プロローグ:「男が女を愛するのは、それが最も危険な遊びだからだ」—フリードリヒ・ニーチェ
俺の名前は求宮哲真。哲学者志望の22歳、高学歴のとある大学の一年生であり、バスケを嗜むスポーツマンであり、自殺者であり、ロリコンである。
哲学者志望、バスケットマン、自殺者、ロリコンと複数の属性を持つ俺だが、専ら全ての元凶はロリコンである事なのだ。
ロリコン故に哲学者を志望し、ロリコン故にバスケットマンであり、ロリコン故に自殺に至った。
厳密には、初恋を忘れられなかったから哲学者を志望し、バスケを頑張り、自殺に至った。
俺は22歳なのに、11歳から14歳くらいの少女しか恋愛対象にならない。
だが皆様ご存じのように、我らが日本……いいや、世界中の国々においても18歳以上と以下が恋愛する事には壁が存在する。
それが22歳の男と12歳の少女ともなれば尚更。
俺は……小学校の卒業アルバムの中の少女に恋したまま大人になった。
だから、彼女と似ている小学生ないし中学生がいたら、好きになってしまう。
とはいえ、それを自覚したのは、実はつい最近の事なのだが。
19歳の時、一浪した大学を入学式前に休学し、自転車で日本を走り回った。
ちなみに、両親に黙って。ぶっちゃけ家出だ。
新潟県の佐渡島を目標に、ひたすら自転車を走らせた。
その旅の中で気づいたのだ。街を歩く少女達の顔が気になってしまう事に。
俺がロリコンになった原因となった少女……海月に似ているかどうかに。
3ヶ月して、佐渡島に着いた。そこで塾講師のアルバイトを始めた。
塾講師というバイトを選んだのもまた、小学校の卒業アルバムの中で微笑む海月に似た少女を探し出す為。
そんな塾講師生活を三年過ごし、22歳の誕生日を迎えた時、俺は気付いてしまった。
このまま海月に似た少女を探し出せなければ、俺と想い出の中の少女の年の差はどんどん開いていってしまうのだと。
まだ俺は22歳だから、青年と少女ならば、辛うじて恋愛出来るかもしれない。
だがこのまま俺が年を取り、壮年、中年、老人となったならば?
壮年と少女、中年と少女、老人と少女……いずれも恋人として似つかわしくない。
俺の中で、強い焦りが産まれた。「はやく少女と出逢わなければ」と。
けれど……3年家出生活を続けても、そんな少女は見つからなかった。
俺は今22歳だ。小、中、高校の同級生達は順調に大学生活を送っているならば、卒業している年だろう。
ロリコンの俺と違って、同年代の女性と普通に恋愛し、普通に社会人となっていくのだろう。
加えて昨今、ロリコン男性に対する社会に対する風当たりは昔以上に厳しくなった。
某有名アイドルグループの社長が何人もの未成年のメンバーに枕営業をしていたとか、大手塾講師の男性が生徒に手を出したとか。
大人の男達による少女達への性的搾取を許さないと、メディアは喧伝する。
その度に、俺の抱く欲望に対する罪悪感が膨れ上がった。
……ああ、俺の存在は社会にとって悪なのだな、と自覚させられた。
——ロリコンの俺は社会に受け入れられないし、いずれ年を取れば、少女にも受け入れられなくなる——
それに気づいた時、俺は島にある岬のフェンスを飛び越え、崖から飛び降りていた。
俺は、死んだ。
——と思ったが、続きがあった。今俺は、その「続き」の中にいる。
水面下で溺れゆく俺は、いつの間にか地上に戻っていた。
それも場所は岬ではなく、岩石に囲まれた荒野だ。
意味が分からない。佐渡島に荒野なんて存在しない。
だが、突如知らない場所に飛ばされた事実より、恐ろしい光景が俺の視界には広がっていた。
数十人の少女達の、死体の群れ。
少女と言っても、皆高校生か大学生……20代の社会人くらいだろうか? 俺のようなロリコンじゃない男なら性的魅力を感じるであろう、豊かな胸、くびれのある腰、細い太もも。
肉付きの魅力的な少女、あるいは女性達が、黒のスーツドレスを纏っている。
