愛の形
愛、というモノがこの世界に実在しているのならば。
それは、どのような形をしているのだろうか?
十七歳の伯爵令嬢であるロザリーは、ふと胸に湧いた疑問に首をかしげた。
茶色の髪がサラサラと彼女の健康的な頬を撫でながる滑り落ちていく。
穏やかな陽気の午後。華やかなティーセットが彩るテーブルを挟んで向かいに座る年若い女性に、ロザリーは話しかけた。
「リディアーヌお姉さま?」
「なぁに? ロザリーさま」
その瞳は美しく透ける金色。
リディアーヌは美しい。
彼女はロザリーを見る時、長い睫毛に縁取られた大きな目を更に大きく開く癖がある。
「リディアーヌお姉さまは……恋をしたことが、ありますか?」
その質問がイジワルなものであることをロザリーは承知していた。
この国で、しかも貴族女性に男性を選ぶ権利など与えられてはいない。
空が一点の曇りもなく晴れ渡り青く広がっていても、暖かな春の日差しが降り注いでいても、その事実に変わりはない。
でも。彼女は不意に聞いてみたくなったのだ。
だからロザリーは、少しだけ年上の彼女に少しだけイジワルな質問をした。
「……えっ?」
リディアーヌは驚いたように目を見開いた。
美しく整った顔が表情で崩れる。
ロザリーは表情で色付くリディアーヌを見るのが好きだった。
ガラスに光があたって煌めくのと同じ魅力を感じるからだ。
ロザリーはウットリしながらリディアーヌを見つめた。
リディアーヌは十八歳。
ロザリーよりも一つ年上の彼女は、近々結婚が決まっている。
その瞳は美しく透ける金色。
髪はもっと濃い金色で、窓から入ってくる日差しを受けてキラキラと輝いていた。
リディアーヌ・ド・ラ・ヴェロアン侯爵令嬢である彼女には義務がある。
若く美しく地位も名誉も財産もある家に生まれながらも、自分で自分の身の振り方を選ぶことなど出来ない。
それはウットリするような美貌をもってしても変えられない。
もっとも自分で自分のことを決められないのは、ロザリーとて同じである。
ドヴァーニュ伯爵の娘であるロザリーは、既に両親を亡くしていた。
地位も財産も女性であるロザリーは引き継ぐことができない。
現在、ドヴァーニュ伯爵家の地位と財産は宙に浮いているような状態になっている。
ロザリーは婚約者であるアーサー・ド・ラ・オーヴェルとの婚姻をもって安定した身分を手に入れることができるのだ。
次男で継ぐべき爵位のないアーサーは、ロザリーとの婚姻を持って伯爵位を得る。
互いに利益のある結婚だ。
ロザリーはアーサーのことも嫌いではない。むしろ好きだ。
アーサーも彼女のことを好いている。貴族にしては珍しい気持ちを伴った関係だ。
彼と結婚することはロザリーにとって幸せなことなのだと、彼女自身が一番よく知っている。
十八歳になったら、ロザリーは彼と結婚するのだ。
幼くして両親を亡くしたロザリーはアーサーの家で育った。
結婚前の今は、アーサーの姉であるエメリーヌの嫁ぎ先であるデュヴァリエ家に身を寄せている。
面倒なことではあるが、結婚前の男女が同じ家に住んでいるのはおかしなことだし、それなりの家の令嬢はそれなりの家から嫁ぐべきだ。
ロザリーとアーサーが継ぐべき家は、今は叔父が管理している。
彼には男爵位が用意されているし、豊かな領地もついてくるから揉めることはない。
ロザリーの結婚には何の憂いもないのだ。
今現在もデュヴァリエ家の人々に良くしてもらっているから、ロザリーに不満はない。
リディアーヌと向かい合い座っている部屋も、デュヴァリエ家の応接室。
使用にあたり文句を言われることはないし、紅茶をはじめリディアーヌをもてなすための手配も抜かりなくしてくれる。
