエを見る。
その目は、熱を帯びている。
「……今日は、ここまでにしよう」
刃を弾き、距離を取る。
レオンハルトが踏み込む。
「逃がすと思うか」
男は笑う。
「逃げる?」
首を傾げる。
「違う。退くのだ」
その言葉は、静かで確信的。
「奪い合うのは嫌いではない」
視線は、アマーリエから外さない。
「だが、焦る趣味はない」
懐から小瓶を出し、床に叩きつける。
白煙が上がり、視界が遮られる。
兵が一斉に咳き込み始めた。
レオンハルトが煙を払う頃には――
姿は、消えていた。
開いた窓からは、冷たい夜気が流れ込む。
残るのは、微かな香。
そして卓上に、置かれたままのカップ。
湯気は、まだ消えていない。
レオンハルトが振り返る。
アマーリエへ歩み寄る。
「怪我は?」
「……ありません」
かすれるが、はっきりした声だった。
レオンハルトの手が、わずかに震える。
このまま、触れたい気持ちが頭をよぎる。
一瞬、躊躇する。
アマーリエが、彼の袖を掴む。
「……来てくださって、ありがとうございます」
その言葉に、レオンハルトの瞳が揺れる。
同時に窓辺のカーテンが揺れる。
夜風に乗って、かすかな声。
遠く、どこからともなく。
――必ず、君は私を選ぶ。
気のせいかもしれない。
だが、確かに聞こえた気がした。
男は退いた。
敗れたのではない。
盤を、広げたのだ。
そしてこの男は――
忘れた頃に、必ず戻る。
より静かに、より深く。