この光景を異様たらしめているのは、全員同じように、その黒いスーツドレスを着ている事と、彼女らが皆、死体である事だ。
そして、その川のように倒れた少女達の肢体の上で、二人の少女が立って向き合っている。
銀髪のロリと、金髪のギャルだ。
二人共、そこら中で倒れている少女達と同じ黒のスーツドレスを着ている。何故か両者黒のベールを被っているので顔は見えないが、ベールの下から髪が伸びている。
片方がロリだと分かるのは、身長が140あるかないかの、低身長だからだ。
体躯は、今にも折れてしまいそうな程細く、儚げな印象を俺に与える。胸の膨らみはまだ熟しきっておらず、かと言って青過ぎない程には赤みがかった、青と赤のコントラストが逆に魅力的な青林檎のようだ。
もう片方がギャルだと思うのは、唇にピアスを刺し、人差し指にも髑髏の指輪を付けているからだ。
更に黒のスーツドレスを改造しているのか、スカートが短く、胸元も開いて強調している。ヘソも露出していて、蛇を象ったピアスをつけている。
背は170くらいだろうか? 男の俺よりデカい。
体躯は、大人の色気を纏い始める女子高生の如き、肉付きの良さ。胸の膨らみは、常人である男(つまりロリコンではない男)ならば情欲を抱いて当然な程、今が正に熟れ時な赤林檎のよう。
その青林檎と赤林檎⋯⋯二つの果実を持つ少女達の共通点は、男に色気を感じさせる程雪のように白い肌が、ベールの隙間から垣間見える口元から⋯⋯そしてドレススーツの露出部位である手首から確認出来る事だ。
俺は岩壁に隠れ、声を殺しながらその戦場を覗き見ている。
「ルナ……諦めて『哲人王の弁明』をウチに渡しな」
金髪のギャルが、銀髪のロリに手を差し伸べる。
「や……です……。あの本だけは……渡せません……キルケゴールさん」
小動物のような怯えた声で応える銀髪のロリ。二、三歩後退る。
「アンタの専属執事はウチの部下共が足止めしている。見ての通り、アンタの部下達も始末した。あの執事がいなきゃ、アンタなんてタダの親の七光りなだけのメスガキよ」
勢いづいて、金髪のギャルがベールを脱ぎ捨てた。
両耳にも蛇を象ったピアスを付けている。
だが彼女の粗暴な見た目に反して、彼女の顔の造形は、今まで何人もの男を魅了してきたと思われる程の美貌だ。
「ルナ様!」——遠くから叫び声がした。三人の女性がこちらにやってきている。
やはり三人共、黒のスーツドレスを着ている。
「セイレーン・キルケゴール……貴様よくも仲間達を!」
「ウザいなあ、ザコが」
金髪のギャルが右脚の太ももを前に出した。
「異能——『死に至る病』」
彼女の言葉に呼応するように、彼女の右太ももが黒い光を発した。
光が収まると、彼女の右太ももに紋様が浮かび出た。
その紋様は「蛇を縄にして首を吊る男」の紋様……とでも言うべきか?
次に彼女はナイフを取り出し、自分の右太ももを切り裂いた。
「さあ喰いな……ウチの異能」——狂気じみた笑みを浮かべるギャル。
太ももから流れ出る血は紋様へと浸透する。
すると、紋様から紫色の粘液が三つ発射された。
「ダメ! 皆避けて!」——銀髪のロリが増援に来た仲間達にそう叫ぶが——、
紫の粘液は全て、増援の少女達に命中。
増援の少女達の一人が、顔を絶望で歪めた。
次に、三人の少女達が同時に、頭を抱えて悶え苦しみ始める。
するとその三人は、自分で自分の首を絞め始めた。
数分しないうちに、三人の少女は自らの首絞めによって泡を吹き、その場に倒れた。
それを見てから、俺は気づいた。この場で倒れている、数十人の少女達の死体全ての首に、絞めたような痣痕がある事に。
「知っているかしらルナ? 『死に至る病』とは、『絶望』の事を言うのよ?」
金髪のギャルは、指でピストルの形を作って銀髪のロリに勝ち誇ったように言う。
彼女の人差し指の先には、紫の粘液が付着している。
「どうして……こんな酷い事するの?」——銀髪のロリは、泣きそうな声で問う。
