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人生の一コマ  作者: kuroi
8/15

仮病の日

朝、目を覚ましたとき、僕の身体は特にどこも悪くなかった。

頭も痛くないし、喉も腫れていない。

それでも僕は、会社を休むことにした。

理由は単純で、説明しづらかった。

世界と自分のあいだに、ほんの数ミリの隙間ができてしまったのだ。


スマートフォンを手に取り、上司にメッセージを送った。

「体調不良のため、本日は休みます」

嘘は短く、具体性を持たないほうがいい。

それは長年の経験で学んだことだった。

送信ボタンを押すと、部屋の空気が少しだけ軽くなった。


カーテンの隙間から、午前の光が床に落ちていた。

その光は、出社する人間のためのものでも、休む人間のためのものでもなく、

ただ平等にそこに存在していた。

僕はコーヒーを淹れ、いつもよりゆっくりとマグを持ち上げた。

味は特別でも何でもなかったが、なぜか身体の奥にまで染みていく感じがした。


テレビをつけると、ニュースキャスターが元気な声で経済の話をしていた。

株価は上がり、世界は相変わらず忙しそうだった。

僕は音量を下げ、代わりに洗濯機を回した。

洗濯機の回転音は、僕の代わりに何かを働かせているようで、少し安心した。


昼前、布団に横になり、天井を見つめた。

仮病というのは、身体ではなく、心につく小さな絆創膏みたいなものだ。

完全には治らないけれど、これ以上悪化しないための最低限の処置。

僕はそんなふうに考えていた。


昼食は冷蔵庫に残っていたパンと卵で済ませた。

フライパンで卵を焼く音が、やけに現実的だった。

世界はちゃんと回っている。

僕が一日抜けたところで、歯車は止まらない。

それを確認できただけでも、この休みには意味があった。


午後、少しだけ眠った。

夢は見なかった。

あるいは見たけれど、目覚めたときには忘れてしまったのかもしれない。

目を覚ますと、部屋の光の角度が変わっていた。

時間は、僕が働いていなくても、きちんと進んでいた。


夕方、会社用のチャットを開き、未読の通知を眺めた。

誰も僕を探していなかった。

それに少し安心し、少しだけ寂しくなった。

人は自分が必要とされていないと困るが、

必要とされすぎても、同じくらい困る生き物だ。


夜になり、シャワーを浴びた。

湯が肩を流れる感触は、今日一日の言い訳をすべて洗い流してくれるようだった。

鏡の中の自分は、少しだけ輪郭が戻っていた。


布団に入り、明日のことを考えた。

明日はたぶん、また会社に行くだろう。

仮病は今日で終わりだ。

でもこの一日は、確かに僕の中に残る。

何もしなかった一日ではなく、

世界との距離を測り直した一日として。


眠りに落ちる直前、僕は思った。

人間には時々、理由のない休息が必要なのだ。

それを病気と呼ぶかどうかは、

わりとどうでもいい問題なのかもしれない。

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