結婚式の
式場の入り口に立った瞬間、空気の色が少しだけ濃くなったように感じた。
会場の照明は明るく、人々はほどよく浮き立った声で話していたけれど、そのざわめきの向こう側で、僕の心臓だけが違うリズムを刻んでいた。
胸の奥深くに沈んだ古い石が、ゆっくりと温度を変えていくような感覚だった。
受付で名前を書くと、ボールペンのインクが紙の上で微妙に震えた。
原因は手の震えか、空調か、あるいは僕自身の記憶か。
わからないまま、僕は案内された席へと歩いた。
彼女の名前がアナウンスされ、ドアが開く。
白いドレスが光の中をゆっくり進む。
その一瞬で、僕の中の時間がほどけ、かつての午後の匂い――彼女の笑い声、夏のアパートの風、二人で見た夜の海――が、ゆるやかな波のように押し寄せてきた。
だけどその波が返ってくることは、もうなかった。
新郎の隣に立つ彼女は、僕が知っていた頃よりも少しだけ成熟した目をしていた。
その目は、未来という名前の部屋にすでに片足を踏み入れていて、僕はその部屋の前まで来てはいるものの、敷居を越える資格を失った旅人みたいだった。
誓いの言葉が読み上げられる。
僕の胸の中で、何かが静かに崩れる。
音はしなかった。
崩れるとき、心というのは案外静かなものらしい。
乾杯が終わってしばらくして、彼女がこちらに視線を向けた。
ほんの一瞬だった。
けれど、その短いまなざしは、僕らがもう“二つの物語”に完全に別れたことを、誰よりも冷静に告げていた。
その目には後悔も迷いもなかった。
あるのは、穏やかな決別だけだった。
僕は席を離れ、窓辺に立った。
ガラス越しの街は夕陽に染まり、影がひどく長かった。
影は過去みたいだ、と僕は思った。
どれだけ踏みしめても、足元から離れずについてくる。
でも、もう触れることはできない。
「来てくれて本当にありがとう」
式の終わりに、彼女は小さな声でそう言った。
それは礼儀の一言だったかもしれない。
でも、僕にはそれ以上の何か――言葉になりきれない別れの残響のようなものが混じって聞こえた。
「幸せに」
と僕は答えた。
それはうまく発音できなかった。
言葉が喉の途中で角度を失って、少しだけゆがんで出た。
外に出ると、夜の風が頬に触れた。
強くも弱くもない、ただそこにある風だった。
誰もが自分の人生を運んでいくように、風もまた、僕の中の痛みをそっと運んでいった。
僕は歩きながら思った。
失うというのは、終わることじゃない。
終わらないまま、静かに形を変えて、心の奥で呼吸し続けることなんだ。
その夜、街の灯りはどこまでも優しかった。
それが少しだけ、やるせなかった。




