03.運命の日
愛の女神ララーの祝祭日。
フローラはこの日のために用意したドレスを着て、いつもより念入りに身支度を整えて、女神ララー像のあるララー神殿へ向かった。
今日はいよいよアーネストとの対面だ。
結局今日まで、彼からの手紙を受け取る事はなかった。フローラが一方的にアーネストに手紙を送り続けていただけだった。
『ただ一言でもいいから言葉がほしい』というフローラの願いが届く事はなかったが、それでも日毎にアーネストへの想いは募っていったし、その想いを手紙に書き綴った。
彼に会いたくて、愛おしくてどうしようもなかったのだ。せめてフローラの想いだけでも伝えたくて、重くなりすぎないように気をつけて、なるべく簡潔な手紙を送っていた。
昨夜は緊張のあまりにほとんど眠れなかった。
『アーネスト様は本当に今日、女神ララー像に私への愛を誓ってくれるのかしら』と、期待と不安で落ち着かず、なかなか寝付く事が出来なかった。
目の下のクマは侍女がきれいに隠してくれたが、『クマなんてない、一番きれいな自分で会いたかったのに』と、馬車の窓に映る自分を見ながら、フローラは小さくため息をつく。
アーネストに会えるという喜びと、彼の気持ちが分からなくて押し潰されるような不安が混ざり合う中、馬車は静かにララー神殿へと進んでいった。
ララー神殿に着き、馬車が静かに停まる。
『着いたわ』
体に緊張が走り、思わず手をぎゅっと固く握りしめる。
フローラは気持ちを落ち着けるようにゆっくりと深呼吸をした。
馬車を降りると、今までにないほど近くにアーネストの存在を感じた。もう彼はすでにララー神殿に着いているようだった。
バクバクと胸が高鳴り出し、激しい動悸で息苦しいくらいだ。一刻も早くアーネストに会いたくて、駆け出したい衝動に駆られる。
もちろん駆け出すなんてはしたない真似は出来なかったが、一歩足を踏み出すごとに、一歩アーネストに近づくのが感じられて胸が震えた。
アーネストが待つ祈祷室まではあと少しだ。
いよいよ愛しい彼に会う事が出来る。
愛の女神ララーへの愛の誓いは、祈祷室にある女神ララー像の前で、二人だけで執り行われるという。
女神ララー像の前に立ち、愛の誓いを宣言することで二人の幸せが永遠に続くとされている。
祈祷室の扉が開かれると、こちらに背中を向けて立っているアーネストの姿が見えた。
ドクンと心臓が鳴る。
時が止まったかのようだった。
『この人だ』――そう強く体が感じている。
アーネストがゆっくりと振り向いて、フローラを見つめた。
フローラは『落ち着くのよ』と自分に言い聞かせ、淑女のお手本のような礼をアーネストに取る。
「はじめまして。ヒルストン公爵家長女のフローラ・ヒルストンです。お会いできて嬉しいです」
――震える声でそう挨拶するのが精一杯だった。
「ヘイマー子爵家のアーネスト・ヘイマーです」
そう簡潔に挨拶を返されただけだが、聞こえたアーネストの優しく響く声に、愛しさが更に募って体が震えた。
淡い金髪と水色の瞳を持った、整った顔立ちのアーネストをこれ以上直視する事が出来ない。
恥ずかしくて俯いたフローラは、アーネストが静かに告げる言葉を聞いた。
「フローラ嬢。僕は女神ララーの祝福を受け入れて、貴女と婚約を結ぶつもりです。ですので、もうこれ以上キャロルに危害を加えない事を約束してもらえませんか?」
愛しい彼の言葉は残酷だ。
アーネストは根も葉もないフローラの噂話を信じているようだ。
婚約者だったキャロルを守るために、不本意ながらも悪女フローラとの婚約を受け入れたのだろう。
フローラは顔を上げて、アーネストをじっと見つめる。激しく心が揺れていた。
アーネストは愛の女神ララーの祝福を受け入れて、フローラと婚約を結ぶと言ってくれた。
それは彼の本意ではないと分かっていても、その言葉だけで思わずフローラに喜びが走った。
「はい。ありがとうございます」と口走ってしまいそうになる。
だけどダメだ。
フローラはキャロルに何もしていないし、アーネストにフローラへの心がないならば、この祝福は受けない事を決心している。そう決めたはずだ。
こんな形でアーネストと結ばれたとしても、きっと一生苦しむだけだ。
自分だけがこれからも想いを募らせていき、愛するアーネストは別れる事になったキャロルを、これからも想い続けるのだろう。
そんな残酷な未来など歩みたくはない。
父のヒルストン公爵にも、フローラの気持ちは話している。
今のフローラにはまだ、こうして事前に決意していた事を思い出せる理性がある。
ここで返すべき言葉は決まっている。
フローラは目を閉じて、震える息を細く静かに吐き出した。
息を整え、自分を奮い立たせてからゆっくりと目を開き、アーネストを見つめながら口を開いた。
「アーネスト・ヘイリー様。私も街の噂は存じています。アーネスト様はその噂を信じておられるのですね」
「……噂は真実ではないと?」
――ああ。
「真実ではないと?」というその問いにフローラの胸が締め付けられる。
アーネストは噂を信じて、フローラを悪女だと思い込んでいる。
根も葉もない噂は、ヘイリー子爵家であっても、調べようと思えば簡単に調べる事も出来ただろうに。疑う事もせず、「悪女フローラに虐められるキャロル」という構図を信じているのか。
アーネストの心が誰にあるのか、フローラは確信を持った。
「アーネスト様の、キャロル様への想いは理解しました。私は二人を引き裂いてまでの婚約は望みません。
アーネスト様、キャロル様とお幸せに。私は祝福を辞退します」
自分自身の言葉が、フローラを切り裂くようだった。
本当はどんな事をしてもアーネストを手に入れたい。
婚約を望まないなんて言いたくもない。
他の女性との幸せなど願えるわけがない。
血の気が引いて、頭がクラクラする。倒れてしまいたいが、ここで倒れる訳にはいかない。
この祝祭日を越えてしまったら、また次の祝祭日まで苦しむ事になる。それまでに益々想いは募っていくだろうし、そんな苦しみは耐えられない。
今だって息をするのも苦しいくらいだ。
これ以上アーネストを愛したくない。
こんなにも愛しくてこんなにも苦しい時間など、一刻も早く終わりにしたい。
「え?フローラ嬢?僕は―」
「愛の女神ララー様!私フローラ・ヒルストンは、愛の女神ララー様の祝福を辞退します!」
フローラを呼ぶアーネストの言葉も聞こえず、フローラは愛の女神ララー像に祝福の辞退を宣言した。
その瞬間。
突然に虚無感がフローラを襲う。体の中から何かがゴッソリと抜け落ちるのを感じた。
グラリと体が傾く。
目眩がして意識を手放しかける自分に、手を伸ばすアーネストの姿が見えた。
悪女フローラを、彼は支えようとしてくれるのだろうか。
『アーネスト様の顔を見るのはこれで最後ね』
目を閉じる瞬間に見えたアーネストの顔に、フローラは遠のく意識の中そんな事を思った。