「最も長生きした人間とは、最も人生を楽しんだ人間の事を言う」—ジャン・ジャック・ルソー
☆
「お帰りなさいませ。いかがでしたか、学校は?」
城に戻ってルナちゃんと別れてから、俺はフランの自室の戸を叩いた。
アンティーク調の大きな執務机の置いてある部屋だ。
「どうもこうもねえよ! なんだよあのクラス! 嫉妬だらけのドロドロじゃねえか!」
叫ぶ俺とは対照的に、フランは――、
「ルナ様には、異能とは別の、産まれつきの才能⋯⋯いいや、魅力があるのです」――いつものローテンションを崩さない。
「魅力?」
「『人に好意を持たせてしまう魅力』です。特に男性には効果的に発揮してしまう魅力ですね」
「皆……ルナちゃんを好きになってしまうって事か?」
「もう一度言いますが、それは異能とは別の……最早異能と呼んでも差し支えない程の、魔性の魅力です。顔つき、声色、肉体のプロポーションから匂いに至るまで、男性を惹きつけてしまうのです。それを既に8歳の時にルナ様は身につけておられました」
フランはこう付け加える。「それこそ、少女趣味では無い成人男性すら少女趣味に変えてしまう程の……他人の性癖すら塗り替えてしまう、恐るべき魅力です」と。
「……それはあの状況を見れば分かるけどさ、もう一つ今日の授業で分からなかった事がある。何でルナちゃんはあんなに弱いんだ? いくら何でも弱すぎると思う。キルケゴールとの闘いの時でも、あそこまで弱かったのか?」
「ああ、それは簡単な理由です」
フランは執務机の引き出しから、謎の紋様の入った腕輪を取り出した。
「その腕輪……今日ルナちゃんが付けていた……?」
「この腕輪には、人の理力を抑えつける効果があります。これを付けたままでは、本来の理力の10分の1の実力も発揮できないでしょう。ルナ様にはこれを付けたまま学校生活を送るよう、指示しておりますから」
「だからか! その腕輪のせいでルナちゃんが本気を……。何故わざわざそんな指示を?」
「ルナ様は、周囲の子供達に比べてあまりにも恵まれ過ぎています。地位、名誉、美貌……そして理力と異能。何せルナ様は0歳児の時からお母様から哲学者としての英才教育を受けておりましたから。女子が哲学を学び始めるのは平均して大体十歳……小五あたりからです。まだ哲学を学び始めて三、四年しか経っていない子供達がルナ様に敵う道理は無いのです。この腕輪で抑えつけるくらいしなければ、ルナ様の修行になりませんから」
「だからってよ、クラスの女子達、ルナちゃんが自分達の事舐めてるって勘違いしてるぜ。ルナちゃんにあんな思いさせるくらいならば……」
「テッシン。哲学者が理力を高める手段は、何だと思いますか?」
「何だよ改まって。哲学を学ぶ事って言いたいんだろ?」
「それともう一つ、方法があるのです。それは、『絶望する』事。絶望は人を哲学へと導きます。
人生で起きるあらゆる障害、災難、苦役、不幸が降りかかり、それに対する対処法が分からなくなった時、人は初めて哲学に救いを求めるんです。『絶望』は哲学者の理力を高める作用があるのです」
「……だからルナちゃんをわざと精神的に追い込んでいるのか? お前……少しはルナちゃんの気持ちを考えろよ! ルナちゃんには、もう親も兄弟もいないんだぞ! 唯一頼れる存在は、お前しかいないんだぞ!」
「私とルナ様の何を知ってそんな事を宣うのですか、テッシン?」
いつも感情の籠もらないフランの瞳の色が、凍りつくような熱を帯びた色へ変わる。
「……俺は……ズケズケと他人の過去に脚を踏み入れるのは迷惑だと思って……」
「口は災いの元、ですよテッシン。他人の過去に脚を踏み入れた後でやっと口にする資格のある言葉というモノがあるのです」
