魔王
リディアーヌは自分の部屋のベッドの上で膝を抱えていた。
自分の部屋、と言っていいかどうか分からないし。
自分のベッドと言っていいかも分からないが。
彼女に割り当てられた部屋にいるのは確かだ。
本来の自室ならば、いつも綺麗に整えられている白いシーツ。
だけどここのソレは乱れていて、所々にシワがついている。
カーテンは閉じられていて部屋は薄暗い。
ランプの灯りだけがゆらめいていた。
窓の外は暗い。いや、窓の外などない、と言うほうが正しい。
リディアーヌは独りきりで部屋にいる。
どこにも繋がっていない、切り離された場所にいる。
「どうして、こんなことに……」
つぶやいたところで事態が変わるはずもなく。
彼女は独りきり、膝を抱えて泣いた。
涙を流す度に、身体の中の何かが抜けていくような気がする。
それが何なのか分からないけれど、もう何も考えたくないと思わせる何かだった。
(どうして私が、こんな目にあっているの? どうして私がこんな目にあわなければいけないの?)
疑問は彼女の心を苛むけれど、その理由を考えるのも嫌だった。
(なぜ? どうして?)
疑問すらも心に刺さる。
だって、答えは出ている。分かっていて、気付かないふりをしているのだ。
リディアーヌ・ド・ラ・ヴェロアン侯爵令嬢。
それが彼女の名だ。
立場だ。
本来であれば、幸せを約束してくれるはずの立場。
名前。
しかし、それは人間社会であればだ。
人間社会と切り離された先。
人知及ばぬ世界ともなれば、名も爵位も意味など持たない。
ここに囚われているのは、ヴェロアン侯爵家の過去に起因していることなのだ。
リディアーヌ一人の力でどうこうできる話ではない。
遠い昔の約束事だ。それ故に、ここにいる。
分かってはいても、言葉はこぼれてしまう。
「どうして、こんなことに……」
やり場のない絶望に、彼女は再び涙を流した。
その瞬間だった。扉の向こうから、声が聞こえたのは。
「リディ、泣いているのか?」
驚いて顔を上げた。その拍子に、頬を伝う雫が零れた。慌てて拭っても、後から後から出て来る。
「……早く、慣れておくれ」
魔王は低く響く声を紡いだ。
その言葉の意味を理解するより先に扉は開かれた。
鍵を掛けていなかったらしい。
いや、それ以前に魔法で開くようにしていたのかもしれない。
どちらにせよ、彼はリディアーヌの部屋に入って来た。
黒い外套に身を包み、フードを被った男。
彼こそが、魔王。リディアーヌが仕える主だ。
契約により捧げられた花嫁。
それがリディアーヌであり、それによりヴェロアン侯爵家は栄えた。
物事には理由がある。リディアーヌがこうなることは、生まれた時から決まっていた。
それを知ったのが、つい最近のことだったとしても。
「お……おかえりなさいませ、魔王さま」
「ただいま」
魔王は微笑んだ。しかしその笑顔には温かみがない。
冷たい瞳に、冷徹な気配。恐ろしい人だと、震えそうになる。
白過ぎる肌に赤すぎる唇。
血潮すら彼のそれは冷酷を際立たせる飾りに見える。
リディアーヌは震えた。
(来るっ)
今日こそは魔王に取って食われるのではないかとリディアーヌは震えた。
だが、魔王はそれ以上近付いて来ようとしなかった。
いつもそうだ。
まるで一定の距離を保たなければリディアーヌの命が尽きてしまうとでも言うように。
彼は、いつも一定の距離を保っていた。
入り口から少し部屋の中に入っては、そこで立ち止まる。
いまも立ち止まって、コチラを見ている。
彼の後ろでは扉がギギィーと音を立てて再び閉ざされようとしていた。
魔王はリディアーヌに近付いてくることもなければ、出ていく様子もない。
「あ……あの、どうかされましたか?」
ためらいながら聞くリディアーヌに、魔王も慣れぬ様子で言葉を口にする。
「ああ、君の体が、そろそろ手入れして欲しそうにしていたから……」
「ああっ。体っ⁉ えっ、臭くなってたりしました?」
(ああ、恥ずかしいっ!)
リディアーヌはベッドの上から転がり落ちるようにして下りた。
「いや、そういうわけではないのだが……まぁ、人間というのは大変だな」
「すみませーん。急いでお風呂、入ってきます」
「ゆっくり入ってきていいぞ」
「はい」
リディアーヌは慌てて魔王の横を小走りにすり抜けるようにして通り過ぎて部屋を出ていった。
「……君は、まだ私をクロムと、名前で呼んではくれないのだな……」
部屋に一人残された魔王は寂しげにつぶやいた。
そして自分の首筋に手をやる。
そこには、緑の芽が顔を出していた。小さな傷痕のような場所からの、新たな芽吹き。
それの意味するところは、魔王自身がよく知っていた。
「愛というものが、こんな形をしていようとは……」
魔王は美しい眉根を寄せて、苦しげにつぶやいた。