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ディストピアにおける宗教的レジスタンスの空想

作者: 鈴木美脳

 現代世界においては富裕層の影響力の高まりによって民主主義は形骸化し、移民問題などを論点としたグローバリズムへの闘争が盛んだが、実際には中間層の没落などを原因に主流メディア等が非難されるにとどまり、個人主義や利己主義への文明の没落が反省される精神的改革はほとんど見当たらない。したがって、権力が所有する技術力の優位性は高まりつづけることから、人類の文明は公正世界仮説を抱きしめたまま滅亡していくだろう状況だ。

 近代世界は資本主義によって駆動され、アカデミアやメディアにおいてその功罪は言わばマルクス主義と呼べる「邪悪な権力vs善良な市民」というモチーフで語られてきた。つまり近代における「正義」の定義は何者かを悪魔化することによって成立しており、大衆個々人による消費社会への加担といった側面を反省してこなかった。「グローバリスト」を中心としたディープステートといったものを非難するに留まる反グローバリズム運動もその一種にすぎず、利己的精神への批判を拒絶した啓蒙思想を深化させつづける歴史を逆転してはいない。すなわちそうして、善悪の戦いは劇場化され、人間精神そのものの改革を問う真の正義は不可視化されつづけてきたのだ。


 では、真の正義とは何だろうか? そこでは例えば、学歴や富裕といった尺度は論点となる。

 人間社会の現実において、学歴の低い者は知的資質が劣位だと見なされがちだし、低賃金なら仕事ができないと見なされがちだ。特に男性において、低賃金はその人全体の価値の低さとも見なされやすい。一方で、賢かったり知識があったりするほど学歴に報われるかというと実はそうではないし、仕事ができる有能な人ほど多額の収入や高い地位に報われるかというとそうではない。どちらにせよ現実には、既存の利権構造に挑戦すれば失脚することが普通だ。つまり、大衆の生活実感とは異なり、客観的に論理的に見るなら公正世界仮説は成り立たない。

 言ってみれば、人類の歴史とは、愚かで無能だから生き残ってきた者達の歴史なのである。

 人間は生存を目指す者だから結果としての生存そのものが卓越性つまり知性や有能ではないか、とこの論点に反駁する者もいる。しかし、共感性が分断され技術的権力による支配と搾取の状態へと人類社会を収束させないための戦いも、種を生存させる本能の一部だ。そのような、群れの指導者としての資質、言わば王の血族の資質をもってせねば、人類が気づかぬうちに家畜化されていく事態を阻むことができないからだ。そして、経済人仮説、つまり利己的な個人を前提とすることが近代西洋的な思考フレームであり、個人的利益のみ利益として卓越性を見るという精神反応はすでに、近代的洗脳社会によって構築された脆弱な敗者の思考様式でしかなかった。


 人類はもう救えない。そう嘆いて見せることは簡単だし、事実でもあるのかもしれない。しかし、そんな絶望からは、腐敗しきったこの時代をどう生きるのか、その意味づけは生じない。

 現代の反グローバリズム運動は、利他的共感に向けた精神改革を含んでいない意味で不十分だ。しかしそうであるなら、不十分ではない反グローバリズム運動とは、どのようなものなのか? それを考えてみることが、最後に残された希望、今できる仕事なのではないだろうか?


 公正世界仮説は、すでに述べた理由で受け入れられない。それは、生者による自己正当化であり、死者に対する他者不当化だからだ。持つ者による自己正当化であり、持たぬ者に対する他者不当化だからだ。それは、人間精神の幼稚であり、その愚かさのゆえに、権力による搾取は深化し、現代で言うグローバリズムの問題も生じているからだ。

 しかし、公正世界仮説を受け入れないならば、卓越的な生の実践の報いは単に苦しみに満ちた残酷な死だ。

 そして、そのような結果にポジティブなポイントを数える思想体系を仮定するなら、それは何かしら宗教的だろう。

 宗教性を排して東洋的に「義」と呼んでもいいかもしれない。しかし、それを「義」と呼んだところで、経済人仮説という洗脳によって分断された大衆的視点から見れば、カルト的な宗教性にしか見えないのではないか。