「……悪かった。教えてくれよ? お前の過去、ルナちゃんの過去……」
「分かりました、よくお聞きください」
☆
「ルナ様のお母様、レナ・デカルト様と私の母は元々ニーチェ様の弟子でした。加えて、私の母はレナ様の従者でもありました」
紳士服のメイドは、またいつも通り事務的な口調で身の上を語り始める。
「ですが母は高齢出産だった為、早くに他界。その後、一年するかしないかの内にニーチェ様が失踪されました」
「ええと⋯⋯ニーチェ失踪時の2人の年齢は⋯⋯」
「10年前……ですからルナ様が2歳、私が7歳でしたね。ニーチェ様失踪後も、私とルナ様はレナ義母様から哲学の指導を受けました。7歳の私は、今日アナタが向かった中学校の初等部にあたる所へ入学。そこで哲学の知恵を磨き、理力を高め、15歳の時『経験論』の何たるかを書き記した書物を世に発表した事で、新たな哲学的思考を世に浸透させました。結果、先日お見せした異能を手にするに至ったのです」
理力を高める為に哲学を勉強し、そこから見出した己の概念を世に広める事で異能を手にする……?
「一般的に、理力を持つだけでは哲学者とはみなされません。女性ならば誰でも持っている力ですから。理力を高めた者が己の考えを世に広め、異能を手にしてから初めて『哲学者』とみなされるのです。まあ……その代償は……」
フランが一瞬口ごもった。それから続ける。
「私が異能を手に入れ、ようやく世間一般に言う哲学者となれたのに安心したのか、それから一ヶ月後にレナ義母様がお亡くなりになりました。今際の言葉は『ルナを頼んだわね』でしたよ。本当に、立派な方でした」
「……おい? 亡くなった? 何でそうなる? お前が哲学者になったら何でルナのお母さんが死ぬんだよ?」
「もう限界だったのです。老衰寸前の所、自分の日常で使う理力を最小限に抑え込む事で延命していたのですから」
「だから何で老衰寸前なんだよ? まさかルナちゃんのお母さんも高齢出産だったってのか?」
「ええ、高齢出産でしたよ。少なくとも、哲学者としては」
どうも、さっきからフランと会話が噛み合わない。
「……何歳で亡くなったんだよ?」
「30歳です」
……は?
「30歳? 30歳で何で老衰なんだよ? 戦死とか事故死じゃなくて?」
「レナ義母様が異能を手にしたのが14歳。哲学者となってから16年も寿命が続いたのです。賞賛すべき延命への努力じゃありませんか?」
「……待てよフラン。お前のお母さんは、何歳で亡くなったんだ?」
「35、でしたかね? 私を産んだのが確か28歳の時で、異能に目覚めたのが20歳の時でしたから、平均より持った方ですね」
「……さっきから死んだ年が若過ぎないか? 28歳での出産のどこが高齢出産なんだよ?」
「だから『哲学者としては高齢出産』という意味です。我々哲学者に残された時間は短いのですから」
「……フラン……この世界の男性と女性の平均寿命は何歳だ?」
「男性は70歳、女性は60歳程度です」
「じゃあ……哲学者となった女性の平均寿命は?」
「異能に目覚めてから10年……というのが通説です」
唾をゴクリと、飲み込んだ。
「……異能を手にした女性は、残り10年しか生きられない……?」
「そんな常識を知らなかったのですか? 私はてっきり、ニーチェ様は『寿命を延ばす異能』を手に入れられたから、今40代を迎える事ができたのかと思いましたが? 47歳まで生きる事ができた初代哲人王プラトンがそうだったように。ジパングは未開の地とはいえ、そんな事すら一般庶民達が知らない国だとは……」
「10年……お前も……ルナちゃんもそうなのか?」
「私が異能を手にしたのは15歳ですから、無事30代を迎えられるかは怪しいでしょうね。ルナ様に至っては2年前……レナ義母様から死の間際に譲渡された異能ですから10歳の時。通説通りならばルナ様の寿命は——」
