プロローグ
この物語を綴る前に、一つ言っておきたい。
これはすべて実話であり、嘘のような本当の話である。
⸻
「17:00」
壁にかけてあるデジタル時計のアラームで起床。風呂に入り、身支度を済ませると、ものの20分で出勤。18時にお店を開け、27時に店を後にする。
それが私の毎日だ。変わり映えのない、退屈な日々。
学生時代はスポーツに打ち込み、全国大会に出場するほどだった。プロを目指していたが、怪我で挫折。指導者に転身したものの結果を残せず、自主退職という名のクビをくらった。
夢を失い、残っているのは「童貞」、「彼女いない歴=年齢」、「フリーター」という不名誉な肩書きだけ。
「これで26歳なのか……」
情けない自分を変えたいと思いつつも、やりたいことが見つからず、同じ日々を繰り返していた。
⸻
そんなある日。
大学時代の先輩であり友人でもあるタカオが、私の働く店にやって来た。
「よっ、26歳童貞くん♪」
人に言われると、思っている以上に腹が立つ。
「彼女でも紹介しに来たんか?」
先輩に対する口調ではないのは重々承知だが、長く一緒にいたせいで敬意などとうに失われていた。
「3人なら目星つけてるんだけどな〜」
30回目から数えるのをやめた常套句。鬱陶しい。さっさと帰ってくれ、と思っていたそのとき——。
少しバツの悪そうな顔で、タカオが切り出した。
「あのさ、俺の知り合いをここで働かせてもらえない?」
学生の頃から、タカオが私に“お願い”をしてきたことなんて一度もない。
「どうした、珍しいな。お前が俺に頭を下げるなんて、よっぽどのことか?」
するとタカオは、少し柔らかい表情でこう話した。
「俺の知り合いにさ、18歳の女の子がいるんだよ。すごく可愛くて話しやすい子でさ、目なんか、自分が醜く映ってるんじゃないかってほど澄んでるんだよ。」
「マジか。俺にもそんな可愛い後輩ができちゃうのか。ちょっと店長にお願いしてくるわ!」
スポーツ漬けの人生で、女性との接点がほとんどなかった私にとっては、久々の“ときめき”のような出来事だった。タカオを置いて、事務所にいる店長の元へと向かおうとした——そのとき。
「だけどさ……家庭のトラブルが酷くてさ」
私は前職で年間150人近くの学生と関わっていたことがあり、家庭に問題を抱える子も少なくなかった。
「それぐらいなら大丈夫でしょ?なんかあったら対応できるし」
楽観的に構えていた私に、タカオは想像を遥かに超える話をぶつけてきた。
「その子、両親が離婚してて、今は父親と暮らしてるんだけど……幼少期から母親のDVを受けててさ。父親にはほとんど相手にされず、ネグレクト状態なんだ。
で、その子……『乖離性同一性障害』になっちゃったんだよね」
「乖離性同一性障害?」
「まぁ、いわゆる“二重人格”ってやつ。正確にはもっと繊細で複雑なものだけど、現実があまりに辛くて、逃げ場としてもう一つの人格を生み出してしまったって感じだな」
「だからさ、お前の店みたいに、少しでも明るい場所で働かせてあげたいのよ」
——言葉が出なかった。
DV、ネグレクトといった言葉はよく耳にする。だが、人格が分離するほどの環境など、想像すらできない。
本当にそんな子を雇っていいのか?トラブルが起きたらどうする?
頭ではネガティブなことばかりが浮かんでいたのに、口から出た言葉はまるで別人のようだった。
「OK。うちで面倒見るよ。店長には俺から言っとく。いつから入れるか、教えてやって」
いま思えば、この軽はずみな一言がなければ——
あの奇妙で、優しくて、痛みを孕んだ物語は、始まらなかった。