「復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮である」—フリードリヒ・ニーチェ
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スフレ・パスカルは、産まれると同時に母国『直感の国レピスン』の王であった母親を失くした。既に異能を授かってから10年経過した時点での出産だったので、母体に負担が大きかったのだ。
父親は産まれた時からいなかった。
戦場で負けた時、敵兵に強引に孕ませられたらしい。
それ以上言及はしなかった。聞いても気分が悪くなるだけだと思ったから。
ただ⋯⋯他の女性達のように、男性という生き物が嫌いになるには充分な理由だった。
堕胎という選択をせずに自分を産んだ母には、産んでくれた感謝と、穢らわしいルーツを持たせるくらいなら産んで欲しくなかったという憎しみ⋯⋯両方の感情が同居した。
産まれながらに天涯孤独だった彼女にとって、心から通じ合える他人はいなかった。
唯一幸いしたのは、神がスフレに天賦の才を……学問、運動あらゆる分野においての天賦の才を与えてくれた事だった。
両親が居ずとも、学業成績で困る事は一度も無かった。
小学校の友人達は彼女を天才と持て囃した。既に2歳の時(ニーチェ失踪時)から母に代わり『直感の国レピスン』の王だった事もあって、同級生、下級生……上級生すらも彼女を『様』付けで呼んだ。
その環境は、彼女に傲慢を与えた。
産まれながらに王、産まれながらに天才。
それに気づいた頃、自分に相応しい人称を……『俺様ちゃん』という人称を自身に与えた。
そして齢10歳という、歴史上最年少で哲学書を書き記し、思想を広め……異能を手に入れた。
彼女は無敵だった。
もし同年代でライバルを候補に挙げるとすれば、レナ・デカルトの一人娘、ルナ・デカルトくらいだと思ったが、それもやはり敵ではなかった。
スフレは天涯孤独故に、独り立ち出来ていた。
対してルナには母も兄もいた。全く独り立ち出来ていない半人前。異能も親譲り。
二年前……二人が10歳の時、ルナの母が死んだと聞いた。ルナの悲しみは、母のいないスフレには理解しがたい感情だった。
そして去年……二人が11歳の時、ルナの兄が死んだと聞いた。
それからルナは、雰囲気が少し変わった。どこか常に胸の内に怒りを抱えているような……刺々しい雰囲気を感じ取っていた。
この一年で、ルナの理力は見違える程上がった。ようやくルナを好敵手と認めても良いと感じていた。
だからこそ、彼女と戦いたかった。大切な人が初めからいなかった自分と、大切な人を失ったルナ……どちらが真に強いのか、試したくて仕方なかった。
哲学者を強くする方法は、一般的に二種類に分けられる。
哲学を学ぶか、絶望するかのどちらかだ。
スフレは前者で成り上がった人間だ。初めから大切な人のいなかったスフレには、絶望して強くなるという理屈が全く理解出来ない。
だからこそ……後者で強くなったルナに興味がある。
近親者の死という絶望が彼女をどれ程に強くしたのか……あの母と兄に守られっぱなしだった甘えん坊が、この一年でどれ程変わったのか、非常に興味がある。
知りたい……最年少哲学者である自分と彼女、どちらが強いのか……。
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「……『人間は、考える葦である——《パンセ》』
スフレを覆う紅のオーラが、透き通った水色に変化した。
と同時に、彼女の赤い髪も澄んだブルーへ染め上がった。
その色の変化は、今まで『剛』で攻めていた彼女に『柔』をもたらしたかのようだった。
ゆっくり、目を瞑るスフレ。
見えない打撃が、彼女に迫るのが俺達にも分かった。
だがスフレはそれを軽い身動きでかわした。
続く打撃も、同じく軽くいなす。
次も、次も……その次も。
まるで先程までと動きが違う。ルナちゃんの透明な打撃が見切られ始めている。
「フラン……スフレは一体何をしたんだ?」
「彼女の異能は二段階方式なのです。攻めに特化した『葦嵐』。守りに特化した『超直感』。彼女はモードを後者に切り替えたのです」
「直感? 直感で透明なルナちゃんの位置を把握しているってのか?」
「分かりますかテッシン。あれが自分で哲学理論を編み出した者の異能です」
不意の打撃を何撃も、スフレは軽々といなしている。
もうルナちゃんの攻撃は当たらないだろう。
「もう見飽きたよ」——いよいよルナちゃんの透明な右腕はスフレの左手に掴まれてしまった。
擬態を解いたカメレオンのように、ルナちゃんが姿を現した。
「これ、さっきまでのお礼」——ボソリとそう呟いてから——、
渾身の右拳を、ルナちゃんの腹部に叩き込んだ!
「っ!」——ルナちゃんの体が遥か遠くの、フィールドと観客席を隔てる壁まで吹っ飛んだ。
壁に激突し、肉体がめり込む。
血反吐を吐くルナちゃんのその相貌は、俺に枯れゆく前の百合を連想させた。
いても立ってもいられなくなった俺は、ルナちゃんに勇気を与えるサインを即興で思いついた。
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全身に、焼けるような熱さを覚える。
ルナは悔しかった。せっかくフランが設けてくれた舞台で恥をさらすのが。
ルナは悔しかった。せっかくテッシンという心強い味方が出来たのに、この会合を失敗に終わらせてしまう事が。
四か国の同盟を取り仕切らなければならない立場にある自分が、こんなにも弱いなんて。
哲学者は実力主義の世界だ。ここでスフレに負ければ、四か国の同盟関係は無かった事にされてしまうかもしれない。
それともスフレを中心にしたまま、他二人の王は同盟関係を結んだままでいてくれるだろうか?