ルナ様の寿命は20歳まででしょう——。
フランはいつも通り表情一つ変えず、そう言ってのけた。
彼女の言葉が、俺の頭の中で反響する。
哲学者は……異能力者は、須らく短命。
何故……何故そうまでして——、
「何故そうまでして、お前達は異能力を手に入れたいと思ったんだ? 自分の命を犠牲にしてまでも?」
心臓の音が五月蠅い。手が震える。
「動機は人それぞれですよ。一緒くたに語る事は出来ません。ただ、哲学者となる女性の多くは、男性に傷つけられたという過去を持つ者が多いです。私は母の顔は覚えていても、父の事は全く知りません。産まれた時には母しかいませんでした。母曰く、「私を他の男に金で売ろうとした最低の男だった」とだけ。私はそれ以上言及しませんでした」
この世界の価値基準が俺の世界の中世に近いのならば、奴隷制度や売春や身分格差、そして戦争のような『負の歴史』を作るのは、女ではなく男、という事か。
織田信長、ヒトラー、ポルポト、スターリン……悪意の種をまく人間の数は、女より男の方が多い。俺の世界の歴史を紐解いてみても。
「私個人の哲学者となった動機は、母の意志を全うする為、という言い方になります。母も、レナ義母様も、ニーチェ様も……皆、この男女が決して平等にならない世界を、どうにかしたかった。男が上だとか女が上だとか、男が下だとか女が下だとか。上下しか存在しないこの世界の価値基準を、どうにかしたかった。私もその想いは同じです。男性も女性も幸せになれる世界……それを作る為にはどうしても異能が必要だった」
己の寿命を半分以上削ってでも?
分からない。一般家庭に産まれた俺には、想像も及ばない覚悟だ。
……ああ、そういえば高校生の頃にいなさんが俺にこう言っていたな。
(最も長生きした人間ってのはね、テッシン君。最も年老いた人間の事じゃないんだよ。最も長生きした人間とは、人生を楽しんだ人間の事を言うんだよ。例え若くして死んだとしてもね)
人生を嘆いたまま老いて生きるより、人生に喜びを見出した上で若くして死ねる方こそ、人間らしく生きた証となる。
フランは……彼女ら哲学者は、後者の道を選んだ人間なのだ。
俺は前者の人間だ。ロリコンという自らの性癖に苦しめられ、人生を嘆いたまま22歳となってしまった。
17歳のフランの方がよっぽど……人間らしい生き方を選んでいる。
ロリコンたるもの、ロリを守って格好よく死のう。その時こそ、俺はロリコンというケダモノから人間に戻れるのかもしれない。
「ああ、そういえば。話ついでですがテッシン」
フランの、いつも通り抑揚の無い声が、俺の意識を現実に戻した。
「アナタ、ルナ様の事、女性として好きですよね?」
「…………ちょちょっ、何言ってんだよ! 10歳も年の離れた子の事好きになるワケねーだろ!」——オドオドした口調で、誤魔化すように言う。
「我々哲学者の多くは性的なトラウマを心に負って哲学者になる者が多いんです。だから性的な視線には並みの人間より敏感なのです」
……そうか。さっき言っていた通りフランの父親は……。
「我が『合理の国ラショナ』において男女関係になるのが許される年齢は、17歳からです。ルナ様の魅力が成人でも耐えられないレベルとはいえ、もしルナ様に手を出しましたら——」
——ムショにぶち込みますよ——?
フランは眼をカッとガン開きにして、俺を威嚇する。普段無表情な彼女だからこそ、その怖さは何倍にも膨れ上がっている。
「……あい」——俺はアホみたいな返答しかできなかった。
17歳、か。異世界に来てもやはり俺の恋を社会は許してくれないらしい。
俺の恋心が許される場所は、この世のどこにも存在しないのだな……。