選ばなかった可能性
その選択をしなかったことについて、僕は長いあいだ深く考えなかった。
選択しなかったものは、選択肢の外に落ちて、自然に消えるものだと思っていた。
靴下の片方みたいに。
彼女と別れたのは、雨の降らない午後だった。
理由ははっきりしていたし、説明もできた。
未来の方向性が違うとか、言葉の温度が合わないとか、そういう整った理由だ。
彼女は静かに頷き、コーヒーを一口飲んだ。
その仕草が、最後まで僕の記憶に残った。
その後、人生は順調に進んだ。
仕事を変え、街を変え、何人かの人を好きになり、やがて結婚もした。
問題はあったが、致命的ではなかった。
少なくとも、表向きには。
ある夜、帰りの電車で、ふと思った。
もしあの日、あの席を立たなかったら、どうなっていただろう、と。
それは後悔というより、確認に近い感情だった。
その瞬間、僕の隣の座席に、
“選ばれなかった僕”が座った気がした。
彼は僕より少し疲れていて、少し自由そうだった。
同じ顔をしているのに、目の奥の景色が違っていた。
彼は言わなかった。
責めもしなかった。
ただ、同じ速度で揺られていた。
家に帰り、シャワーを浴び、歯を磨き、ベッドに入った。
隣では妻が規則正しい呼吸をしている。
僕はその音を聞きながら、もう一つの呼吸を想像した。
存在しなかったはずの、でも確かに“あったかもしれない”生活の呼吸。
翌朝、目覚めると、その感覚は薄れていた。
だが完全には消えなかった。
影のように、歩幅を合わせてくる。
選ばれなかった可能性は、
怒らないし、叫ばない。
ただ、黙って並んで歩く。
それは僕に何かを要求しない。
戻れとも言わない。
でも、時々こう囁く。
「別の景色も、確かに存在した」と。
僕はコーヒーを淹れ、新聞を読み、今日の予定を確認する。
人生は相変わらず前に進んでいる。
それでいい。
前に進むしかない。
ただ、夜になると、ときどき思う。
選ばなかった道もまた、
どこかでちゃんと風に吹かれ、
誰かと笑い、
そして静かに年を重ねているのではないか、と。
それを想像することが、
僕の中の淋しさを少しだけ整えてくれる。
世界は一つしか選べない。
でも、選ばれなかった世界が、
完全に消えるわけじゃない。
それはたぶん、
人が人である限り、
ずっとそうなのだ




