怪冷汽車
時は二〇世紀に満ちた頃――。
奇術師「有栖川幻斎」という男がいた。
今日も幻斎は、奇術を披露して客を楽しませていた。
(檻からの水中脱出、驚いてたなー)
駅のホーム、一人佇んでニヤニヤしていた。
そこに汽車が到着。
「おー、キタキタ」
上機嫌で汽車に乗り込んだ。
(次は、なにしよーかなー)
頬杖をついて外を眺めていた。
(今日も月が綺麗だ)
――15分ほど走行した。
その時、急に汽車は止まってしまった。
(アレ?)
幻斎は、自分が置かれた状況を瞬時に理解した。
辺りを見渡すと、さっきまでいたはずの乗客が消えていて、窓を開くと氷に覆われていた。
(今は七月、ありえない……)
氷の表面を触る。確かに冷たかった。
氷は硬くて破れなかった。
(奇術師に怪奇事件とはな……)
とりあえず、他に乗客がいないか探した。
その結果、別の車両に十歳くらいの少年がいた。
「おーい、少年」と、声をかけた。
少年はすぐに答えた。
「この氷、どうすればいい?」
少年は氷を破ろうとしていた。状況は理解しているようだ。
「俺の名前か? 有栖川幻斎、奇術師だ」
「そんなの聞いてねぇ」
「安心しろ、これが最終便だ」
その言葉を発した瞬間、少年の目が少し鋭くなった。
「ッ……違うよ、今日は一本遅れてるんだ」
「……」
この情報が確かなら、後から来る汽車との衝突は避けられない。
タイムリミットは13分――。
幻斎は、知恵を絞り、策を考えた。
その結果……。
「無理だ、諦めよう……」
この言葉が漏れた。
少年は牙を剥いて幻斎に言い放った。
「諦めんな、なんか策はねぇーのかよ」
「……」
「あんた奇術師なんだろ。だったら特等席で見させてくれよ、最高のショーってやつを」
少年の言葉に、幻斎は目を見開いた。
(……俺は何を見失っていたんだ。こんな少年、いや、この男に――)
幻斎の雰囲気が、ほのかに変わった。
「有限の帷、開かざる衝動、風靡く――。見せてやるよ、最高のショーを」
少年は嬉しそうに笑みを浮かべた。
(やっぱり少年かな)
――幻斎は工具箱からハンマーを取ってきた。
そして、ハンマーで氷を叩き始めた。
「トントントントン! トントントントン!」
(それ言う必要ねぇーだろ)
少年は呆れ顔で言った。
「奇術師の風上にも置けねぇーな」
「こうするしかないんだよ」
(こんなことダサくてやりたくないんだけどな、死んだほうがマシだぜ、全くよぉ……)
幻斎は、ほんのわずかな微笑みを浮かべていた。
――叩き始めて、8分が経った。タイムリミットは、あと3分。
「もう少しだぜ、少年。準備運動を始めろ」
「準備運動?」
「あぁ、お前が通れる程度の穴を作る。そこから脱出して走れ。そして、レバーを動かして進行方向を切り替えろ。頼んだぞ――」
少年には、重みのある言葉が降りかかった。
苦笑いしながら答えた。
「……任せろ、アンタを死なせはしない」
「頼んだぜ」
ハンマーを振り下ろした瞬間——。
バリンッッ!
厚く張った氷は、まるでガラスのように砕け散り、子ども一人分の穴ができた。
「行けッ!」
「行ってきます」
汽車の中、一息つく幻斎、ひどく疲れた様子だ。
「はぁ、力仕事しんどい。もうムリ……」
ぐったりし、座席に寝転んで考えた。
(レバー、一人で動かせるかな……?)
タイムリミットは2分――。
少年は走った。
(間に合うかな……)
片手にはハンマー、もう片方には分厚い本を持っていた。
少年は1分ほど走った――。
(よし、着いた)
レバーを手で動かそうとしたが、案の定、重くて動きやしない。
ハンマーと分厚い本で、テコの原理を使おうとした。
(コレはこうで……)
「アレ……?」
少年は焦っている。やり方がわからない。ましてやコレじゃできやしない。
ハンマーと本を放り投げ、レバーに手をかけた。
「……動けッ」
レバーは、びくともしない。
「クソッ!」
時間は刻一刻と迫っていた。
少年は、叫んで助けを呼んだ。
「誰か! 誰かいねぇーのかよ!」
「……」
(俺じゃダメなのかよ……)
汽車の走る音が聞こえてきた――。
少年は今にも泣き出しそうだ……。
(もう、無理だ……)
少年が諦めた、その時――。
「呼んだか?」
少年が顔を上げると、目の前には幻斎がいた。
「なんでここに……?」
幻斎はレバーに手をかけながら言った。
「脱出、それは奇術師の基本トリックなんだよぉ……」
(アレ……? これ意外に重いな……)
「おい、どうした?」
この時にはもう、幻斎の体力は消耗し切っていた。
「お前も手伝え」
「う、うん」
レバーに手を添えた。
「せーのッ」
「せーのッ」
二人で力を合わせて、少しずつ、少しずつレバーが動いていく。
だが、このままじゃ間に合わない。
すぐ目の前まで、汽車が迫っていた――。
「ヤバいよ……」
「最後に全てを賭けるぞ」
「……うん」
二人は諦めていなかった。
レバーに力を込めた。そして、声を合わせて……。
「「せーのッッ!!」」
ガシャンッ!
これが今日一番、息が合わさった瞬間だった。
数秒後、汽車が通り過ぎた――。
汽車の中から、人が睨んでいるような気がした。
(なんかごめんなさい)
(悪戯じゃないんです)
何はともあれ、作戦は成功した。
「はぁ、疲れた……」
幻斎は肩の荷が下り、ぐったりしている。
少年はハンマーと本を拾った。
それを見て幻斎は言った。
「そんなんでテコの原理を起こそうとしてたのか?」
「ワ、悪いかよ」
少年は顔を赤らめ恥ずかしがった。
幻斎は微笑んだ。
「とりあえず戻るか」
二人は凍った汽車に戻った――。
少年は目を疑った。
「……穴の大きさ変わってなくない?」
「ん? 気になるか?」
少年は目を輝かせながら返事した。
「うんッ」
「秘技、関節外し!」
(うわーしょうもねー)
「本当に奇術師なのかよ」
「いつか、奇術師・有栖川幻斎って名を轟かせてやるから待ってろ」
「……待ってる」
二人は凍った汽車を眺めた。
「こんなことあるんだね」
「この世は不思議なことばかりなんだ。こんなことがあってもおかしくはないだろ、少年ッ」
幻斎は笑みを浮かべながら、少年に背を向け歩き出した。
「じゃーなー少年、元気でなー」
去り行く幻斎に少年は手を振った。
(少し寂しいけど、さようなら)
「……あ」
幻斎は振り返り言った。
「お前の名前なんだ? 聞いてなかったよな」
「……柏餅太郎、覚えとけよ」
「いい名前だな、忘れねぇーよ少年。じゃあ」
手を振り、本当の別れを告げた。
(有栖川幻斎……)
(柏餅太郎……)
夜道を一人で歩く幻斎は考えていた。
(この怪奇事件、一番の謎は消えた乗客だ。確かにいたはず、どこに行ったのだろうか?)
もう1つ……。
(それと、柏餅太郎……。偽名か? それとも芸名?)
「……まぁいっか。なんだかんだ楽しかったなー」
今日も陽気な幻斎さん。
奇術師ならぬ奇術師、有栖川幻斎の物語はまだまだ続く――。