第13話|甘美なる策略、静かなる警告と揺れる日常
グラーツ侯爵邸、書斎。
夜更け。
分厚い報告書の最後の一枚を閉じたヴァルター・フォン・グラーツは、ゆっくりと息を吐いた。
従者の筆跡は乱れてはいない。
だが文面には、明らかな焦燥が滲んでいる。
――学園廃校舎にて、ローザリア嬢と次男オスカー様の親密な様子を確認。
――常軌を逸した陶酔状態。
――制止、不能。
ヴァルターの指が机を静かに叩く。
「……愚かだ」
だがその声音に怒号はない。 あるのは、冷静な分析。
恋ではない。
執着でもない。
これは――依存。
――私は、それを一度見ている。
依存は、家門を崩す。
「子爵家の動向を洗え」
「資金の流れもだ。徹底的に」
静かな命令が下る。
さらに、ひとつ。
「カールを呼べ」
20歳の長男、カール・フォン・グラーツは、 父に似た冷ややかな眼差しで報告書を読み終えた。
「……オスカーは、自覚がありませんね」
「そうだ」
短いやり取り。
カールは一瞬だけ考える。
「まずは接触を減らすべきでしょう。
直接制止しても逆効果になります」
ヴァルターはわずかに頷く。
「子爵家に圧をかける。 表向きは“学園の風紀の問題”としてな」
「承知しました」
感情は挟まない。
だがカールの胸中には、わずかな違和感が残っていた。
――ただの恋愛にしては、不自然すぎる。
翌朝。
オスカーは学園に登校していた。
前夜の宿。 子爵邸。
そして前日昼間の廃校舎。
甘い残滓が、まだ体の奥に残っている。
無意識に視線が動く。
廊下。 階段。 中庭。
――ローザリアはどこだ。
筆記具を握る指が、かすかに震える。
ノートには意味のない線が引かれている。
生徒たちの視線が集まる。
「最近、様子がおかしくない?」
「顔が……少し怖い」
ざわめきが広がる。
授業中、教師に名前を呼ばれる。
一拍遅れて反応。
その間、耳鳴りの描写。
「――オスカー・フォン・グラーツ」
音が遠のいた。
教室のざわめきが、水の底のようにくぐもる。
甘い香りが、ふいに鼻腔をくすぐった。
ここにはないはずの匂い。
それでも、胸が締めつけられる。
現実とのズレ。
ほんの一瞬でいい。
依存の異常さが際立つ。
だが、オスカーは気づかない。
反対側の教室。
アマーリエは前日昼間の廃校舎での光景を思い返し、心がざわついていた。
あれは恋人同士の熱ではなかった。
支配。 陶酔。 理性の剥奪。
自身の人並みな恋愛経験の常識と、 あの“異常なまでの心理支配”のギャップ。
ぞくりと、背筋が震える。
視線を落とす。
けれど、前世の記憶が微かに疼く。
――これは、自然ではない。
直感が告げている。
恐怖と理性がせめぎ合う。
オスカーの教室から見える廊下の向こう側では、ローザリアは静かに立っていた。
視線を上げる。
それだけで、オスカーの呼吸が浅くなる。
ふっと微笑む。
それだけで充分。
彼は抗えない。
だが、その様子を 遠くから見つめる者がいる。
視察という名目で訪れた、オスカーの兄カールだった。
彼は弟の様子を観察していた。
そして、ローザリアへと視線を向ける。
――なるほど。
確かに、美しい。
所作も洗練されている。
一瞬だけ、測る。
だがーー
心は動かない。
「……警戒すべきだな」
小さく、独り言のように呟く。
視線が、絡む。
まだ“完全支配者”ではない。
これが後の覚醒に繋がる。
ローザリアはまだ気づいていない。
自分を値踏みする視線があることを。
一方、その頃王城ではーー
フェリクスが、レオンハルトへの報告を終える。
違法薬物の可能性。
子爵家の資金の流れ。
侯爵家の動き。
レオンハルトは窓辺に立ち、外を見ていた。
「侯爵家が動くか…」
低い声。
「では、こちらも証を握るとするか…」
振り向くその瞳は、静かに鋭い。
盤面は、動き始めた。
午後、学園の中庭では、
ローザリアがオスカーと並んで座り、微笑んでいた。
その背後に、カールは静かに立つ。
そしてその瞬間、王城でもまた、別の駒が動いていた。
甘言の夜は、盤上へ置かれた。
誰が駒で、 誰が王か。
ーーまだ、誰も知らない。
ただひとつ確かなのは、盤がもう閉じたということ。