屋敷も気兼ねなく使える状況で暮らしているロザリーは不満を言える立場にない。
いずれ親戚関係になるのだから遠慮は無用、と、いう未来の義姉の言葉にも同感だ。
お世話になった恩は、後からゆっくり返していける。
だからこそ、ありがたく住まわせてもらっているし、遠慮なく寛いで過ごしている。
婚約者であるアーサーにも不満はない。
優しくしてもらっているし、愛されている。そしてロザリーの方も彼を憎からず思っているのだ。
この結婚に不満はない。
不満はないからこそ、複雑な気持ちになる場合もある。
幸せなはずの自分の胸奥に沸き上がってざわめく、この想いは何なのだろうか、と。
「ねぇ、答えてくださいまし。リディアーヌお姉さまは、恋をされたことがありますか?」
「あっ……え、と……」
長いまつ毛に縁どられた大きな目。白く滑らかな肌に薔薇色の頬。
抜けるような白さ際立つリディアーヌの存在をこの世に留める血潮が、ほんのりとピンク色に染めていく。
動いた感情の分だけ紅潮する肌が、目鼻立ちの整ったリディアーヌの顔をより引き立てていた。
彼女は、少し考えるように首を傾げた。滑らかな肌の上を金色の髪が滑る。
金色の髪の隙間から覗いた白い首筋に現れる小さな古傷。
髪で隠れていた傷痕に、生々しさは既にない。
落ち着いた色合いに変わった傷痕は、痛ましさを演出するよりも、むしろ滑らかな肌の美しさを引き立てている。
窓から入ってくる太陽の光を受けて、リディアーヌは透けるように輝く。
白いレースをふんだんに使った艶やかなピンク色のドレスは、彼女の魅力的なラインを強調したり、隠したりしながら、その体を包んでいた。
(綺麗)
ロザリーはリディアーヌの美しさを心の底から讃えた。
そして味わう。
こんなにも美しい人の側に居られる自分は幸せだと思う。
リディアーヌの美しさは、ひるがえって側にいるロザリー自身にも価値があるのではないかと思わせるような何かがあった。
彼女の側にいられる自分には価値がある。それは、ロザリーの自信を支える根幹でもあった。
リディアーヌは目を細めながら微笑んだ。花びらのような唇が開く。
「……あるわ」
「えっ?」
鈴を転がすように響いていく声が伝える答えは、ロザリーの意表を突いた。
「恋をしたことなら……あるわ」
金色の瞳が、ロザリーを捕らえる。今度はロザリー自身が探られる番なのだ。
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(リディアーヌお姉さま……)
ロザリーの胸がトクンと高鳴り、少し焼けた健康的な肌が赤く染まる。リディアーヌの視線が、ロザリーの茶色の髪と瞳に注がれた。
(今日の服装は、大丈夫かしら。お姉さまに、見苦しい子と思われたくない ――)
彼女の不安は実際のところ杞憂でしかない。細かな刺繍の入った茶色地のドレスは、清楚な魅力を引き立てている。
長い髪を高く結い上げ、毛先は縦にカールをつけて肩に緩く下ろしたヘアスタイルも、ロザリーによく似合っていた。
茶色の髪にはリディアーヌほどの華やかさは無かったが、よく手入れされていて美しい。
花開く前のつぼみが持つ初々しさ。それがロザリーの魅力となって溢れていた。
大きく開かれた窓からは五月の風が入り込みカーテンが揺れる。
風は、ふたりの乙女の髪を弄ぶと香りだけを残して消えた。
濃い薔薇の香りが満ちた客間には、栄華を誇る家らしい高級な調度品が並べられている。
しかし、リディアーヌ以上に輝きのあるものなどそこには無かった。
(ああ、お姉さま)
ロザリーの胸が騒ぐ。けれど。ふと気付いて我に返って視線を床に落とす。
