運命
魔王の花嫁。貢ぎ物。薔薇の花嫁。その名はリディアーヌ。
『私は名誉が欲しい。富が欲しい。爵位が、財産が、欲しいのだ。心から願う』
遠い昔。リディアーヌの祖先が願った。
『代わりに、娘をやろう。美しい娘だ。家系が繋がる限り、その代の一番美しい娘をやろう。だからお願いだ。私に、名誉と富を与えてくれ』
遠い昔。リディアーヌの祖先は約束した。約束は血の契約をもって結ばれた。
約束の相手は魔王。薔薇の魔王。魔王は祖先の願いを叶えた。祖先は、未来永劫、花嫁を約束した。
「だからキミは私の花嫁なのだ」
リディアーヌの前に現れた魔王は言った。
「わたくしが?」
リディアーヌは初耳だった。
親族たちに聞かされたお伽噺が真実だとは初耳だった。
魔王への貢ぎ物。薔薇の花嫁。魔王の花嫁。
『あなたは、魔王への貢ぎ物なの』
皆は笑い話のように話す。
『薔薇の花嫁になるのよ』
と、ある者が言えば、
『違うわ。魔王の花嫁よ』
と、ある者が言う。
『心配は要らないわ、リディアーヌ。お伽噺は、お伽噺よ。あなたは素敵な殿方の所へお嫁に行くのよ。権力もお金もある素敵な方の元へ。皆は口が悪いから『魔王』と呼ぶけれど。素敵な方の所へ行くのよ。心配は要らないわ』
そう言った母の言葉は嘘だったのか。
『そうだよリディアーヌ。心配は要らないよ。お前を大事にしてくれる方の所へいくのだよ』
そう言った父の言葉は嘘だったのか。
いや。違う。
あの日。ロザリーとのダンスを愉しんだあの日。庭の片隅にある薔薇の前で、リディアーヌの運命は変わってしまった。
いや、最初から決まっていた事といえなくはない。
だが、あの日ではなかった。本当はあの日ではなかったはずだったのだ。
「ああ、ロザリー。わたくしの可愛い人……」
リディアーヌは、いまだ火照る体を風に当てようと屋敷の庭を散策していた。
ヴェロアン侯爵家の庭には、素晴らしい薔薇がある。
蔓と蔓とを絡ませ合い、壁のように咲き誇る薔薇の庭。
互いに互いを傷つけ合いながら絡まる蔓には、どの根から咲いたか分からない花が咲き乱れるのだ。
どの花も薔薇ではあるけれど、見た目は大きく異なっていた。
薔薇、薔薇、薔薇、蔓巻く薔薇よ。
幾重にも重なる緑を背景に、清き白に陽気な黄色、幸福に頬染める如きピンクに深い深いビロードの赤、色とりどりに咲き乱れ。
私の心も乱れに乱れる。
愛しき、可愛い、あの人の。
面影をその花びらに。
そっと乗せてみせておくれ。
私に幸せの残像を。
リディアーヌは、ロザリーを思わせるピンク色した花びらにそっと唇を寄せた。
その時だった。
目眩がした。
リディアーヌを中心に世界が回るような、錯覚。右も左も。上も下も。北も南も、全てが回って入れ替わり、彼女は自分が何処にいるのか、見失った気がした。
そして気付いた時。
見回した世界に屋敷はなく。
リディアーヌは一人、薔薇に囲まれていた。
「ここは……一体?」
「おや、これは。リディアーヌ・ド・ラ・ヴェロアン侯爵令嬢」
リディアーヌは振り返った。
そこには黒い外套に身を包み、フードを被った男性が立っていた。
闇のように深い黒い目を見張って、こちらを見ていた。赤い唇が、驚いたように開く。
彼と目があった時。リディアーヌには驚くべき変化が現れた。
彼女は初めて見たこの男性に恋をしたのだ。
また、男性もリディアーヌに恋をした。
薔薇の香りが立ち込めるなか二人はしばし見つめあった。
最初に沈黙を破ったのは男性だった。
「あなたが何故こちらへ? 期日は、まだだったはず」
「えっ?」
何を言われているのか分からず、リディアーヌは戸惑った。
「ああ、偶然なのですね。こちらへ来られたのは」
男性は微笑んだ。
「私は魔王。魔王クロム。薔薇の魔王とも呼ばれている、キミの祖先と契約を結びし者。私はここに住んでいるし、キミたちヴェロアン侯爵家は栄えているのだ。そして、ヴェロアン侯爵家から花嫁を迎えることになっている。その代で一番美しい娘を、ね」
魔王は一歩、リディアーヌに近付いた。リディアーヌは一歩、後ろに下がった。
「だからキミは私の花嫁なのだ」
魔王はリディアーヌに言った。
「わたくしが?」
リディアーヌは驚きの声を上げた。初耳だった。正確には、初耳ではなかったかもしれないが。
しかしリディアーヌは、本当に魔王の花嫁になるのだとは思ってはいなかった。
「わたくしが……」
リディアーヌはつぶやくように言うと、意識を手放した。魔王の動揺した声が聞こえたような気がした。
そして次にリディアーヌが目覚めた時、あの部屋のあのベッドの上にいたのだった。
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契約の花嫁
(あれは幻、だったのかしら?)
