駅前、15分
改札はすでに出ていた。
切符もICカードも、もう役目を終えている。
ここは駅前で、仕事の空気がはっきり匂い始める場所だ。
スーツの人間が増え、歩く速度が半段階だけ上がる。
僕は駅前の端にある喫煙所で立ち止まった。
風防の内側は、朝の世界から少しだけ切り離されている。
タバコに火をつけると、煙は素直に立ち上らず、
一度ためらってから、ゆっくりと形を失っていった。
駅前の朝は忙しい。
出勤する人、見送る人、
まだ眠っているような顔で立っている人。
でも喫煙所の中だけは、
時間がわずかに粘度を持っている。
吸い終えても、すぐには歩き出さなかった。
このまま会社に向かうと、
ジャケットに残った匂いが、
僕がどこから来たかを正直に語ってしまう。
それが少しだけ嫌だった。
だから十五分かける。
匂いが消えるまでの、
誰にも説明しない時間。
駅前をゆっくり一周する。
チェーン店のカフェ、
シャッターを半分上げた花屋、
信号待ちで足踏みする人たち。
世界はちゃんと動いている。
僕だけが、意図的に速度を落としている。
風を選ぶように歩く。
ビルの隙間、
高架下、
広場の端。
煙の記憶が、少しずつ街の匂いに溶けていく。
匂いというのは、
意志よりも長く残る。
忘れたつもりの感情と同じだ。
完全に消えたかどうかはわからない。
でも、もう気にならなくなる境目はある。
スマートフォンを見ると、
ちょうど十五分が経っていた。
僕は立ち止まり、
ジャケットの襟を整え、
何も考えずに一度だけ深呼吸した。
駅前の喧騒が、
そのまま仕事の音に変わる。
切り替えは完璧じゃない。
でも、これでいい。
僕は会社の方向へ歩き出す。
駅はもう背後にあり、
今日という一日が、
遅れも早まりもせず、
静かに始まっていた。




