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人生の一コマ  作者: kuroi
5/15

80歳

彼女が最初に長く眠ったのは、六月の終わりのことだった。

湿った風がアパートの階段をゆっくり押し上げてくるような午後で、僕らは冷蔵庫から取り出したアイスコーヒーを飲みながら、古いレコードをかけていた。

どこにでもある、少なくともその時の僕にはそう思えるような、繰り返されるはずの夏の風景だった。


でも、彼女は突然ソファに深く沈み込み、まるで電池の切れたおもちゃみたいに眠ってしまった。

そしてその眠りは、三時間が五時間に、五時間が二日間に、と少しずつ、しかし確実に長くなっていった。


医者は肩を竦めて「原因不明ですね」と言った。

僕はそれが気に入らなかった。

原因不明という言葉は、責任の置き場所をどこにも作らない。誰も悪くないけれど、誰も助けてくれない。


彼女が最後に目を閉じたのは、僕が二十歳になったばかりの誕生日だった。


「夢を見るとき、私はきっと遠いところに行ってるのよ」

と、彼女は笑って言った。

「でも、あなたのいる場所にいつか戻るから、心配しないで」


その言葉が、僕の胸のどこかに小さな石みたいに沈んだ。


彼女は眠り、その後の五十年以上の歳月を、僕はひとりで通り抜けた。

仕事を替え、街を替え、住む場所を替え、いくつかの人を失くし、いくつかの人と出会い、そしてまた失った。

それでも、彼女の眠る静寂だけは変わらず、部屋の奥の、深い海みたいな場所にあった。


八十になった僕は、夏の光の中でゆっくりと瞼を開く彼女を見た。

皮膚は若く、声も若く、目に宿る光だけが、昔と同じだった。


「ただいま」と彼女は言った。


僕は息を吸い込んだ。

肺に入った空気が、やけに新しいもののように感じられた。


「おかえり」と僕は答えた。

声はひどく老いていたが、気にする人間はここにもう僕しかいない。


彼女はしばらく部屋を見回した。壁の色、棚の本、窓辺の観葉植物。

すべてが彼女の知らない時間を纏っていた。


「あなた、ずいぶん年を取ったのね」と彼女は言った。


「まあ、それなりにね」と僕は笑った。

人生は待つには少し長く、忘れるには少し短すぎる。


彼女は僕のそばに座り、そっと僕の手を握った。

彼女の手はあの日と変わらず、海辺の砂みたいに温かくて、柔らかった。


「眠っている間、ずっと夢を見ていた気がするの」と彼女は言った。

「でも、どんな夢だったのか、思い出せない」


「誰だって、自分の見てきたものを全部覚えてはいないよ」と僕は言った。

「それでいいんだ」


彼女は微笑み、僕らはしばらく言葉もなく座っていた。

風がカーテンを揺らし、外ではどこかの子どもがアイスクリームを落として泣いていた。


世界は変わる。

人は老いる。

眠りは時々、残酷な速度で時間を連れ去っていく。


でも、彼女は帰ってきた。

それだけで、僕の八十年は少しだけ報われたように思えた。


そしてその日、僕たちは初めてまた同じ夢を見ることにした。

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