まあ……それも構わないか。それで同盟が維持されるなら。
自分が無理に仕切る必要は無い。ただ、そうなるとテッシンの立場は、フランの立場はどうなってしまうのだろう?
テッシンもフランも、スフレの配下に……スフレの物になってしまうのだろうか?
スフレは口こそ悪いが、そんな極悪人ではない。二人の立場をそんなに悪くはしないだろう。
ここで負ける事は、そんな恥でも大事でも無いのかもしれない。
けれど胸の内に熱い衝動が湧き上がってくる。
——勝ちたいと。
テッシンとフランにみっともない姿を見せたくない。今日までの努力を無駄にしたくない。
ここで負けてしまうようでは、あの人を打ち倒す事なんて到底叶わない。
……打ち倒す? ……生ぬるい。……殺す……。そう正直になってしまえばいい。
ルナは自分の事をよく知っている。自分は可愛い皆のアイドルなんかじゃない事を。
魔性であり、そして……復讐心に駆られた悪鬼だ。
ルナは、本心を隠し続ける。復讐を成し遂げるその日まで。
「……おにい……ちゃん……」——またいつもの悪い癖でその名を呟いてしまった。
だが沸々と湧き上がる怒りを秘める中で、彼の視線を感じるからか、復讐心と同時に、恥ずかしくない闘いを見せたいという想いも湧き上がってくる。
兄のような視線を、兄と同じ顔をした人が向けている。
壁にめり込む体を這い出し、地面に着地する。
深呼吸してから、観客席の方に視線を送る。
兄と同じ顔をした人に視線を合わせる。
「頑張れ! ルナちゃん!」——兄と同じ声色の声援が響いた。
彼は小指を空に立てて振っている。
その小指を見て、彼がしてくれた約束の言葉を思い出した。
『俺が君の力になる』——と。
彼に、ルナは同じ合図を送る。
小指を空に立てて、振る。
観客席に座る王達とその側近達は、訝し気な表情を浮かべたが、気にならなかった。
彼のエールが、ルナに再び闘志を与えた。
「なあに? 何かの作戦? 今更無駄な小細工を」——迫るスフレもまた、二人の間だけで伝わるサインを訝しんだ。
作戦と呼べる作戦じゃない。
ルナはこの場を乗り越える闘い方を今、即興で思いついた。
それはテッシンの顔を見て得たインスピレーションだ。
額の紋様に、血で濡れた背中に触れて真っ赤に染まってしまった手の平をあてがう。
「ワレ……敵ノ異能ガ存在スル事実ヲ疑ウ」——疑う対象を指定した。
「トドメよ! 『『人間は、考える葦である』!!』——スフレの肉体が、再度幾枚の葦へと変わる。
空中舞う葦が渦巻き、ルナを取り囲む。
——だがもう、その攻撃はルナには意味を為さなくなった。
白いオーラを纏う手で、その葦に軽く触れると——、
——バラバラとなったスフレの肉体は、元の配置へ瞬時に再構築された。
「何? 何が起きたの!?」
動揺を示したのはスフレだけではなかった。観客の席の方からは——、
「フラン! 今のルナちゃんの攻撃って!?」
「え……ええ。まるでテッシン……アナタの異能のようでした」——二人の声。
異能無効化……本当に出来るとは思わなかったが——。
ただし理力の消耗が激しい。ルナの異能無効化は、テッシンのそれより明らかに燃費が悪い。長時間持続はできないようだ。
やはり所詮はただの見様見真似。本物には敵わない。
だからこそ、すぐに決着をつける。スフレに隙を与える気はない。
「うああああ!」——スフレに向かって、真っ向から突進していくルナ。
「調子に乗んなよ! 《パンセ》ぇ!」
スフレのオーラの色が紅から水色に変わった。『柔』の戦闘形態だ。
けれどその闘い方の対策法も考えている。
ルナは、オーラの範囲をありったけ広げた。白い円形のオーラは、スフレの水色のオーラと接触。
——瞬間、スフレの水色のオーラは、いつも通りの赤へと戻った。
「異能が……喰われた!?」
——これで、超直感による回避力向上は無効化した——。
スフレの叫びと同時に、ありったけの拳を彼女の頬へ叩き込んだ。
刹那、ルナはボソリと、スフレにこう呟いた。
「スフレちゃん。ルナ、アナタの事が憧れだった」
「⋯⋯?!」
時が凝縮されていく。達人同士の戦いにおいて時がスローモーションで流れると言われる、あの現象だろうか?
「でももう、憧れるのはやめた。だって⋯⋯」
――憧れているだけじゃ、この拳があの人に届かないから――。
そう言い放つと共に、ルナの拳はスフレの頬を貫いた。
そのままスフレの体は地面をバウンドしながら反対側の壁まで吹っ飛び、最後はめり込んだ。
「や……ったよ……おにいちゃん……」
急に気が緩み、ルナはその場に大の字で倒れこんだ。
夢の中に意識が溶けていく。体内の理力が切れた事によって押し寄せる疲労。
そのまま意識は闇の中へ落ちていった。