ベッドの上で目覚めた時、リディアーヌは思った。
だが見知らぬ天蓋を見上げて、そうではないのだと理解もしていた。
「気が付いたかい?」
魔王の声がしたが、その姿は見えない。天蓋から下がるカーテンの向こう側に、彼の気配があった。
「……はい」
リディアーヌは大きな目を瞬かせて天蓋の裏をマジマジと眺める。
知らない光景だった。
幻などではなく知らない場所にいるのだと、リディアーヌは自覚した。
それが魔王の傍らという信じられない状態だったとしても、知らない場所に居るのだという事実に変わりない。
(わたくしは、どうなってしまうのかしら)
リディアーヌを不安が覆っていく。
「……っ」
首筋に痛みを感じて、彼女は顔をしかめた。
「大丈夫かい?」
心配そうな声と、こちらを伺う魔王のシルエットが灯りの中に浮かぶ。
(ああ、介抱して頂いたのならお礼をしなければ)
リディアーヌはベッドの上に上半身を起こし、
「ええ、大したことは……」
そう言いながらカーテンをそっと引いて魔王に顔を見せた。
リディアーヌの目に飛び込んできたのは、驚愕の表情を浮かべてこちらを見ている魔王の姿だった。
(何を驚いてらっしゃるのかしら?)
「あの? どうかなさいまして?」
不思議に思ってリディアーヌは聞いた。
「キミの……」
「えっ?」
「キミの……印が……」
「印?」
魔王は白い肌に覆われた大きな手を自分の首筋に当てて言う。
「首筋の、傷痕のようなもの。それが印だ」
「え? これですか?」
リディアーヌは驚きながら自分の首筋に手をやった。
生々しさを失って消えかけている古い傷痕。そこには、それがあるはずだった。
(えっ? 膨らんでる?)
ぷっくりと盛り上がる確かな手ごたえ。
昨日まではなかった感触に、リディアーヌは震えた。
「どうなって……」
首をねじったところで直接は見ることができない場所にあるソレ。
リディアーヌは窓の方を見た。
外は暗く、窓は鏡のように彼女の姿を映し出す。
薄っすらとではあるけれど、窓に自分の姿が映る。
そして、リディアーヌは見た。
首筋にある古い傷痕あたりが、明らかに盛り上がっているのを。
「これは、一体……」
戸惑い震える彼女は、魔王に向き直った。
そして見た。
魔王の首筋にも同じような古い傷痕があり、そこがぷっくりと盛り上がっているのを。
それが良い兆候でない事は、魔王の表情からも読み取れた。
リディアーヌは、もう一度、気を失ってしまいたかった。
ベッドの上にいるのだし、それを邪魔するものはない。
だが、そうしてはいけないのだ、と体のどこかで分かっていた。
だから彼女はシーツをキュッと握りしめると意を決して魔王に聞いた。
「これは一体、どういうことですの?」
魔王は美しい眉根を寄せて、こちらを見ていた。そして語りだす。怖ろしい運命を。
「恋とは、魔王にとっては毒なのだ。愛とは、魔王の命を奪うものなのだ」
リディアーヌは、薄っすらと己の運命を悟った。
「ヴェロアン侯爵家の祖先は魔王に花嫁を約束した。だが話はそこでは終わらない。キミの祖先と魔王との間の取り決めには続きがある。魔王は恋をしてはならない。ましてや、愛してなどいけない。花嫁も同じだ」
「まぁ!」
「魔王は差し出された花嫁を受け取り、物のように扱わねばならぬ。花嫁は魔王に、物のように仕えねばならぬ。そこまでが契約だ」
「なんて惨いことを……」
「キミの祖先は力が欲しかった。それでいて誇りも守りたかった。魔王の側も同じだ。ヴェロアン侯爵家は花嫁の肉体を差し出すが心まではやらぬと決め、魔王も力は渡すが心までは与えぬと決めた。その契約の印が首にある、この傷痕なのだ」
「……約束を違えたときは?」
リディアーヌは聞いた。二人の間に沈黙が流れる。
最初に沈黙を破ったのは魔王だった。
