姉と弟
弟の視点
姉さんの背中には、いつも淡い光が揺れていた。
それは台所の蛍光灯にも、夕暮れの影にも、雨の日の窓にも、さりげなく寄り添っていた。
十一歳という年齢差が、その光の輪郭を絶妙に曖昧にしていた。
僕が十七のとき、姉さんは二十八。
大人と子どもの境界線を僕がようやく見つけかけた頃、彼女はもうその線のずっと先を歩いていた。
だけど、時々ふっと振り返り、僕を確かめるように微笑んだ。
その笑顔が、どうしてあんなに胸を締めつけるのか、僕は説明できなかった。
ある夏の夕暮れ、姉さんが僕の部屋に入ってきて、窓の鍵を閉めた。
「今日は湿気が多いわね」
と彼女は言った。
それはただの言葉のはずなのに、僕の世界の中で太い柱のように響いた。
そのとき、僕はふと、彼女の手首に淡い傷のような日焼け跡を見つけた。
それを見ただけで、胸の奥の何かが深く沈んだ。
触れられないものほど、近く感じることがある。
それがその夕方、初めてわかった。
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姉の視点
弟が十五を過ぎたころ、私は彼を“子どもとして扱うことが難しくなった”。
かといって“大人”として扱うには、まだ危うさが多すぎた。
その中間にある揺らぎが、私の心を予想外の方向へ動かすことがあった。
私はそれを、決して認めてはいけない種類の感情だと理解していた。
だから、胸の奥にある微細な揺れを、日常の雑音で上書きするように暮らしていた。
料理の味見、洗濯物の匂い、コーヒーの湯気。
そういう静かな作業が、私を現実へ引き戻してくれていた。
弟が私を見るまなざしには、ときどき危うい光が宿っていた。
それは若さゆえの無防備な感情かもしれないし、
単なる憧れの一形態かもしれない。
けれど、どちらにせよ “越えてはいけない線” がそこにあることは、私が一番よく知っていた。
夏のある日、彼の部屋の窓を閉めながら、私は気づいてしまった。
彼の視線が、以前よりも確かに私を捉えていることに。
まるで私という存在を丁寧に読み取ろうとしているように。
私の胸の奥で何かが微かに震えた。
その震えがとても危険で、とても優しかった。
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弟の視点
家を出ると決めた日の朝、姉さんは静かにコーヒーを淹れていた。
湯気が立ちのぼるのを見ているだけで、喉の奥が痛んだ。
「決めたのね」
姉さんはそう言った。
言葉の意味は簡単なのに、その重さはとても軽くはなかった。
僕は頷くしかなかった。
ここに留まれば、越えてはいけないものが、いつか形を持ってしまう気がしたからだ。
玄関に向かうと、背中に視線を感じた。
その視線が、僕の最後の甘さをひとつ残らず剥がしていくようだった。
振り返らなかった。
振り返れば、きっと何かが壊れてしまうと思った。
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姉の視点
弟が玄関から出ていく音を聞いたあと、私は食器棚にもたれて深呼吸した。
彼が出ていく背中を止めなかったのは、私が正しい大人でありたかったからだ。
それでも、胸の奥で何かがそっと折れた。
あの子はこれから自分の世界を見つけていく。
私の知らない人を愛し、私の知らない場所で笑う。
それが正しいことだ。
正しくて、痛いことだ。
私は窓を開け、夏の風を吸い込んだ。
風の匂いの中に、彼の成長と、失われた何かの余韻があった。
「行ってらっしゃい」
声には出さなかった。
出せば、涙と混ざってしまうと思った。
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エピローグ:ふたりの視点が重なるところ
互いに越えられなかった線は、
ふたりの間に痛みを残したけれど、
同時に
“壊さなかったことの美しさ”
という静かな価値も残した。
恋ではない。
愛でもない。
それでも確かに胸の奥に残り続け、
どこかでふたりの人生の形を少しだけ変えたもの。
世界には、言葉にはできない関係がある。
そしてその関係こそ、
最も長く胸に残るのかもしれない。