「……ハア? どうして? だと?」——顔を歪め、ロリを睨むギャル。ピストルの形を作った人差し指を、彼女の方へ向ける。
「アンタ、自分が一つの国の王である自覚足りてないんじゃないの? これはアンタの国とウチの国の戦争。王と王の戦い……どちらかが死ぬしかないじゃない」
「お、お母さんはそんな事……望んでいませんでした!」
「……まさかアンタ、ウチとアンタの母親がニーチェ先生の元で学んだ姉妹弟子の関係だったってのを狙って温情に訴えてるの? 義理の姉の娘だから、見逃して欲しいと?」
「違います! そんなつもりじゃ!」
「ニーチェ先生が行方不明になってから十年。先生が居なくなった事に調子づいて、旧時代の男共は徒党を組んでウチら女達を再び自分達の下僕にしようと企んでいる。ルナ……まだガキなアンタに教えて上げる。男ってのはね、ケダモノなのよ?」
睨むギャルに対し、「それ……でも……」とロリはたどたどしい声で言い返す。
「それ……でも……ルナは……お母さんの意志を……継ぎたい。ルナのお兄ちゃんは優しかった……。男の人と女の人は……一緒に……生きていける……」
弱弱しく訴えるロリ。だがその訴えは——、
「あっそ。じゃあもう、見解の相違」——ギャルを怒らせてしまった。
人差し指に溜められた紫の粘液が発射される。
その粘液は、ロリの頬をかすめて、ロリの背後の岩へと衝突した。
その攻撃の勢いで、彼女の顔を隠していたベールが取れて、風で飛ばされていった。
ロリの素顔が晒される。
——息を呑むような、美貌。
そのリスのように丸い目は、見る者(特に俺)の庇護欲を煽り、その赤らんだ頬もまた小動物のようで見る者(特に俺)の庇護欲を煽り、そのリンゴのように実った唇もまた柔らかそうで、見る者(特に俺)の庇護欲を煽り——、
とにかく、彼女の顔全てが俺の庇護欲を煽った。
髪はショートミディアムで、何かスポーツとかやっていそうだ。特にバスケとか。
俺がロリコンになった原因である初恋の少女、海月もバスケ部に入っていて、ボブカットに近いショートミディアムだった。
丁度海月もこの銀髪ロリのように、体の線が細くて、背が低くて、リスのように丸くて可愛らしい瞳をしていて——、
——ていうか、この子の顔は海月そのものだった。
俺はポケットからある物を取り出した。小学校卒業の時の集合写真だ。
写真の中の海月と、あの銀髪ロリを見比べる。黒髪か銀髪かの違いこそあれど、彼女はまるで海月の双子か妹か、生まれ変わりかのようだった。
「どうしたのよルナ? はやくアンタの異能、『我思ウ、故ニ我アリ』で防いでみなよ?」——金髪のギャルがロリを煽る。
銀髪ロリは動揺したまま、その問いに何も答えない。
「そりゃ出来ないわよね。アンタは母親の異能をまだ使いこなせていない。やろうと思えば触れただけで敵を即死させられるチート能力だってのに。せっかくママから受け継いだ力なのに、宝の持ち腐れね」
見下しの視線を向けるギャル。
——俺には、彼女達の会話の意味がほぼ理解できない。イデアがどうとかイドがどうとか。
けれど、この銀髪のロリは間違いなく、俺がこの三年間、家出してまで探して求めていた少女そのものだった。
ロリコンの俺が一目惚れしてしまったロリだった。
――初恋の形をしたロリだった――。
それを意識した時には俺は、岩壁の裏から飛び出していた。
ロリとギャルの間に、突如として割って入る。
「……誰だガキ? ていうか、何で戦場に男が?」―ギャルが眉をひそめる。
俺はガキじゃねえ、多分お前とタメ年くらいだわ。よく高校生……最悪中学生にすら間違えられるけど。
「お前こそ、こんな小さい女の子相手に何やってんだ? この倒れている女の人達は、お前がやったのか?」
「質問に答えな。何でアンタみたいな『男』が戦場にいる? 戦場は『女』の来る場所だ、とっとと失せな」
戦場は女の来る場所? 普通逆じゃないか?