 利他の価値を前提的に謳った思想体系としてはアブラハムの宗教がある。アブラハムの宗教とは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教をまとめて呼んだものだ。

 特に現代日本にとっては、事実上の植民地としての宗主国である米国文化との関係から、西洋キリスト教の情報は比較的になじみがある。

 キリスト教は、やがてイエス・キリストが復活して、罪を犯した者はみな罰を受け、善行を行った者はみな喜びに報われるという内容の教えだ。その日はイエスが死んで2,000年ほど経過してなお訪れていないわけだが、当初は数年後または数十年後程度にすぐ来るという終末論であった。日本も大きな影響を受けてきたインドのヒンドゥー教の輪廻転生思想でも、現世の行いの善悪は次の生において報いを受けると言える。古代エジプト神話でも、死後にマアトという神が、罪で重くなった心臓と鳥の羽の重さを比べて死者の扱いを決める。

 つまり、歴史的な人類社会は長らく、超越的な価値について何らかの形で公正世界仮説を共有し、現実社会の共感と団結について安定させ運営してきた。

 アブラハムの宗教は極めて厳しく偶像崇拝を禁じるが、実際に「義」そのものを神と呼ぼうとするならば、実はアブラハムの宗教自身が完全な偶像崇拝にほかならなかったのである。

 「邪悪な権力vs善良な市民」という解放の前進として歴史を意味づけし、将来について「正義」つまり大衆の勝利を運命的に空想する意味では、マルクス主義も単なる終末論の一種にすぎず、アブラハムの宗教の愚かさを何ら超克するものではない。


 一方、現代の政治的な運動においては、民主的な選挙手続きを通した議会での勢力争いが正面となり、倫理的な性質が良い人からの一票であろうが、そうではない人からの一票であろうが、一票としての価値には変わりがない。それを一因として、政治活動は経済活動と同様に、他者を道具と見なす傾向が強い。他者を道具と見なすとは、共感の対象として神経に接続し包含しないということであり、決して真剣に感謝や尊敬をしないということでもある。

 しかしながら、グローバリズムによる搾取構造の深化の遠因を深く理解するなら、そのような、他者を道具化する精神的な分断構造を超克すること自体が望まれる戦いの正面であることはそもそも自明だ。

 しかし、そのような意味で「綺麗な心」を持った他者を探そうとするなら、どんな政治団体をたずねたって、どんな宗教団体をたずねたって、まず決して得られないというのが現代社会の残念な現実だ。「グローバリズム」だの「反グローバリズム」だの言ってみても、それらを以上のようにちゃんと理解している者など一人も存在しないというのが、残念な現実だ。

 しかしそうであるなら、そのような「綺麗な心」を持った人々が複数存在して連帯して戦えている状況をあえて空想してみるべきではないだろうか?


 愛を愛し、貧しさを愛し、勝利が予感できない中で、なお屈することなく義のための戦いを続ける。そのための考え方のフレームワーク、教えの共有。それがもし実現するなら、どのような形をもって実現しうるか空想することはできるだろうか?

 神という概念、神という感覚、神という感覚を感じる資質としての聖霊、それらはそこにおいて意味を持つだろう。

 なぜ善良な人は善良であり、親切を行う人は親切を行うのか? そこに多かれ少なかれ聖霊が宿っているからだと言ってみることはできる。幼児はしばしばその宝庫だと言ってみることはできる。そして、聖霊は義を愛する。

 神のように振る舞え。神のように行動し、神のように語れ。それは決して、傲慢たれということではない。悪意と痛みによって報われつづけてなお義の道を歩もうということだ。

 では、生の報いはどこにある? 神のみが報いてくださる、と言うほかない。


 愛を生きる者はやがて殺されて死に、その生は報われない。それに報いてくださるのは、神だけだ。決して、人間や人間達ではないだろう。

 世に善意がないわけではない、しかし、義を率先するためには、善行の全体が報われる意味づけを形成することが欠かせない。完全な理解者を仮定することが欠かせない。


 知的で善良な者達から順に失脚させられて殺され、馬鹿の悪意しか存在しなくなった現代の人類社会。そのディストピアとしての性質は、今後も先鋭化してやむ見込みがない。

 しかし神なら、それぞれの愚者の中に善意を期待し、手を差しのべることを繰り返すだろう。それは生涯に渡って裏切られつづけるが、言ってみれば、裏切られつづけることが神の仕事なのだ。

