第一章 出会い 【20XX年 3月16日】
20XX年 3月16日(日) 天気:晴
日曜日の朝は、やけに静かだ。
普段なら寝ている時間に、店のシャッターを開ける。
期待はしていない。
でも――今日こそは、と意味もなく気合だけは入れてしまう。
久しぶりに早く起きたせいで頭がぼーっとする中、
掃除や仕込みを終え、10時きっかりに店をオープンさせた。
その直後だった。
「遅れてすみません!!」
扉を勢いよく開けて、ミオが駆け込んできた。
今日から日曜の営業にも入ると決まっていたのを、すっかり忘れていた。
「お、おはよう……とりあえず、エプロンだけつけちゃおうか」
しどろもどろな自分が恥ずかしい。
初対面じゃあるまいし、何やってんだ。
でもミオは、そんな私を咎めるでもなく、にこっと笑って頷いた。
少し乱れた髪をかき上げながら、制服のままバックヤードに消えていった。
エプロンをつけて出てきた彼女に、改めて業務の流れや、簡単なラーメンの作り方を説明する。
なぜ丁寧に教えるかって? そりゃ、今日もうちの店は暇だからだ。
開店から1時間が経っても、誰ひとり来ない。
まるでこの町に人間がいないんじゃないかってくらい静かだ。
「一ヶ月経つけど、仕事は慣れてきた?」
ふと聞いてみると、ミオは元気よく答えた。
「はい! 少しずつですけど、ドリンクが作れるようになってきました!」
その顔が、出会った頃よりずっと明るかった。
素直に嬉しかった。
あんなに人を避けていた子が、今は私の目を見て笑ってくれている。
(もし同い年だったら、きっとこの子に惚れてたかもな…)
そんなことを思いながら、暇なカウンターでぼーっとしていたら、あっという間に閉店時間が来た。
売り上げは、まぁ……相変わらずだ。
「はぁ……」
思わずため息をついた私を見て、ミオはキラキラした目で言った。
「お腹空いたんで、賄い作ってください!」
(少しは私と店の心配もしてくれよ……)
とは思いつつ、冷蔵庫を開ける。
ありあわせの材料を前に、なんとか一品ひねり出そうと5分ほど考えて、ようやく手を動かし始めた。
「お待たせしました。豚そぼろのピラフでございます。熱いので気をつけ――」
言い終える前に、ミオはスプーンを手に取り、口に運んでいた。
「これ、めちゃくちゃ美味しいです!」
目を丸くして言ったあと、もうひと口、またひと口と夢中で食べていく。
思わず私は、厨房の陰でこっそりガッツポーズを決めた。
ただの思いつき料理だったが、ミオの反応が嬉しかった。
味見してみると――うん、塩っぱい。
完全にコンソメを入れすぎた。でも、そんなの関係ないってくらい、ミオは幸せそうに頬張っていた。
気づけば3人前分あったピラフはすっかり無くなっていた。
私の分は、3口分くらい残ってるだけだ。
前を見ると、ミオが満腹そうに椅子にもたれていた。
子供のように、無防備で、幸せそうな顔だった。
(まぁ、この子が満足してくれるならいいか…)
空腹だけど、心は満たされた。
私は1人で締め作業に取りかかることにした。
――――
締め作業を終え、洗った手をタオルで拭いていたときだった。
「……あの、ご飯、ありがとうございました」
後ろからかけられた声に振り向くと、
ミオがカウンターの端に立っていた。
制服の袖を、両手でぐしゃっと握りしめている。
「それで……」
視線が合わない。
私の胸のあたりを見ているようで、焦点はどこにも合っていない。
(なんだ? ピラフが合わなかったか……いや、塩っぱすぎたか……?)
一歩だけ近づこうとした瞬間、
ミオの肩がぴくっと揺れた。
まるでこちらの動きに怯えたみたいに。
(……そんなに怖い顔してた?)
妙な緊張感が漂っていた。
さっきまで無邪気に食べてた子とはまるで別人だ。
口を開きかけては、また閉じる。
そんな動きを3回ほど繰り返したあと、ようやく、震える声が出た。
「……すっごく、ワガママなのは分かってるんですけど……」
一瞬だけ目が合って、すぐ逸らされた。
その視線には、“拒まれるのが怖い”って感情が、はっきり映っていた。
「入学式……来てくれませんか……?」
ほんとに、消え入りそうな声だった。
お願いというより、「こんなこと言ってごめんなさい」って響きの方が強かった。
私は返事を返せなかった。
たった一言なのに、頭のどこかで理解が止まった。
「……え?」
ミオは、それに構わず続けた。
語るというより、吐き出すように。
「今まで……小学校も中学校も、高校も……
入学式も卒業式も、誰も来たことなかったんです。ずっと、一人で行ってました…」
言いながら、ミオは小さく笑った。
でも、目は全然笑っていなかった。
「だから、誰かが来てくれるって、どんな感じなのか分からなくて……
でも、もしも、来てくれる人がいたら、どんなに嬉しいかなって……ずっと思ってました…」
私は、何も言えなかった。
胸の奥で、言葉にならない何かが引っかかっていた。
悲しいとか、怒りとか、そんな単純なものじゃない。
ただ、あまりに重い。
重くて、目の前の小さな子に、それを背負わせていたのが悔しかった。
(……行ってやれ)
誰かの声が、心の奥から響いた。
(バイト先の先輩でも、兄でもない。父親として、行ってやれ)
「……行くよ」
その言葉は、考えるより先に、胸の奥から自然に出てきた。
ミオが、少しだけ顔を上げた。
目が合う。涙が、そこに溜まっていた。
「……本当ですか……?」
震える声だった。けど、その小さな声に、どれだけの想いが詰まっていたか、わかった気がした。
私は言葉にはしなかった。
ただ、小さく頷こうとしたその瞬間、
ふいに明るい声が口をついて出た。
「もちろん!」
その瞬間、胸の奥では何かがざわついていた。
それが何なのかは、まだ自分でも分からなかった。