「それに、妙な恰好しやがって。アンタどこの国の男だ?」
俺の黒いジャージを指さして言う。
「俺は日本産まれの日本育ちだ! ……てかココ日本じゃないのか?」
「日本? どこだソレ? 確かジパングの旧時代の名称だったっけ。……まあいいや、男なんかと無駄話しているヒマはないわ。そこをどきなよ。ルナは男如きに守られる程か弱い女じゃない。隠れてウチらの闘い見てたなら、もうアンタも理解出来ていると思うけど、ウチらはただの女じゃない。『哲学者』よ」
「……哲学者? 哲学者って、あの仕事としての哲学者?」
「……どう解釈しているのかは知らないけど、もう話すのも面倒臭くなってきたわ。ウチが哲学者って証拠、アンタに見せてあげるよ」
そう言うと、金髪ギャルは、自身の右脚に刻まれた紋様に触れた。すると紋様が光り、そこから先程と同じく紫の粘液が溢れ出た。
まるで絶望を体現したような、禍々しい色をした粘液が。
「ダメ!」——ギャルが粘液を飛ばすより先に、銀髪ロリが俺の前に出た。
「君……俺の後ろに隠れてて! そして隙を見て逃げるんだ!」
「逆です。ルナ……私が時間を稼ぐから、はやく逃げてください」
ロリはギャルの方を向いたまま、背後の俺に向かって言った。
そんな、俺の盾となろうとする彼女に、俺が口にした言葉は――、
「俺さ⋯⋯君と初対面なのに今から意味不明な事を言うけどさ⋯⋯俺、君の事をずっと探していたんだ。俺には君を守りたい、個人的な理由がある」――等と口走る。
ロリは困惑した表情を浮かべた。当たり前だが、やはり理解して貰えないようだ。
「見ず知らずの男を守るなんて、相変わらずガキだねえルナ! 最後はお互い哲学者らしく、名乗りを挙げて戦おうよ!」——テンションがハイになっているギャルは声を上げる。
続けて、両手に紫の粘液を塗りたくったまま、両手を広げてこう叫ぶ。
「我が提唱思想は『実存主義』! 哲学者、セイレーン・キルケゴールよ!」
決闘前の名乗りのようだ。俺には、彼女の『実存主義』という言葉が心に響いた。
実存主義……死に至る病……キルケゴール……それらの名称はまさに……。
ギャルの名乗りに対抗するように、ロリもまた、気弱な声で名乗り上げる。
「てっ、提唱思想は『方法的懐疑』……哲学者、ルナ・デカルト」——最後の方は小声だった。
この子の方もまた、キルケゴールと名乗るこの金髪ギャルと同じだ。
方法的懐疑……我思うゆえに我あり……デカルト……。
「さあさ、決闘の準備は整ったわ! さあルナ……アンタも哲学者ならば哲学者らしく、腕っぷしで守りたいものを守ってみなさいよ!」
ギャルが、紫の粘液を俺達の方へと投げ飛ばした。
その粘液がロリへ付着する前に、俺は勢いよく地を蹴り上げた。
そのままロリを抱いて、紫の粘液を目と鼻の先の所で回避した。
地面を転がる俺。胸の中でルナと名乗る銀髪ロリを抱いたまま。
すぐさま起き上がり、俺とロリは敵の方へ向き直る。
ギャルは……狐につままれたような視線を俺に向ける。
「アンタ……見えてたの? ウチの……『死に至る病』が……?」
「……その粘液の事か? そりゃ見えるだろ? 体のどこに隠してるかまでは分からねえけど」
「異能が……理力が見えるの? 男の癖に、ウチらの体を覆う理力が……?」
「何の話だよ? イデア? イド? 哲学用語だけ並べやがって何言ってるか分からねえよ!」
少し黙り込んだ後、ギャルは表情を固めた。先程のような子供を弄ぶような余裕のある表情ではなく、覚悟のある……緊張感のこもった表情だ。
「今だ歴史上、理力が見えた男は一人もいない。理力が見えるって事は、自分で理力が使える事も意味する筈。少しでも理力を持つなら、いずれ異能が使えるようになる可能性が……哲学者になれる可能性がある。歴史上初の、男性哲学者の誕生……」——彼女は意味深な言葉を並べる。
そして次に、右太ももに刻まれた紋様に手を当て、再度紫の粘液を産み出す。
「ならばアンタはウチら女性にとって、この世で最も危険な存在だわ。男共が異能を使えるようになったら、再び暗黒時代がやってくる。アンタをここで殺す事は、七大国の覇権争いに勝利する事よりも優先すべき事項。女同士で争っている内に男共にウチらを支配するチャンスを与えるなんて、本末転倒も良い所よ」
この女の言っている事の意味、何一つ俺には分からない。けれど僅かながらでもこのギャルの言葉の意味を解釈するならば、俺にもコイツと同じ不思議な力を使える可能性があるという事だろうか?
