第2話|私の手で作る少しずつの一歩
ベッドから身を起こしたアマーリエは、静かに部屋のソファへ向かい腰を下ろす。
机の上の便箋とペンを手に取り、これからの行動を整理した。
軽いノックの音が扉の向こうから聞こえる。
「アマーリエ様…失礼いたします」
控えめな声とともに、クララが頭を下げて顔をのぞかせる。
「おはようございます、アマーリエ様。
昨晩は…お怪我の具合はいかがでしょうか」
アマーリエはソファに腰を下ろし、微かに笑む。
「おはよう、クララ。
ありがとう、もう大丈夫。昨日は驚かせてしまったわね」
クララは安心したように息をつき、目を細める。
「良かったです。候爵様も奥様も、マリアンネ様も、大変心配されておりました」
クララは少し間を置き、続ける。
「もちろん、私を含めた使用人たちも、ぐったりとされたお嬢様の姿を目にした時は、生きた心地がしませんでした…」
「学園から知らせが届いた際には、執務中の候爵様が、当家の騎士がすぐに学園に向かわせましたし。
その後、お部屋にお連れし、ベッドでゆっくりお休みになれるよう、支度いたしましたが…」
そこで、クララは言葉をきり、涙ぐむ。
アマーリエは静かに頷き、心の中で軽く呼吸を整える。
「ええ、ありがとう」
クララは、アマーリエの肩にショールをかけると、お茶の支度を整える。
そんなクララの姿を眺めながら、アマーリエは視線を便箋に落とす。
少し間を置き、深呼吸を一つして、手元のペンを握り直す。
(よし…怖がらずに、はっきり頼もう)
意を決して、クララに目を向ける。
「実は…少しお願いしたいことがあるの。まずは、食事のことで…」
クララは目を大きく見開き、驚いた様子で立ち止まり、手元の布をぎゅっと握った。
「えっ……私にですか?」
「いえ、屋敷の食事が悪いというわけではないわ。
ただ、今の食事は貴族令嬢としての体型維持のためで、私が望むバランスとは少し違うの。
だから、今より卵や乳製品を多めに、野菜は旬のものを中心にしてほしいのよ」
少し間を置き、アマーリエはさらに続ける。
「そして…寝室や居間の掃除も、花瓶の水交換もお願いしたいの。
整った空間と花は、心身を落ち着かせるために必要だから」
長く仕えてきたクララは、初めて見るアマーリエの様子に少し困惑しながらも、
アマーリエの輝くような瞳を目にすると、小さく息をつき、ペンを握り直した。
ーーお嬢様のこんないきいきとした姿は、久しぶりだわ。
ーー指示には、これまで見たことも聞いたこともない斬新な内容が含まれている。
ーーお嬢様はどこでこの知識を……いや、どうであれ、主人を疑うような考えはいけないわ。
それに、お嬢様はあんな目に遭われたばかりなのに、迷いなく話される。
アマーリエの言葉に従いながら、メモをとる。
ただ、アマーリエの指示した内容はこれまで見た事も聞いた事もないような、斬新な物も含まれていた。
騎士から主人への報告では、学園で落ちるはずがないような場所で、お嬢様は足を滑らせたようだとの話だった。
また、一部の生徒は何者かが、お嬢様を突き飛ばす影を見かけたとか…。
アマーリエは傍らの便箋に、生き生きとした表情で頼んだ内容を手早く書き留めていた。
『卵・乳製品多め、旬の野菜中心』
『寝室・居間の掃除、花瓶の水交換』
※整えられた空間と花は、心身を落ち着かせるためのもの
文字を追うたびに、静かに気持ちが整っていくようだった。
「かしこまりました……でも、お嬢様がこんなに細かくご存知だとは、少し驚いてしまいました」
ーーそうよね、ずっとあの方との婚約で、本来のお嬢様ではなく、貴族のご令嬢の責務として、ご自分を閉じ込めていらしたのだから…これで良いのかもしれない。
しかも、お嬢様がこんな事故に遭われたというのに、未だにあの方からは、何の音信もない…メイド仲間が見かけたという、あの令息が別の令嬢と懇意にしているというのは、存外本当なのかもしれない。
「無理はしないで。
今日は少しずつでいいの。やりながら慣れていけばいい…。」
アマーリエの言葉に、クララは思わずハッと我に返る。
静かに頷き、厨房や他のメイドに伝えるべく部屋をあとにした。
クララが部屋を出て行った後、アマーリエは窓の外を眺め、静かに心の中で繰り返した。
――まずは生活の基盤から整える。
――そして、私の生活を、私の手で作る。
「よし、まずは生活から整えていこう――今日から、少しずつ。」
静かに立ち上がり、一歩ずつ、未来に向けて歩き出す瞬間だった。
登場人物
アマーリエ・フォン・ヴァイスベルク(17歳)
侯爵家ヴァイスベルク家の長女で、正式な跡継ぎ。
婿入り前提で婚約していたが、婚約破棄をきっかけに前世の記憶を思い出す。
前世は50代独身の栄養士。
感情に流されず、現実的で観察眼が鋭い。
料理と体調管理の知識を活かし、領地と人を立て直していく。
見た目は落ち着いた美貌だが、内面はかなり肝が据わっている。
オスカー・フォン・グラーツ(17歳)
侯爵家グラーツ家の次男。アマーリエの元婚約者。
跡継ぎではなく、立場を主人公の家に頼る形で婿入り予定だった。
自尊心は高いが実力が伴わず、
甘言に弱く、楽な方へ流されやすい性格。
自分が「選ばれる側」だと思い込んでいた。
ローザリア・フォン・ベルク(17歳)
ベルク子爵家の令嬢。
美貌と愛想を武器に、オスカーに近づいた張本人。
向上心は強いが、現実の身分差や貴族制度を甘く見ている。
自分の行動がもたらす結果を、深く考えないタイプ。
マリアンネ・フォン・ヴァイスベルク(14歳)
アマーリエの妹。
候爵家ヴァイスベルク家の次女。
姉を素直に慕っており、婚約破棄後も変わらず味方。
年相応の明るさと、貴族令嬢としての教育を受けた聡明さを併せ持つ。
クララ
(年齢:20代半ば)
ヴァイスベルク侯爵家の専属メイド。
落ち着いた所作と実務能力の高い女性で、アマーリエ付きとして仕えている。
感情を表に出すことは少ないが、主の体調や変化には人一倍敏感。
アマーリエの指示を疑問なく実行に移す柔軟さを持ち、
「命じられる前に動く」タイプの有能な使用人。
主人を支える立場をわきまえつつも、
内心ではアマーリエの変化と才覚を強く信頼している。