 そして、他者に知性や良心を期待して裏切られることは、痛みだ。経験する鋭い痛みの一つ一つ全てが、善行だ。そこに価値を承認する意味づけの体系が、ここで言う宗教だ。


 私達は裏切られつづけてなお善意と誠実を繰り返す。それは世間から見ればスーパーナイーブに見えるだろう。意味不明なほど愚劣な狂気として軽視され棄却されるだろう。

 そして、それがナイーブと呼ばれるなら、呼ばせておけばいいのだ。実際には、人類史における卓越性の実態は、そのナイーブさしかないのだから。

 老化してなお幼児であれる者達が、神なのだ。

 彼らが持つ、神の感覚、神感。残念ながら、真に愛するに値する存在は、内面的にそこに感覚できる神を置いてほかにない。

 そうではない外部の何かを愛した途端、その愚かさと邪悪さに引きずられ、世俗的な価値に執着して俗物へと堕落し、ついに何らかの公正世界仮説を握りしめてどうしても手ばなすことができなくなるだろう。そのとき人の脳は必ず、自己の快を正当化するために誰かを外部化しはじめるのだ。


 憎むべきは、外部化だ。憎むべきとまで言わずとも、外部化こそが罪なのだ。その意味ですべての人間も動物も、罪人だ。だからこの現実世界には、愛すべき対象など存在しない。

 外部化こそが罪であるとは、哲学の体系の骨子だ。外部化こそが罪であることに気づかないことには、反グローバリズムの運動に勝利はありえない。だから私は、神を訴える。宗教的にしかこの課題を解くことはできないだろうと考える。


 神を愛する生は過酷だ。しかし、神を愛することによって救われる人もいる。一時的に少し救われるという場合もある。

 特に、世俗的な安寧を望んでも手に入れられない場合に、その痛みに満ちた人生を宗教は意味づけられる性質を備えている。

 世間の多くの宗教はしばしば独善であり、しばしば科学的事実に反し、しばしば社会的に有害だが、真に美しい宗教を新たに設計することもできる。

 重要なのは、平等主義は邪悪であり、外部化もまた邪悪だということだ。

 神を否定する人間中心主義、つまり利他的卓越性の否認は啓蒙思想として否認しなければならないし、かと言って劣位な存在と他者として共感の外部に置くならそれは愛ではない。極悪人を処刑するにしても、そこに少しは痛みを感じなければならない。手段としての必要悪を容認しつつも、愛を拡大していくべきだという基本哲学を死守しなければならない。


 歴史的な宗教者達は、人里離れた山や谷に集まって共同体を形成し貧しい宗教生活を送った。

 現代における宗教者はどうなるのだろうか? 実は世界はすでにディストピアであり、AIは超強烈な洗脳装置だ。正義ある連帯は暗号通信技術によって形成しなければならないのかもしれないし、共同体は実際に集まるというよりは、都市の部屋を結ぶ情報接続によってこそなされるのかもしれない。

 義を実践する形は、どのようなものだろうか? 有効な教えは、どのように共有されうるのだろうか? 虐げられながらも良心を備えて生きようとする人々に、有効な意味づけをどうしたら届かせることができるだろうか?


 神は存在する。あなたが神だからである。

 神は愛である。したがって、平等主義は罪であり、外部化もまた罪だ。

 生に意味が感じられない者は幸いである。世俗が愛するに値しない絶望こそが、愛を愛する人類の希望への唯一の扉だからだ。

 絶望に追い込まれてそれを意味づけようとするとき、聖霊の教えは鮮やかな色を帯びてくることだろう。

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