「約束を……違えたときは……」
「違えたときには?」
魔王は意を決したように言葉を紡いだ。
「恋をすれば傷痕から芽吹く」
「……何が、芽吹くのです?」
「薔薇だ」
「え?」
リディアーヌは驚いて聞き返した。
「薔薇が芽吹くのだ」
「薔薇、ですか?」
少し呆れた様子のリディアーヌに、危機感は薄い。
魔王は言葉を続けた。
「そして、愛したときには……」
「愛したときには?」
「薔薇が全身を覆って命を奪う」
「えっ? 薔薇に殺される、というのですか?」
「そうだ」
ポカンとするリディアーヌに対して、魔王は深刻そうな表情を崩さない。
「不思議な契約なのですね」
薔薇に殺される、とは随分とロマンチックな殺され方だとリディアーヌは思った。
同時に、あり得ない荒唐無稽な話だとも思った。
「そのような契約なのだ」
「……え?」
「そのような契約なのだ……」
魔王は苦しげに言葉を失っていく。
リディアーヌも言葉を失った。
重苦しい沈黙だけが部屋に満ちる。
それと同時に薔薇の香りが濃く甘く息苦しいほどに満ちていった。
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薔薇の契約
リディアーヌと魔王の首筋に薔薇が芽吹くのと同時に、屋敷の者も一族郎党も薔薇の内側に引きずり込まれていた。
それを知った時にリディアーヌは驚いたが、それ以上の驚きは彼らの状態だった。
「何も気付いてはいない。いつも通りに過ごしている」
「なんて残酷な……」
リディアーヌは言葉を失った。
彼らはココに居るとは気付かないまま日常を繰り返している。
いつもと同じだと思い込んでいるが、確実に違う。
彼らは体を離れた状態で暮らしているからだ。
体は朽ちることなく保管され、魂だけが暮らしている。
「約束なのだ」
魔王は言う。
「薔薇の契約を結んだのは、魔王と花嫁のみ。他の者は命まではとられない。新しい魔王の誕生を待つだけだ。薔薇の契約を結んだ二人は恋すれば薔薇が芽吹き、愛すれば命を失う。それは魂にまで及び、全ては無に帰す。それがヴェロアン侯爵家と結んだ、魔王との薔薇の契約だ」
「なぜ……そのような残酷な契約を結ばれたのですか?」
魔王は首を振った。
「いまとなっては誰にも分からぬ。魔王は薔薇の契約によって何度か命を落とした。新しい魔王に前任者の記憶はない」
「花嫁は?」
魔王は言葉を選びながら言い淀む。
「花嫁は……最初から、命ごと捧げているようなものだから……」
「そうですよね。もとより、人間ですもの。死にますよね」
リディアーヌは絶望的な気分でつぶやいた。
(ああ、ロザリー。わたくしは、わたくしは、あなたを愛している――)
リディアーヌは目を閉じて、二度とは会えない愛しい少女の姿を思い浮かべた。
そして目を開けて隣に立つ魔王を見上げて悟る。彼のこともまた、愛していると。
(魔王と二人、この世を儚みながら死んでいく。その運命を受け入れられたら。彼のことだけを受け入れて死んでいけると言い切れるのなら。わたくしは、こんなに苦しみはしない。ああ、ロザリー。わたくしは、わたくしは、あなたのことも欲しい――)
魔王がリディアーヌと同じように自分のことを愛してくれていたとしても。
魔王だけを選んで滅んでいく運命など受け入れられないと、リディアーヌは強く感じていた。
(ロザリー。ああ、ロザリー。わたくしの可愛い人。わたくしは、あなたとも幸せに生きたいの。欲張りなのかしら。ええ、きっとそうよ。欲張りなのよね。でも人間なんて欲張りなものよ。欲張りでいいのよ。きっとそうなのよ。わたくしは、わたくしは。魔王だけでなくあなたも欲しいの、ロザリー……)
リディアーヌは突然に降りかかってきて運命を前に、愛しい人への思いが爆発的に募っていくのを感じていた。