第23話|揺らぐ静穏と、忍び寄る手
王城、客室――
静まり返った部屋の中で、ローザリアは窓辺に立っていた。
王命による保護。
その言葉は、確かに彼女を救った。
だが、それは自由を意味しない。
「お身体の具合はいかがですか」
控えめな声。
振り向けば、宮廷侍女が深く頭を下げている。
ここは王城。
ベルク子爵邸ではない。
怒号も、命令も、打擲もない。
けれど――
(守られている)
その事実が、かえって胸をざわつかせた。
扉が控えめに叩かれる。
入室したのは、王弟側近のフェリクスだった。
「失礼いたします。ベルク子爵令嬢」
事務的だが、冷たくはない声音。
「王弟殿下より言伝がございます」
ローザリアは静かに背筋を伸ばす。
「ベルク子爵は現在、王命により自邸謹慎。
家中の帳簿、交易記録を精査中です」
息を呑む。
父は、もう以前の立場には戻れない。
「また――」
わずかな間。
「商団主は未だ確保に至っておりません」
空気が変わる。
(逃げた……?)
フェリクスは淡々と続けた。
「さらに、王城内に内通者がいた可能性が高いと判明いたしました」
胸が、ひやりと冷える。
王城は安全だと思っていた。
だが、それは幻想だった。
「ベルク子爵令嬢」
フェリクスの視線が、まっすぐ射抜く。
「あなたは証人であると同時に、狙われる立場でもあります」
突きつけられる現実。
「当面、王城外への外出はお控えください」
ローザリアはゆっくりと頷く。
怖くないと言えば嘘になる。
だが――
「……承知しております」
もう、駒ではない。
自分で選んだ道だ。
その時、廊下の奥から、微かなざわめきが聞こえた。
急ぎ足。
押し殺した声。
フェリクスの目が鋭く細まる。
「失礼」
即座に退出。
扉が閉まる。
残されたローザリアは、無意識にドレスの裾を握りしめた。
王城の空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。
――その頃。
王城の一角、使用人通路。
目立たぬ外套を纏った男が、静かに歩く。
衛兵に止められることもない。
「ご苦労」
低く落ち着いた声。
小袋が手渡される。
ずっしりと重い、金の音。
「次は、ヴァイスベルク侯爵令嬢の動きを知らせよ」
男は深く腰を折る。
「はい、旦那様」
ヴァイスベルク侯爵家の庭は、早春の陽射しに包まれていた。
冬を越えた土は柔らかく、若い緑が静かに芽吹いている。
「お嬢様、こちらはまだ根が浅いのでお気をつけください」
低く穏やかな声。
庭師ハンスが手袋を外し、頭を下げた。
「ありがとう、ハンス。
では、こちらから摘みましょう」
アマーリエは籠を抱え、白い小花へ視線を落とす。
薬草は、手をかけた分だけ応えてくれる。
人よりも、よほど素直だ。
「今年は出来が良いですよ」
「ええ、きっと料理長が喜びますわ」
その瞬間――
「もちろんでございますとも!」
豪快な声。
振り返れば、料理長ヴァルヘルムが腕を組んで立っている。
大柄だが、瞳は優しい。
「我がヴァイスベルク侯爵家の食卓は、アマーリエ様の薬草あってこそ。
本日のスープは格別になりますぞ」
「では期待していますわ、料理長」
風が揺れる。
穏やかな日常。
――本当に、何もかも終わったかのように。
「お姉様」
軽やかな足音。
マリアンネが微笑みながら近づいてくる。
「王城へは、またいらっしゃるの?」
「必要があれば……ね」
曖昧に返すと、妹はくすりと笑う。
「王弟殿下は、お姉様がお好きなのかしら?」
ぴたり、と空気が止まる。
ハンスが咳払いをし、ヴァルヘルムが空を見上げた。
「……どうしてそのようなことを?」
「だって、とても大切そうに、殿下はお姉様をご覧になっているもの」
無邪気な爆弾。
アマーリエはわずかに視線を逸らす。
「殿下は国の柱ですわ。
敬意は当然でしょう。……それに、とてもお優しい方だわ」
「まあ」
マリアンネは首を傾げる。
「私なら、いつもご一緒にいらっしゃる側近の方が素敵だと思うわ。