毛足の長い絨毯の先にある、リディアーヌの足元。
繊細なレースに控えめに輝く金糸の刺繍が、彼女の美意識の高さを感じさせた。
美しさを愛する心は、精神面にまで及ぶ。彼女は、淑女なのだ。
(お姉さまには、婚約者がいらっしゃるのよ)
リディアーヌには、生まれてた時から決められた結婚相手がいる。そして、結婚の時期は近い。
その方はきっと、彼女に相応しい紳士。優しくて、知的で……そんな男性をロザリーは想像した。
また、その想像が全て外れたとしても、リディアーヌは受け入れるだろう。
彼女は、淑女なのだ。
リディアーヌの美しさは外見だけの底の浅いものではないことを、ロザリーが一番知っている。
ロザリーは彼女の一番の理解者であり、崇拝者であると自覚していた。
だが。貴族女性にとって結婚とは――――
(お姉さまが結婚してしまわれたら、こうして会う機会も減ってしまう)
それはイヤだ、と、いう思いが心の底から湧いてきてロザリーの気持ちを乱した。
リディアーヌの結婚は喜ばしいことだ。祝福すべきだ。なのに、ロザリーは素直に祝福できない自分に気付いてしまった。
「ロザリーさま? どうかしましたか?」
リディアーヌの声が降ってくる。耳に心地よい声が。ロザリーは、慌てて笑顔を作って顔を上げた。
(お姉さまに結婚して欲しくない、なんて。罪深く、意地悪な考えだわ。浅はかで根性悪な子だなんて思われたくない。お姉さまに、嫌われてしまう。大好きな、お姉さまに)
「いいえ、なんでもありませんわ」
ロザリーは笑って見せた。リディアーヌは一瞬だけ不思議そうな顔をして。いつも通りの華やかな笑みを浮かべた。
リディアーヌは軽やかに立ち上がり、ロザリーに向かって手を差しだすと、蕩けさせる声と笑顔と、その存在の全てで誘う。
「ねぇ。踊りましょう。ロザリー」
「……えっ?」
キョトンとするロザリーを見て、リディアーヌは笑った。
「ふふ。わたくしたち、少しは練習をしなければいけないと思うの」
「えっ?……ええ、そうですわね?」
「結婚をしたら社交も本格的なものになるわ。これからは、踊る機会も増えるわよ」
「ええ。そうですわね。お姉さま」
ロザリーは元気よく立ち上がるとリディアーヌの手を取った。
細く優雅な指先が、ロザリーの手を包む。柔らかな温かさが肌を通して伝わってくる。
ロザリーは、それだけで幸せな気分になれた。
「では、お姉さまのお相手。勤めさせていただきますわ!」
満面の笑みで言う彼女に、リディアーヌもまた幸せそうに微笑んだ。
音楽を、と使用人に命じれば、ほどなく古い蓄音機が曲を奏でだす。
ロザリーとリディアーヌは応接室の物が置かれていない小さなスペースのなかで、音楽に合わせてゆっくりと踊り出す。
リディアーヌはロザリーの歩幅に合わせて静かに、確実にステップを踏んでいく。
対してロザリーは、少しぎこちない。それでも、リディアーヌとのダンスは彼女を天国へと連れていってくれた。
「少しの間に上手になったわね、ロザリーさま」
「本当ですか⁉ 嬉しいです! お姉さま!!」
無邪気に喜ぶロザリーの姿に、リディアーヌの心は暖まる。
(ロザリー……私の愛しい人)
彼女は太陽のようにまぶしい笑顔をリディアーヌに向けてくれる。
侯爵令嬢であり社交界の華と呼ばれ、いわくつきの家系であるがゆえに遠巻きにされるリディアーヌに、ただ一人無邪気な笑顔を向けてくれた存在。
それがロザリーだ。
こんな時間が続いてくれたらいいのに、と、リディアーヌは思った。
こんな時間が続いてくれたらいいのに、と、ロザリーは願った。
だが運命は、それを許してはくれないことを二人は知っていた。