もう既に確信した。このギャルがさっきから手にしている紫の粘液は、コイツがどこかに隠し持っていた物じゃない。ギャルの体内から、あるいは別の原理で産み出している粘液だ。
この粘液の事をイドだとかイデアだとかと呼んでいるのだ。
だがそれが分かった所で、この女から逃げ延びるきっかけとはならない。
俺はどうなっても構わない。せめてこのルナという少女だけはここから逃がさなくては。
……そうさ、この子と俺は初対面。本来ならば命をかけて守るような相手じゃない。
加えて白状するならば、俺がこの子を守る理由は「この子が俺の初恋の女の子に似ているから」だ。見た目だけで判断している、浅はかな動機さ。
けれど俺にとって、それは命をかけて守るのに充分な理由なのだ。十年間、俺の心を捉えて離さなかった初恋の少女。その生き写しと呼んで差し支えない少女を守れるならば、死んでしまったって構わない。
力が……この子を守れるだけの力が……欲しい。
(……ハハハ! 何を言っているんだいテッシン君。君にゃ既にアタシが力を与えてやっているというのにさ)
どこからか、女の声がした。どこかで聞き覚えのある声だ。俺の体の内側から聞こえる。
(……誰だ?)——俺は自分の心に問うように、念じた。
(誰だって!? 冷たいなあ、3年間も佐渡島に家出していたせいで、アタシの声忘れちゃったの? アタシだよ、アタシ!)
意気揚々としたハイテンションで、女は俺の問いに答えた。
(まさか……アンタは……?)
(いや~、案の定、自殺してしまったんだね。出なければこうやって君の心の声が聞こえている筈ないもん。そして現在、絶賛哲学者とバトル中って所かい? どうだい、そっちの世界は?)
(……この状況、アンタが仕組んだのかよ? 何が哲学者とバトルだよ、意味不明だよ)
(考えるな、感じろ……ってね、アハハ!)
このふざけた感じ……このお姉さんは相変わらずなようだ。
(君には、君が高校を辞めてからの三年間と浪人中の一年間、必要な哲学知識を充分叩きこんでやっている。少なくともアタシの哲学理論は完全に頭に入っている筈だよ!)
(アンタの哲学理論って……アンタの正体、何モンだったんだよ……にいなさん)
(アタシの異能も既に君に譲渡してある。こう口にしてみたまえ。『異能発動……』とね)
俺は、頭の中になだれ込んでくる女の声に従った。
「……異能発動——」
すると言霊に応じるように、俺の右手と左手の甲が光った。
両手の甲に、金髪ギャルの太ももに刻まれているのと同じような紋様が浮かび上がった。
「……アンタそれ、想印ね!? やっぱアンタ、マジに哲学者だったのね。その紋様が浮かび上がるって事は……」——強い動揺を見せるギャル。
(さあ次の段階だテッシン君。自分の血を紋様に注ぎたまえ。異能の発動には、紋様と自分の血が必要だ)
俺は、左のポケットから小型のナイフを取り出した。佐渡島で自殺を図ろうとした時に入れていたナイフだ。海に飛び込むのが怖いならばナイフで自分の喉を切り裂こうと思ったのだ。
女の声に言われるがまま、ナイフで自分の右手の人差し指を切る。
指先から血が出る。自ら切った事もあってか、指先に強い痛みが迸る。
痛みに耐えつつ、左手の甲の紋様に、右手の指先から溢れる血を塗りたくる。
左手の紋様は、『民衆によって十字架に磔にされた、天使の羽を持った男』のデザインだ。
(準備できたかね? じゃあ次にこう高らかに叫びたまえ……君の異能の名は……)
頭の中の女に従い、その名を口にしようとした……その時!
「反撃の隙なんて与えないよ! 『死に至る病』!」——ギャルは太ももから紫の粘液を召喚。
禍々しい色の粘液を、再度俺に向かって飛ばした!