フェリクス様、とても落ち着いていらして」
アマーリエの手が、ほんの少し止まる。
「……そう」
胸の奥が、静かに波打つ。
だが表情は崩さない。
「好みは人それぞれですもの」
マリアンネは満足げに駆け去っていく。
残された空気は、あたたかい。
(守られている)
家があり、庭があり、笑いがある。
――これが続くと、どこかで信じてしまう。
その頃、王都外れの屋敷――
重厚な扉の向こう。
低い灯りの下、二人の男が向かい合う。
商団主は杯を傾ける。
「王城内の動きは抑えております。
今なら、ヴァイスベルク侯爵令嬢は油断しておりますよ」
向かいの青年は静かに聞いている。
黒に近い濃紺。
整った顔立ち。
揺れぬ瞳。
アルヴィン・フォン・リヒター。
「侯爵家の次女は保護下。問題は長女ですな……。
家ごと手に入れるなら、あちらが鍵」
アルヴィンはゆっくりと杯を置いた。
「駒は動かせます。
だが盤面は、焦らぬ方が良い」
「では?」
「まずは、小さな揺らぎを……」
彼の胸奥に、あの瞳がよみがえる。
怯えず、媚びず。
まっすぐ見返した少女。
(あれは、欲しい)
家のためではない。
ただ、自分の隣に。
所有ではなく――
「……手に入れる」
夜は静かに深まっていく。
王城、夜――
レオンハルトの執務室。
扉が荒く叩かれた。
「殿下!」
フェリクスが入室する。
「ベルク子爵令嬢が――」
一瞬の沈黙。
「保護下の客室より、連れ去られました」
空気が凍る。
レオンハルトの瞳から光が消えた。
「……誰だ」
低く、冷たい声。
嵐は、ここから始まる。
数刻前ーー
王城、厨房。
湯気が立ちのぼる中、料理番の男は額の汗を拭った。
いつも通りの夕餉。
子爵令嬢の分は、別に整えられている。
そこへ、そっと近づく影。
「……例のものだ」
小瓶が手渡される。
透明な液体。
料理番は一瞬、視線を伏せた。
「ただの眠り薬だ。命までは奪わぬ」
低い声。
「家族のことを忘れるな」
指先が震える。
――背に腹は代えられない。
男は無言で小瓶の中身をスープへ落とした。
波紋が広がり、やがて消える。
何事もなかったかのように。
「本日のスープでございます」
侍女が恭しく頭を下げる。
ローザリアは礼を言い、匙を取る。
湯気の向こうで、侍女の視線がわずかに揺れた。
(申し訳……ありません)
声には出せない懺悔。
ローザリアは気付かない。
静かに、口へ運ぶ。
苦味はない。
違和感もない。
ただ、ほんの少しだけ――
視界が、ゆらぐ。
「……少し、疲れたのかしら」
椅子に腰掛けたまま、まぶたが重くなる。
侍女が素早く支える。
「お休みになられました」
廊下の奥、待機していた衛兵がうなずく。
「急げ」
手際は、迷いがない。
客室の裏口。
人目の少ない回廊。
侍女が震える手で鍵を外す。
「ここまでです」
「よくやった」
低い声。
衛兵がローザリアを抱き上げる。
その顔は無表情。
忠誠は、すでに別の主へ。
裏門では黒塗りの馬車が待機していた。
夜気が冷たい。
御者台の男が小さく合図した。
「荷は確保した」
「気付かれる前に出るぞ」
扉が閉じる。
かすかな軋み。
馬車は音を抑え、ゆっくりと動き出す。
王城の灯りが遠ざかる。
その瞬間――
ローザリアの指先が、わずかに動いた。
沈みきらない、意識の底。
(……暗い)
揺れ。
車輪の音。
布越しの会話。
「本拠地へ直接か?」
「ああ。旦那様がお待ちだ」
旦那様……。
その言葉だけが、かすかに残る。
再び、深い闇に包まれる。
王都外れの高い塀に囲まれた屋敷ーー
門が静かに開いた。
馬車が吸い込まれる。
重い扉が、ゆっくりと閉じた。
音は、小さい。
だが決定的だった。
ここから先は、王城の手は届かない。
灯りの差さぬ廊下の奥に、足音が響く。
「丁重に扱え。傷一つつけるな」
低く、感情のない声。
「彼女は、盤面を動かす駒だ」
闇の中、誰かが微笑んだ。
――その報せが、王弟レオンハルトのもとへ届くのは、まだ少し先のことだった。




