02.噂
祝祭日も近づき、ソワソワと落ち着かない日々を過ごしていたフローラは、仲のいい友人達とのお茶会で、ある街の噂を知った。
「フローラ様に関する良くない噂を聞いて、私本当に腹立たしくって。絶対に許しませんわ!」
「噂?」
「私も本当に悔しくって。フローラ様、必ず犯人は捕まえてやりますわ。我がサリバン家も調査しているところですから」
「犯人?調査?」
友人のティナとオードリーの話している意味が分からなくて尋ねると、どうやら今街では、フローラは悪女だという心無い噂が立っているらしかった。
噂の内容に驚いた。
幼い頃から結ばれている仲睦まじい婚約者同士を、公爵家の権力を使って、二人の仲を引き裂こうとする悪女フローラの噂だった。
見目麗しい子爵家のアーネストに、公爵家のフローラが横恋慕すれば、家格が格下のアーネストに否の選択肢はない。
悪女フローラは、アーネストの婚約者という立場を奪おうとするばかりか、伯爵家であるキャロル相手に執拗な嫌がらせを繰り返してるという。
キャロルに脅迫の手紙を送りつけたり、社交界で締め出そうとキャロルをお茶会に呼ばないように周りの貴族に言い含めたり、キャロルが男遊びをしているなどの誹謗中傷を繰り返しているらしい。
つい先日など「アーネストは私のものよ!」と言い放って、キャロルを階段から突き落とそうとまでしたようだ。
キャロルを深く愛するアーネストは、嫉妬深いフローラから迫られる婚約を回避したいと望んでいるが、ヒルストン公爵家から「婚約を受け入れないならヘイマー家に未来はないと思え」と脅されているという。
――そんな根も葉もない噂話だった。
身に覚えのない事が噂話として広まっている事に、フローラはため息をつく。
フローラがキャロルに嫌がらせをした事実などない。
キャロルに申し訳なくは思っても、怒りを向けていい相手ではないだろう。
キャロルを誹謗中傷をしているのではなく、フローラが誹謗中傷を受けている。
むしろ立場が逆ではないか。
だいたいそんな幼稚な嫌がらせなど、思いついた事もない。
そんなくだらない噂が自然に立つとは考えにくい。
必ず噂を広めた犯人がいるはずだ。
「何それ?お父様にも後で報告しとかなきゃ。私のくだらない噂に怒ってくれてありがとう、ティナ様、オードリー様」
「当たり前ではないですか!フローラ様があまり表に出ない方だからと好き勝手に言わせる訳にはいかせませんわ!」
「それに友人の私達を使って嫌がらせをしているなんていう噂もありますのよ。私のお父様もそれはもうお怒りで。ふふ、お父様が動いて下さるなら、きっとすぐ犯人は割り出せますわね」
不敵に笑うオードリーは、国で一番大きなサリバン商会の娘だ。確かにサリバン商会の力を持ってすれば、簡単に噂の出所は掴めるだろう。
フローラだって父に話せば、割り出された犯人を白日の元に晒して、社会的に抹殺してしまうに違いない。
噂の問題はおそらくすぐに解決するだろう。
フローラは犯人の予想を立ててみた。
ヒルストン公爵家を狙った噂ではないだろう。あまりに内容が幼稚すぎる。
ヒルストン公爵家ではなく、フローラを貶めたいと願う人。
公爵家の娘という家柄上、妬みを買う事もあるだろうが、噂を聞く限りキャロルが怪しいと思われる。
愛の女神ララーの祝福とはいえ、婚約を解消される事になるキャロルからすれば、自分が受ける運命に納得できるはずがないだろう。
彼女は幼い頃からの婚約者アーネストを失う事になるのだ。恨み言の一つも言いたくなる気持ちは分かる。
「噂を広めた人は、キャロル様本人じゃなくても、キャロル様の身近にいる人の可能性も高いわよね?キャロル様の家のケイズ伯爵家の誰かとか、キャロル様のご友人とか――」
フローラは続けようとした「キャロル様の婚約者のアーネスト様とか……」という言葉を飲み込んだ。
噂を流した犯人候補として、アーネストの名前を挙げようとしたわけだではない。ただ「キャロルの身近な人」という点に当てはまっただけだ。
だけどそう思っていても、「彼は全く無関係だ」とは言い切れない。
アーネストに噂を広める意図がなくても、彼がキャロルを愛しているなら噂が立つ可能性が大いにあったからだ。
街の噂話は、「婚約者同士のアーネストとキャロル」、そして「二人の仲を引き裂く悪女フローラ」という構造だ。
父であるヒルストン公爵は「彼に強要はしていない」と話していたが、祝祭日に参加する事を決めたのは、身分の差を感じて断れなかっただけなのかもしれない。
結果的に愛する二人が引き裂かれる事になって、そこから噂が歪んだのかもしれない。
いや、アーネストを疑うのはやめておこう。
胸が押しつぶされそうになる。
とにかくフローラの噂は早くなんとかしてもらわなくては。早く犯人を見つけてもらって、早く噂を消してほしい。
アーネストが噂に関わっていないとしても、彼は噂を聞いてフローラを嫉妬深い悪女だと誤解をしているかもしれない。
『たまたまキャロル様が誰かに傷つけられる出来事があって、それが全部私が手引いたせいだとアーネストに思われていたら……』
そんな可能性に思い至って、フローラは身を震わせた。
もしそうだったら、アーネストのフローラに対する印象は最悪だろう。
フローラの胸にえぐられるような痛みが走った。
顔色を失くしたフローラを見て、お茶会はお開きになった。
フローラは父のヒルストン公爵に聞いた話を伝えると、今日はもう休む事にした。
相変わらず今日もアーネストからの手紙は届かない。
手紙ひとつくれない彼でも、明日また目が覚めたら、フローラのアーネストへの想いはもっと募っているのだろう。
とても苦しかった。
幼い頃から憧れていた愛の女神ララーの祝福は、幸せなものではなかった。
運命を感じるほどに愛する人から愛されない事が、こんなに辛い事だとは知らなかった。
顔も合わせた事のないアーネスト。
もし女神の祝祭日でアーネストと顔を合わせたら、もっと深い愛の沼に沈んでいくのかもしれない。
もしアーネストがキャロルを愛しているならば、フローラはこの先もずっと報われない想いを募らせていくのだろう。
考えると、体が震えてきた。
運命の愛という、抗えない強制的な思いに引きずられていくのが怖かった。
『祝祭日でアーネスト様にお会いした時。その時アーネスト様にキャロル様への想いを感じられたら、彼への愛を誓うことを止めよう。愛の女神ララーの祝福は辞退しよう』
フローラはそう決心した。