最後の日
年末年始の休みの最後の日は、いつも少し曖昧だ。
祝日でも平日でもなく、未来でも過去でもない。カレンダーの上では確かに存在しているのに、気持ちの上ではどこにも属していない。世界が「さあ戻れ」と言う前に、「まだ寝ていてもいい」と囁く。そういう二重の声が同時に聞こえる。
朝は遅く目が覚めた。目覚ましをかける理由がない朝は、身体の奥のほうからゆっくり立ち上がってくる。カーテン越しの光は、もう「休みの光」ではなかった。かといって「仕事の光」でもない。その中間の、判断を保留した色をしていた。
僕はコーヒーを淹れた。豆は年末に買って、結局あまり使わなかったやつだ。袋の口を開けると、少しだけ時間の匂いがした。湯を注ぐと、褐色の液体が静かに膨らみ、しばらくして落ち着く。休みの終わりも、たぶんこんなふうに静かに沈んでいく。
冷蔵庫には、使いかけの食材がいくつか残っていた。半分のハム、ひとつだけ残った卵、しなびかけたレタス。休みというのは、こういう“中途半端なもの”を増やす。僕はそれらを適当にフライパンに放り込み、塩を振った。味は悪くなかった。おいしさというのは、きちんとした料理より、こういう場当たりのほうが際立つことがある。
テレビをつけると、特番の再放送が流れていた。誰かが大げさに笑い、誰かが景品を抱えて泣いていた。僕は音量を下げ、代わりに換気扇の音を聞いた。機械の音は正直だ。笑いも涙も必要としない。ただ回り続ける。
昼前、散歩に出た。外は思ったより冷たく、空気がきれいだった。住宅街の道には、まだ正月の名残みたいなものが貼りついていた。玄関のしめ飾り、少し色あせた門松、スーパーの前の「初売り」の看板。世界はすでに通常運転に戻る準備を終えているのに、僕だけが手続きを忘れているようだった。
コンビニで缶コーヒーを買い、歩きながら飲んだ。缶コーヒーは、どの季節でも同じ味がする。年末でも年始でもない顔をしている。僕はその無感情さが少し好きだった。
帰宅して、部屋を片づけた。と言っても大したことはない。散らかった本を積み直し、洗っていない皿を洗い、床に落ちていたレシートを捨てる。そういう小さな作業をしているうちに、明日というものが少しずつ現実になってくる。明日は早起きで、通勤で、メールで、会議で、目の疲れで、そしていつもの帰り道だろう。想像しただけで、心が少し固くなる。
夕方、風呂に入った。湯の中で目を閉じると、休みのあいだに積もった余計なものが、少しずつ剥がれていく気がした。疲れだけじゃない。怠け癖とか、先延ばしの言い訳とか、妙に膨らんだ期待とか。そういうものが湯に溶けて流れていく。
夜になり、翌日のための服を準備した。シャツのアイロンをかけ、バッグの中身を確認する。鍵、財布、社員証。現実に戻るための三点セットだ。僕はそれらを机の上に並べ、しばらく眺めた。まるで別の人生の道具みたいに見えた。
寝る前に、窓を少しだけ開けた。冷たい空気が入ってきて、部屋の温度がわずかに下がる。その冷たさが、僕の中の浮ついた部分を落ち着かせてくれる。明日は明日で、ちゃんと来る。逃げ道はない。でも、逃げ道がないことが、必ずしも悪いわけじゃない。
布団に入る。眠れるかどうかはわからない。休みの最後の日は、眠り方まで忘れてしまっていることがある。僕は天井を見つめ、今日一日を思い返した。特別なことは何もなかった。だけど、何も起きなかったことが、少しだけ救いだった。
年末年始の休みの最後の日は、いつも静かな儀式だ。
休みの自分を丁寧に畳んで、
明日の自分のために棚にしまう。
そして灯りを消す。
闇の中で、僕は小さく息を吐いた。
それはため息というより、
次のページをめくる前の間みたいなものだった。




