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西暦2200年を待たずに、地球は死地となった。
止まらない温暖化の影響によって極端な異常気象や氷解による海面と海水温の上昇、それに伴う干ばつや豪雨、ハリケーンが世界各地で頻発。そして天候不順がもたらす農作物や海産物などすべての食料への大打撃と、絶滅危惧種の増加による生態系の崩壊。熱中症や感染症の拡大による健康被害が甚大になるなど各方面で事態の悪化が月日を追うごとに深刻化した。
ごく一部の富裕層は、安住の地を求めて月や火星を目指したが、なすすべのない大多数の世界中の人々は超自然災害に巻き込まれたり、未来に絶望して暴徒化した人々によって、破壊と殺傷の巻き添えをくらった。それらを抑えるはずの警察や自衛隊も日を追うごとに機能しなくなり、国対国の核戦争も激化。その多くの人々が様々な状況で不幸な早すぎる死を迎えるほかなかった。
だが、多くの人が考えていない方向性で、生きるための住処を造るべく、最悪の近未来を予兆して行動を起こしていたエンジニアたちがいる。そこに国籍の壁はない。みなが同じゴールを目指している。国連の認可を受けて、沈設予定位置からもっとも近い無人島を埋め立てて、その巨大なドーム建築ははじまっていた。
構想から着工、そして完成の日の目をみるまで六十二年の月日が流れた。二千年代初頭ではほぼ不可能といわれた海底都市計画が、科学技術の進歩と進化、そしてAIの高度化が進み、それでも数えきれないトライ&エラーとテストを繰り返して完成した。プロジェクトの参加者の多くから莫大な私費も投じられた。
世界各地で入居者の募集がはじまったが、思いのほか手を上げる人は少なかった。入居が決まった人は、役所手続きに身辺整理と身体検査など膨大な時間と精神を削った後に、生活訓練がはじまり、太陽の光を浴びなくても健康被害が回避されるように遺伝子変換もしなければならなかった。その煩わしさから入居を拒む人が大半だったようだ。
それから、さらに時は流れたーー。
——西暦2530年。
生き残るために地上から海底へ移住を希望した人々が海底都市〈ネレイド九区〉へ居住をはじめてから、すでに四世紀が過ぎていた。
マリアナ海溝の最深部近く、一万メートルの圧力に耐えるために設計された、三重構造の防圧ドームが連結している。外層はチタン合金を主体として、高張力鋼と超々ジュラルミン、炭素繊維強化プラスチックなどで複雑に構成されたもので覆われ、第二層には光合成藻を利用した酸素循環層、内層には人々が暮らす街並みが広がっている。
"三連ドーム"と呼ばれるそれぞれの球体は、【中央居住区】【研究区】【外縁防衛区】の機能を担い、全体でおよそ十二万の人口を支える。
リュウ・サガラは先月十六歳になった。
黒髪にわずかに藍が混じり、瞳は深海のように灰青い。身体は細身だが、しなやかな筋肉をもっている。彼はいま中央居住区の片隅で父と暮らしている。そして日々、アカデミーで座学を受けながら、週末は整備士の見習いで製造局に通っている。
父は海底資源開発の主任技師をしているが、母は地上回線事故で四年前に亡くなっていた。
このネレイド九区は、マリアナ海溝の深度約九千八百メートルに位置する。可能な限り、水圧を逃がすための層状構造になっている。
中心に中枢塔〈アトランティス・スパイン〉があり、そこから放射状に九つの区画(内側の一区から外側に向けて九区)が広がる。
リュウの暮らす九区は最外縁部で、古びた整備用ドームが多く、庶民や技術者の居住区だ。対して一区は指令中枢であり、上層階級や地上からの派遣官僚が住んでいる。
そして、深海圧と光の欠乏に適応するため、ここに暮らす人々は遺伝子改変を受けており、透きとおる瞳と青白い肌が、地上人との違いを際立たせていた。
