01.運命の人
「フローラ嬢。僕は愛の女神ララーの祝福を受け入れて、貴女と婚約を結ぶつもりです。ですので、もうこれ以上キャロルに危害を加えない事を約束してもらえませんか?」
愛しい彼の言葉は残酷だ。
私の愛を受け入れると言いながらも、真に愛する人は他にいると告げているようなものだ。
彼はきっと愛するキャロルを守るために、私の愛を受け入れる事を交換条件に、その身を捧げる事を決心したのだろう。
嫉妬深い私が、キャロルに執拗な嫌がらせをしているという、根拠のない噂話を信じて。
フローラは目の前に立つ愛しい男――共に女神の祝福を受けた、運命の相手のアーネストをじっと見つめた。
この国には女神伝説がある。
愛の女神ララーが、運命で結ばれている男女に、愛の運命を知らせる祝福を与えるという伝説だ。
だけど愛の女神ララーはイタズラ好きで、祝福と共に少しの困難も二人に与えるという。
身分の差。経済の差。物理的距離。
運命の知らせと共に、乗り越えるべき試練をひとつ落としていくのだ。
フローラの場合もそうだった。
愛の女神ララーは、一つの困難を落としていった。
フローラはある日、運命の相手の存在を強く感じた。
だけどその相手にはすでに、幼い頃から約束された婚約者がいたのだ。
――それがフローラに落とされた、イタズラというには重すぎる困難だった。
フローラ・ヒルストンは、ヒルストン公爵家の一人娘だ。
ヒルストン家の宝として家族に愛されて育ったフローラに、愛の女神ララーの祝福があった事を知った両親は、すぐにその相手を探し出してくれた。
フローラが話した「淡い金髪に、水色の瞳を持った方」というただそれだけの情報で、たくさんの候補の中からアーネスト・ヘイマーを探し当ててくれたのだ。
アーネストの方はフローラを探してはおらず、女神の祝福を受けた事を内密なものとしていたようだが、ヒルストン公爵家より格下のヘイマー子爵家にそれを隠し通せるはずがない。
アーネストにはすでに幼い頃からの婚約者キャロルがいる事も、その時すでに明らかになっていた情報だった。
運命の相手にすでに婚約者がいる事を知って、フローラがショックを受けなかったわけではない。
だけど何も言わずに運命を辞退する事も出来なかった。
魂が惹かれるのだ。
運命の相手の存在を感じて、その相手に婚約者がいると分かってもなお、顔も合わせた事もないアーネストに日毎に想いが募っていった。
だからといってフローラは、公爵家という家の権力を傘にアーネストに婚約を迫るつもりはない。
アーネストが幼い頃からの婚約者であるキャロルを選びたいというならば、フローラはアーネストを諦めるつもりだった。
愛の女神ララーは、運命の相手がいる事を知らせてくれるだけで、運命を強要するような女神ではない。
受けた祝福を辞退するならば、その意思は尊重されるし運命の関係を解消してくれると聞いた事がある。
――今まで運命の解消を申し出た前例など聞いた事がないので、信憑性に多少欠ける話ではあるが。
とにかく愛の女神ララーはイタズラ好きなだけで、多くの民に愛される女神なのだ。
だからヒルストン公爵家からは、ヘイマー子爵家に女神ララーの祝福を強要はせず、アーネストに選ぶ余地を与えた。
祝福の受け入れを断られる事も覚悟していたフローラだったが、ヘイマー子爵家からの返事は、「現婚約者キャロルとは関係を清算して、愛の女神ララーの祝福を受け入れる」というものだった。
愛の女神ララーの祝福を受け入れるという事は、アーネストは長年の婚約を解消する事になる。
婚約解消はアーネストだけの問題ではなく、キャロル側の問題でもあり、家同士や本人の話し合いもあるだろうからと、フローラとアーネストの顔合わせは祝祭日まで持ち越される事になった。
愛の女神ララーの祝祭日。
その日に祝福を受けた二人が女神像に愛を誓うと、永遠の幸せが約束されると言われている。
初顔合わせを祝祭日にすれば、婚約解消の上に成り立つ祝福の受け入れでも、縁起は良いだろうと考えての事だった。
フローラは、女神の祝福を受け入れると決めてくれたアーネストにホッとしながらも、婚約解消されるキャロルの事が気になって少しモヤモヤしながら、祝祭日でのアーネストとの出会いを心待ちにしていた。
「ねえ、お父様。本当にアーネスト様は、キャロル様との婚約を解消するって話してたの?」
夕食の席でフローラは、もう何度目になるか分からない質問を父であるヒルストン公爵にした。
「そうだよ。祝祭日のフローラとの愛の誓いは、決してヒルストン家が強要するものではない事は、ヘイマー子爵家にはちゃんと伝えているよ。婚約者のキャロル嬢を選ぶなら、その意見を尊重する事もね。
ヘイマー子爵家とアーネスト君が自分達で選んだ答えなんだよ」
不安そうな顔な娘に、ヒルストン公爵は安心させるように微笑んだ。
「そう……よね。ごめんなさい、お父様。お父様の言葉は信じてるけど、アーネスト様からお手紙ひとつ届かないから、もしかしたら私との婚約が不本意なのかもって不安になるの。
だけど会った事もないアーネスト様への想いがこんなに強くなっていくなら、アーネスト様も同じくらい私を想ってくれているかもしれないし……」
フローラは小さくため息をついた。
フローラは何度もアーネストへ手紙を送っている。
鬱陶しく思われないように、フローラの重い想いが伝わりすぎないように、なるべく簡潔に、慎重に言葉を選んで書いた手紙だった。
だけどアーネストからは、返事ひとつ返された事はない。
アーネストがフローラとの婚約を前向きに考えているという返事は父からすでに聞いているが、その父の言葉を信じるしかない毎日だった。
家の調査で知ったアーネストは、長身で見目麗しい容姿をしながらも浮ついたところはなく、物静かだが真面目で公平な性格という事だった。
その一つ一つの情報に愛おしさが募る。
会えないのに、手紙ひとつ届かないのに、アーネストの存在をどこか遠くに感じるだけで日々募っていく想い。
憧れのような淡く温かい気持ちから始まった女神の祝福は、想いが募るほどに苦しささえ感じられてきた。
届かないアーネストからの手紙に、想いと共に不安も募っていく。
相手が公爵家だから、断られなかっただけじゃないのかしら?
本当はキャロル様を深く愛しているのでは?
もし祝祭日にアーネスト様が現れなかったら?
今ならまだ引き返せるけど、これ以上想いが深くなれば、家の権力を使ってでもアーネスト様を手に入れたくなってしまうのでは?
考えるほどに怖かった。
アーネストに惹かれる想いが強すぎて、この先の自分自身に不安を感じた。
理性を失って闇に引き摺り込まれる未来を想像すると、恐怖を感じて体が震えた。
一度でも声が聞けたら。
一度でも顔が見れたら。
一度でも手紙をくれたら。
―――想いは募っていくばかりだった。