反射的に左手を伸ばしたまま俺は、頭の中の女が告げた言葉を口にした。
「異能——『神は死んだ』」
俺の言葉に呼応し、左手の紋様はドス黒く光った。
まるで死を思わせるような闇色の光が、俺の左手を包む。
その闇色の光が、ギャルの飛ばした粘液を飲み込んだ。
「アンタ……今……その異能の名を何て呼んだ?」
青褪めたギャルは、俺を責めるようにそう言った。
「『神は死んだ』……『神は死んだ』と呼んだの?」
闇に包まれた俺の左手を指さす。
「異能、『神は死んだ』……その能力は、まさに神を殺す能力。神が女だけに授けた奇跡の力である異能を消滅させる、異能殺しの異能」
俺は、禍々しい闇を蓄えた自分の左手を見た。自らすら飲み込み殺すような闇だと思った。
「けれどそんな事よりも……何故アンタが『神が死んだ』を使えるのよ!? その力はニーチェ先生の異能! アンタ……ニーチェ先生に会った事があるの!?」
「……そのニーチェ先生ってのは、身長がやたら高くて、虹みたいに七色の色をした髪をいつもポニーテールにして纏めていて、いつも飄々とした雰囲気で掴みどころの無い感じのお姉さんの事か?」
「……そうよ、虹色の髪をした大きな女性。やっぱりアンタ、ニーチェ先生に会っているのね!? 教えなさい! あの人は今どこにいるの? そもそもまだご存命なの!?」
どうやら、俺の脳内に語り掛けてくる女と、このギャルが「ニーチェ」と呼ぶ女性の見た目は一致しているようだった。
感情剥き出しのギャルは、しばらく呼吸を荒げてから、深呼吸して吐いて、落ち着きを取り戻した。
「……アンタは生け捕りにする。牢屋の中で尋問して、あの人の居場所を吐かせるわ。あの人が突然消えたりしなければ、ウチらが闘い合う事なんて無かったのに……」
少しせつなそうな表情を見せてから、彼女は先程と同じ真剣な面持ちを作った。
再度、右の太ももの紋様から紫の粘液を産み出し、両手に持つ。
「……確かに、『神は死んだ』は異能無効化という強力な力よ。けれど弱点はちゃんとある。その弱点ってのは……例えば!」
粘液を再び投げつけてくる。
その量は、さっきの二、三倍と多い。しかもソレを拡散させてきた。
「無効化出来る範囲は、闇に覆われている箇所に限る! アンタの場合は左手! それも腕一本じゃなくて、手首より先の手に限られている! 左手一本で、この拡散させた『死に至る病』全てを防ぎきれるかしら!?」
俺は素早く、四方に散らばる粘液に対処しようとした。だがギャルが予測した通り、全てに対処しきる事はできなかった。
両腕と顔に飛ばされた分までは、体に付着するより先に粘液に触れ、消滅させる事に成功した。だが胴体と両脚に粘液がかかってしまった。
粘液が、俺の皮膚の内側へと侵食していく……。
「かっ……はっ!」——同時に、俺の脳内に過去の記憶が蘇ってきた。
大切な人を失った日の記憶……中高一貫校での教育……これまであった嫌な事全て。
死にたくなるような想い出達が、俺の脳内を侵してきた。
(……お前達、大切な人を幸せにしたかったら、勉強して良い大学に入って、良い会社に行け!)
(……ありがとう、本当にありがとう……ごめんね)
(……少年、金や地位さえあれば、女を幸せに出来ると思うかい?)
心に響いた言葉達が、俺の心を串刺しにしていく……。
段々、自ら喉を締め上げてしまいたい気分になっていく……。
「——正気を取り戻してください!」——背後から、祈るような叫び声が聞こえた。
銀髪のロリ……ルナちゃんの声だ。
——ああダメだ。また自殺したりしちゃダメだ。死ぬならば、この子を守ってから死ぬんだ——。
自らに課した使命を意識した時、俺の体は自然と、この状況への対処法へ向かっていた。
血が、異能のトリガーだ。血があれば、俺はこの「異能無効化」を発動出来る。
この俺の手の覆う闇を全身に纏う出来れば、どこに攻撃を受けても異能無効化可能。
……いいや、どうだろう? 物理攻撃は無効化できない? 例えば異能で出来た銃弾を肉体に受けて血を流したら、その傷に触れれば「無効化」で治せるか?
……仮説ではあるが、あくまで「異能力の無効化」だけならば傷は治せないだろう。銃弾は消滅させる事は出来ても、異能の銃弾で負わされた傷は治す事が出来ない……と思う。
であるならば、このギャルの粘液によって呼び起こされている自殺衝動もまた、治す事はできない? それとも、衝動を引き起こしている粘液の方を消滅させれば、この衝動も消えるのだろうか?
……ああ、俺の悪い癖だ。今、迷っている場合じゃない。こう思考を巡らせている今ですら、俺は自分の首を絞めたくてたまらない。
俺が俺を殺してしまう前に、俺は決断を済ませるべきだ。
俺が死んだら、誰がこのルナちゃんを守るというのだ?
