80歳
彼女が最初に長く眠ったのは、六月の終わりのことだった。
湿った風がアパートの階段をゆっくり押し上げてくるような午後で、僕らは冷蔵庫から取り出したアイスコーヒーを飲みながら、古いレコードをかけていた。
どこにでもある、少なくともその時の僕にはそう思えるような、繰り返されるはずの夏の風景だった。
でも、彼女は突然ソファに深く沈み込み、まるで電池の切れたおもちゃみたいに眠ってしまった。
そしてその眠りは、三時間が五時間に、五時間が二日間に、と少しずつ、しかし確実に長くなっていった。
医者は肩を竦めて「原因不明ですね」と言った。
僕はそれが気に入らなかった。
原因不明という言葉は、責任の置き場所をどこにも作らない。誰も悪くないけれど、誰も助けてくれない。
彼女が最後に目を閉じたのは、僕が二十歳になったばかりの誕生日だった。
「夢を見るとき、私はきっと遠いところに行ってるのよ」
と、彼女は笑って言った。
「でも、あなたのいる場所にいつか戻るから、心配しないで」
その言葉が、僕の胸のどこかに小さな石みたいに沈んだ。
彼女は眠り、その後の五十年以上の歳月を、僕はひとりで通り抜けた。
仕事を替え、街を替え、住む場所を替え、いくつかの人を失くし、いくつかの人と出会い、そしてまた失った。
それでも、彼女の眠る静寂だけは変わらず、部屋の奥の、深い海みたいな場所にあった。
八十になった僕は、夏の光の中でゆっくりと瞼を開く彼女を見た。
皮膚は若く、声も若く、目に宿る光だけが、昔と同じだった。
「ただいま」と彼女は言った。
僕は息を吸い込んだ。
肺に入った空気が、やけに新しいもののように感じられた。
「おかえり」と僕は答えた。
声はひどく老いていたが、気にする人間はここにもう僕しかいない。
彼女はしばらく部屋を見回した。壁の色、棚の本、窓辺の観葉植物。
すべてが彼女の知らない時間を纏っていた。
「あなた、ずいぶん年を取ったのね」と彼女は言った。
「まあ、それなりにね」と僕は笑った。
人生は待つには少し長く、忘れるには少し短すぎる。
彼女は僕のそばに座り、そっと僕の手を握った。
彼女の手はあの日と変わらず、海辺の砂みたいに温かくて、柔らかった。
「眠っている間、ずっと夢を見ていた気がするの」と彼女は言った。
「でも、どんな夢だったのか、思い出せない」
「誰だって、自分の見てきたものを全部覚えてはいないよ」と僕は言った。
「それでいいんだ」
彼女は微笑み、僕らはしばらく言葉もなく座っていた。
風がカーテンを揺らし、外ではどこかの子どもがアイスクリームを落として泣いていた。
世界は変わる。
人は老いる。
眠りは時々、残酷な速度で時間を連れ去っていく。
でも、彼女は帰ってきた。
それだけで、僕の八十年は少しだけ報われたように思えた。
そしてその日、僕たちは初めてまた同じ夢を見ることにした。




