最後の日
月が落ちてくる、というのは本来きれいな比喩のはずだ。
潮騒の調べとか、恋の静かな終わりとか。
でもこの日のそれはまったく違った。
地球上の誰もが、見上げれば月の輪郭が昨日よりわずかに大きく、そして重たく見えると気づいていた。
街は奇妙に静かだった。
人々は叫ばなかったし、暴れもしなかった。
混乱というより、世界全体が深く息を吸い、そのまま吐き方を忘れてしまったみたいだった。
ニュースキャスターは淡々とした声で距離と時間の数字を読み上げていたけれど、その声も次第に遠ざかっていった。
数字というのは、実感のない終末にはどうも役に立たない。
僕はアパートのベランダに出て、コンビニの安いイスに腰を下ろした。
空気はやけに澄んでいて、普段なら見えない星がちらちら瞬いていた。
だが主役はどうしたって月だった。
その巨大な球体は、もう“衛星”というより巨大な岩の顔をしていた。
ひび割れた、古代の表情を持った顔だ。
「ずいぶん急いでるじゃないか」
と、僕は言った。
もちろん月が返事をするわけがない。
それでも言葉を投げずにはいられなかった。
誰かが聞いてくれるかもしれない、そんな淡い期待があった。
隣の部屋の老婦人がベランダに出てきて、僕に軽く会釈した。
「きれいねえ」と彼女は言った。
「落ちてくるのに、こんなにきれいだなんて不思議ね」
僕も頷いた。
美しさと終わりがこんなに近い距離で並ぶ日なんて、そうそう来ない。
世界の重力はわずかに乱れ、風の流れがどこか不自然だった。
遠くで犬が吠え、その声が数秒遅れて反響した。
空気の厚みまでもが変わりつつあるようだった。
やがて月は、空の半分を埋め尽くすほどの大きさになった。
大気の端で光が屈折し、月の輪郭が虹のように滲んだ。
恐怖よりも、圧倒的な静謐があった。
世界が巨大な本の最後のページに指を添え、そっと閉じようとしているような感じだ。
僕はポケットから缶コーヒーを取り出し、プルタブを開けた。
微かな炭酸の音が、やけに存在感を持って耳に届いた。
「まあ、悪くない終わり方だよな」
と僕はつぶやいた。
人類の歴史の中で、月がこんなに近づいた瞬間なんて一度もなかった。
それをこの目で見られるなら、多少の終末くらいは仕方ない気もした。
地平線がゆっくり赤く染まり、空間のひずみが波のように走った。
月が、とうとう大気圏の外側を擦ったのだ。
真昼のような光が夜空を裂き、影が一斉に揺れた。
最後の瞬間、僕はふと、月の表面にある無数のクレーターが、人間の顔ほどには豊かな感情を宿しているように見えた。
それは悲しみなのか、安堵なのか、誰にもわからない。
ただ、その表情は妙に優しく見えた。
世界は白い光に包まれ、音が消えた。
ページが閉じる音もなく、ただ静かに幕が降りた。
まるで、長い物語の終わりを、世界全体が静かに受け入れたみたいだった。