この子の為ならば……俺は、自分を傷つける事もためらうべきじゃない。
——この子を守りたいという思いの根源が、例え少女への恋愛感情という、下卑た下心だろうとも——。
俺はナイフをポケットから取り出し、粘液が侵食した胴体……ヘソの上あたりを刻んだ。
服が真っ赤に濡れていく。
次にナイフで、両脚の太ももを刻んだ。
ズボンも赤く濡れていく。
……だが、腹部と両脚からは、左手と同じような闇が発生しない。
「バーカ! 自分の血があれば異能が発生するって原理じゃないんだよ! 想印と血、両方あって始めて異能は生まれるんだよ!」
まあ、そうだよな。そう世の中上手くはいかないよな。
だけど……だけどよ……、
「けどこれで『入口』は出来ただろ? 毒を取り出す為の入口がよ」
俺は左手を覆う闇を、腹部の傷口へあてがった。
感じる。俺の左手の闇が傷口から、体内へと侵食した粘液を吸い出しているのを。
腹の中の粘液が消え失せるのを感じ取った次に、右の太ももに闇をあてがった。
やはり闇は体内の粘液をあっという間に吸い出してくれた。
同じ要領で左脚にも闇をあてがい、粘液を吸い出す。
「これで……完治」——まだ頭は痛かったが、死にたい衝動はすっかり消えていた。
「アンタ……見ず知らずの女の子の為に、自分の体を傷つけたのかよ? 意味不明だよ」
「理解してくれなくていいよ。俺は、自分の感情を他人に理解される事を、既に諦めている」
誰もロリコンの心を理解しない。それがこの世界の真理だ。
俺は他人に理解を求めない。もし誰かに理解して欲しいとしたら、いつか俺が好きになるだろうロリただ一人に理解して貰えればいい……そう思って生きてきた。
このルナちゃん一人がいつか理解してくれる日が来てくれればそれ以外……求めない。
「……まさか、これで勝ったつもりじゃないよね? 異能を無効化できた所で、アンタには攻撃手段が無いじゃない。殴り合いで男が女に勝てると思ってんの?」
「殴り合いで男が女に……って、お前の方が……意味不明だよ!」——俺は、ギャルに向かって殴りかかった。
女を殴るなんて男として最低だが、ロリを守る為に女性を殴るのは、致し方無し。
それにこのギャルの体は不思議なオーラで覆われている。俺の常識で知る女の肉体強度だと思わない方が良い。
俺には、彼女にダメージを与える目算があった。俺の左手が異能を無効化するというならば、彼女の体を覆うオーラを貫通してダメージを与えられる筈だと。
俺の拳は見事に、彼女の頬を射止めた。
ところが彼女は眉一つ動かさない。ダメージを感じていない様子だ。
むしろ彼女を殴った俺の左手の方に痛みが込み上げてきた。
そして彼女は、俺の頬へカウンターのパンチを食らわしてきた。
「痛っつ……」——頬を抱える俺。
「ゴメン、言い方が間違っていたわ。男が女に勝てるか? って言うより、男が、『哲学者』になった女に勝てると思うか? って言い方が正しいわ。理力の無いオスがさあ!」
イド……この細いギャルの、体に似つかわしくない身体能力の正体か?
さっきからコイツの体を覆うオーラ……これがイド?
「どうやらアンタの『神は死んだ』は、異能を殺す力はあっても理力を殺す力までには、まだ至っていないみたいね。ニーチェ先生のソレは理力ですらぶち破ってきたけど……」
肉弾戦で彼女に勝てないのなら、依然俺の方が不利。異能無効化という異能は、あくまで異能のぶつけ合いで互角に持ち込む為の異能だ(俺の昔読んだバトル漫画にそう書いてあった)。
ならば最後にモノ言うのは、それ以外の……例えば肉弾戦、拳や蹴りとか、だ。
やはりこの闘い、まだ俺に向かい風が流れている。
しかも、さっき自傷行為に及んだせいか、腹と両脚が痛え。
自分では皮膚をなぞっただけのつもりだったけど、ナイフが肉まで届いていたのか?
だって自傷行為なんて今までした事無いもん。加減分からねえよ。
クソ……どうすれば……どうすればいいんだ? どうすればルナちゃんを守れる?
