06.運命との別れ
フローラは全力で淑女スキルを発揮して、平静を装い直した。動揺して大きな声を出した事を無かった事にして、涼しい顔をしてみせる。
アーネストはかつては運命の人だったとはいえ、今は関係のない者だ。他人の前で醜態を晒すわけにはいかない。
羞恥心で身悶える内心を悟られないよう、淑女としての完璧な笑顔を見せながら、フローラはアーネストに声をかけた。
「アーネスト様の事情は承知しました。お手紙が届かなかったのは、そのような訳がございましたのね。
アーネスト様からのお手紙を受け取れなかった事は残念に思いますが、でももう過ぎた事ですし、手紙の事はお互い忘れませんか?
今さらとなってしまいますから、私はこちらのお手紙を受け取らない方がいいでしょう。お手紙はお返ししますね。手紙の中の言葉は、過去の自分達のものですから」
アーネストまでも羞恥プレイに身を差し出す必要はない。出来ればフローラも、そんなものに身を差し出したくはなかった。
フローラは自分の持つ精一杯の親切心をアーネストに見せてあげる事にした。
彼の手紙は彼自身で消し去ってしまえばいい。
こんな親切を見せる自分に感謝してほしいくらいだ。私だって出した手紙は、誰にも見せずに闇に葬ってしまいたかった。
アーネストと自分は今日限りの縁だ。
今さら彼の手紙を読んで、以前の彼の気持ちを知ったところでどうしようもない。
フローラはテーブルに置かれた、たくさんの手紙をまとめ直してアーネストに手渡した。
「アーネスト様。ここまでのご縁となりましたが、アーネスト様のご健勝とご多幸をお祈りしますわ。私達は愛の女神ララーの悪戯を乗り越えられなかったようですね」
「……そうですね。悪戯というにはいささか過ぎたものを感じてしまいますが……。僕もキャロルという婚約者がいながらも受けた運命でしたが、フローラ様への想いは本物だったと思っています。
フローラ様もどうぞお幸せに」
穏やかな顔で微笑むアーネストは、とても好ましかった。
彼とは気が合わなさそうだと思ったけど、少し話すと印象は変わった。落ち着いた口調にも、話しながら見せる彼の表情にも好印象を持った。
彼との出会いがこんな形ではなく自然な出会いであれば、きっと私達は良い友人になれただろう。それを考えると少し寂しい気はするが、それでも最後に話が出来て良かったと思う。
愛の女神ララーの運命の知らせは、もしかしたら間違いじゃなかったのかもしれない。
婚約者のいる者に運命を与えるなんて、誰にとっても残酷なものにしかならないが、それでも自分だけが空回りしていた愛では無かった事に、フローラはホッとする事が出来た。
過去のアーネストは、過去のフローラにあんなにも多くの手紙を送ろうとしてくれていた。以前、彼の気持ちは確かにフローラにあったのだろう。
以前のフローラが全く無駄な時間を過ごしていたわけではなかった事を知って、もう今はいない過去の自分が慰められるようだった。
お別れを伝え合いアーネストが部屋から出ていくと、フローラは侍女と護衛を下げて、一人で静かにお茶を飲んでいた。
心は静かだった。
恥ずかしい思いもしたが、悪くない面会だった。
最後に彼と話せて良かったと思えた。
『もうこれで彼に会う事もないし、彼を思い出す事もなさそうね』
そんな事を考えながら、フローラはカップを静かにテーブルに置くと、テーブルの下に手紙が一通落ちているのを見つけた。
アーネストの手紙だった。
全部まとめて返したつもりだったが、たくさんの手紙の中から、一通が落ちてしまっていたようだ。
この手紙もとても分厚い。
きっとこの中にはかつてのアーネストの気持ちが綴られているのだろう。
これは彼にとって黒歴史にもなり得る手紙だ。アーネスト自身の手で抹消してしまいたいものに違いない。
急いでアーネストを追いかけなくては。
フローラとアーネストが面会した応接室は、公爵家の割と奥に位置する。
アーネストが普通に歩いているならば、まだ追いつく事が出来るかもしれない。
フローラは、落ちていた手紙を掴んで彼を追いかけた。
ヘイマー子爵家宛に「忘れ物がありましたよ」と送ってもいいが、出来る事なら今渡してあげたい。
フローラが逆の立場なら、そう願うだろう。
そんな黒歴史が家に送られてきたら、羞恥心で眠れなくなってしまう。
それではどこかくたびれた様子を見せていたアーネストには酷な話に思えた。気の毒すぎて心が痛い。
お互いに黒歴史は消せないにしても、ダメージは最小限に抑えてあげるべきだろう。
玄関前で執事から、「ヘイマー様は、つい今先ほど出られましたよ」と伝えられ、フローラは早歩きで外に出た。
少し先を歩くアーネストを見つけて、更に足を早めて追いかける。ゆっくり歩いているように見えるが、なかなか彼は足が速い。
アーネストが植木がある角を曲がってしまった。
もう少し急がなくては。
はあはあと小走りでフローラも角を曲がると、曲がってすぐの木の陰で、木に手をついて俯くアーネストを見つけた。
危ない。気づかずに追い抜くところだった。
はあはあはあと息を乱しながらフローラは声をかけた。
「アーネスト様?ご気分が悪いのですか?」
フローラの声にバッと驚いたように振り向いたアーネストの顔を見て、フローラも驚いた。
彼は泣いていた。
涙の筋が頬を伝っている。
「アーネスト様?!大丈夫ですか?今すぐ主治医を―」
「い、いえ!違うのです!体調は悪くなどないです!大丈夫ですから!」
主治医を呼ぼうと再び駆け出そうとするフローラを、アーネストが焦ったように止めた。
「僕は大丈夫―――ああ。本当は大丈夫なんかじゃない。僕は……僕は本当にフローラ嬢を愛していたんです。本当に、眠れなくなるほどに。キャロルを虐めているという噂でさえ、それほどまでに僕を想ってくれるのかと、卑しくも喜びさえ感じてしまうくらいに―」
「え!あの!アーネスト様、とりあえず!とりあえず屋敷に戻りましょう!」
アーネストの取り乱しように、フローラも取り乱す。
自分の屋敷とはいえ、ここは人の目がありすぎる。
絶対にこれは彼の黒歴史No.1になり得る過去になるだろう。もうすでに関係のない者とはいえ気の毒すぎる。
あまりにもアーネストが気の毒過ぎて、フローラはアーネストの袖を引いた。
大人しくついてきてくれるアーネストと屋敷に戻って、フローラは人払いをして彼が落ち着くのを待つ事にした。
よほど思い詰めていたのだろうか。
アーネストの溢れる涙はなかなか止まらないようだった。