ネレイド九区では、夜明けを告げる太陽の代わりに、ドーム内の照明が緩やかに色温度を上げていく。青白い光が水に似た揺らぎを持ち、透明な空気の層を満たしていく。壁のパネルが微かに唸り、人工重力の制御が切り替わる音がした。
リュウは、その振動で目を覚ました。
黒髪が額に貼りついている。寝汗をかいたようだ。薄手のインナーのままベッドから起き上がり、洗面所に行くと、水温調節されたサーバが適温に調節してくれて顔を洗った。父はすでに出勤している。ハンドタオルで顔を拭きながら、彼は外壁方向の窓を見た。分厚いチタンガラス越しに、濃い藍色の水圧層が果てしなく広がっている。ドームの外壁に反射する光が、時折かすかに波打った。まるで、誰かが外から指でなぞっているようだ。
リュウはウォークインクローゼットから制服を取り出し、腕を通した。足元では、白藍色の小さな整備ドローンが浮遊していた。
「おはよう、リュウ」高いソプラノ声が足元から響く。
「ああ。おはよう、ミーナ」彼は頭をぼりぼりと搔きながらキッチンへ向かった。
ミーナは彼の母が設計した作業補助学習AIロボットだ。直径四十センチほどの球体のボディに六本のアームを持ち、目玉のようなカメラが瞬いた。
「今日も無断アクセス? 通信局のセキュリティレベル、保安局が上げたばかりだよ」
リュウは、最近、あることを調べるため、通信局への侵入を繰り返していた。
キッチン内の食物庫の方へ行くと、パネルのボタンを押した。「いつもの朝食一人分。あと、ヨーグルトもつけて」
このクッカーは、冷蔵庫と電子レンジやトースターなどの性能も兼ね備えた高度多機能性調理器具で、庫内に材料と皿やグラスなどの備品さえ入っていれば、声をかけるとそれに見合ったものに調理して出してくれる。
ドーム内には食品工場があり、人工光を利用した水耕栽培で野菜の栽培が行われ、バイオリアクターと呼ばれる技術により、食用藻類や昆虫、培養肉なども生産されている。
「ちょっと見るだけだよ。授業の延長みたいなもんだ」リュウが上半身をストレッチしながらいった。
十秒とかからず、クッカーがピュンと音を鳴らして調理完了を告げた。小窓が上がり、皿が載ったトレーがスライドして出てきた。こんがり焼き色のついたエッグトーストと均等にスライスされたキュウリとトマトが一口大になったレタスと合わさり、オニオンドレッシングがかかっている。コーンポタージュとプレーンヨーグルトの入ったガラスの容器も添えてある。
「そういって、君のママもよく怒られてた」
リュウは苦笑して、ダイニングテーブルでトーストにかじりついた。ミーナは母の記憶を部分的に保持していた。
「ミーナ。クッカーの中の食材の在庫見てきてくれる?フルーツが少なくなってた気がするんだ」
「はいはい、世話の焼けるご主人様」
彼女はそういって、その場でくるくる回っていたが、アームを出してぴょんと跳ねるようにクッカーへ向かうとドアを開いて中に入っていった。
リュウは食事を終えると、トレーをクッカーの小窓に戻して、ポケットからマウスケアガムを一枚取り出し嚙み始めた。これが歯磨きの代わりとなる。
ミーナが庫内からでてきた。「ライムとグレープフルーツがゼロ。それとスパゲティの1.7ミリが残り百十八グラム。あとは一週間は問題なさそう」
「そっか、父さんの晩酌用のライムか。帰りに買ってこよう。ミーナも覚えておいて」
「はいはい。はいは一回でいい」その場で円を描くように転がっている。
「行くよ」
リュウは相手にせず、玄関ドアのパネルを押した。中央から上下に開いた。虹彩認証なのでロックの必要はない。
外に出ると、空調の低い唸りが頭上を流れた。
アカデミー棟までの通路は透明パネルで覆われ、外の暗い水圧層がすぐそこに見える。時折、青白い光の粒が横切る――発光クラゲだ。彼らの群れが通るとき、街の灯りが少し揺らぐ。それがこの都市で、唯一”風”を感じる瞬間でもあった。