その時、俺が気づいたのは、俺には二つの紋様があるという事実だ。
左手の『神は死んだ』の異能に加えて……右手にも紋様が。
右手の甲を見る。紋様は、「痩せこけてボロ衣を纏った男が、冠を被った肥えた王様を後ろからナイフで刺し殺す」……とでも言うべきデザインだった。
俺は、先程頭の中へ語りかけてきた女……にいなさんから俺の異能の名を聞かされていた。
左手にしろ右手にしろ、どちらの紋様も、その異能の名にふさわしいデザインだ。
「解除」と左手に向かって呟き、左手を覆う闇を閉ざす。
次に右手の紋様に血をまぶしてから、その異能の名を高らかに叫ぶ。
「異能——『ルサンチマン』」
俺の呼ぶ声に応ずるように、俺の全身から灰色のオーラ……理力と呼ばれているだろう力が噴き出した。
膨大なエネルギーだ。多分、このギャルが体に纏うエネルギーより多い。
「『ルサンチマン』……術者の傷が増えれば増える程……そして術者と敵の理力の量に差があればある程、術者に強力な理力を与える……下剋上の異能……」——呆然とする金髪ギャルがそう呟いた。
「スゲエ……この力ならば……」
俺は力強く地面を蹴り上げた。ギャルが反応するよりも素早く、拳を彼女の頬へ叩き込んだ。
「うぐぅっ!」——ギャルは後方へと吹っ飛び、彼女の体は遥か彼方に見える岩壁へめり込んだ。
——しばらく、沈黙がやってきた。ギャルは岩壁から微動だにしない。
「今の内に逃げよう」——俺がルナちゃんをどこかへエスコートしようとした……その時——、
俺の体は、その場に崩れ落ち、うつ伏せに倒れた。
俺は、自分の体の異変に気付いた。血が……吸われているのだ……右手の甲に。
「速く異能を解除してください! 『ルサンチマン』は術者の血を喰らって術者を強くする危険な異能です! 長く使用し続ければ死んでしまいます!」
道理で、と思った。段々意識が朦朧としてきているのだ。
「解除」と右手に向かって呟くと、俺の体を覆う灰色のオーラは静かに消えた。
だが時既に遅し……俺は血を流し過ぎ、血を吸われ過ぎた。
その場に倒れた俺の体は、動かない。
俺は悟った。(俺の異能はとてもじゃないが、一人だけで生きていける異能じゃない)と。
この世界、もし異能を使った闘いが当たり前な世界ならば、俺はこの先生き延びられないだろう。『ルサンチマン』……毎回こんな致命傷を負うのが発動条件な異能じゃ到底生き残れない。
『神は死んだ』にしたって、敵の異能を無効化するのに自分の体に傷をつける必要があるようじゃ、闘いを繰り返していく内に、いつか血を流し過ぎて死んでしまう。
さっきのギャル……キルケゴールの言動を聞くにニーチェ……にいなさんだったら、もっと上手くやれたのだろうけど。
俺は、圧倒的にイドとやらが足りないらしい。にいなさんがくれた、イデアという武器は強力なようだが、武器が強くても使い手がヘボいんじゃ、宝の持ち腐れだ。
俺一人じゃ、勝てない……生き残れない世界……。
「ルナ……ちゃん。俺は放って……逃げろ……」——目に涙を浮かべる彼女に、俺はそう願った。
死にゆくにも関わらず、俺は充分な満足感を得ていた。
一度自殺を図った人生でもう一度チャンスを与えられ、初恋の少女そっくりなロリを守って死ねるなんて、ロリコンにとって理想の死に方だ。
「もう……もう悔い残す事は……無い」——無意識にそう呟いていた。
「死んじゃ、ダメです」——ルナちゃんは、俺の背中を手で支えたまま、体を仰向けにひっくり返した。
そして俺の体を強く抱きしめた。
密着する少女の髪からは、初恋と同じ匂いがした。俺の庇護欲を煽ってくる匂い。
彼女がロリだからこそ、背徳的な匂いですらあった。
……ああ、本当に……もうこれで悔い残す事は無い。初恋の形をしたロリの胸の中で死にゆけるなんて……。
「異能——『我思ウ、故ニ我アリ』」
歯で親指を噛みちぎったルナちゃんは、そう呟いた。
俺は、彼女の額に紋様が浮かび上がったのに気づいた。『千切って破られた何冊もの本の山の上で、自ら机に向かって本を書いている男』が描かれた紋様だ。
その額の紋様へ、血で濡れた親指をあてがった。
すると彼女の体は、白い百合を連想させるくらい儚げな色の光を帯びて輝いた。
その光る体で俺の傷口に触れて——、
「ワレ、コノ者ノ傷ガ存在スル事実ヲ疑ウ」
そう彼女が呟くと、俺の体中に出来た傷は、みるみる内に塞がっていき、最後にはカサブタすら残らない肌を取り戻した。
「君……は……君の能力は……」
なんて優しい力なんだ——。
その続きを口にする事は出来なかった。どうやら体の傷は癒えたが、ギャルの異能によって受けた心の傷までは癒えていなかったようだ。
その心の疲労が一気に押し寄せて来たせいで、俺の意識は闇に沈んでいった。
——ちなみに、この日記を読んでくれているだろう誰かに一つ、断っておきたい事がある。
この物語は、俺がロリ少女を王様に導く、正義のヒーローが主人公の物語なんかじゃない。
ロリコン男がロリ少女と結ばれる為に、あれこれと策略を巡らすだけの……ダークヒーローとすら呼ぶのもおこがましいヘンタイが主人公の物語だ。