これがスピード婚ってやつね
人間、限界を超えると何するか分からない。それを今、実感している。やけに冷静な頭で判断を下すのは、一周回って落ち着いたからだろうか。
私、南井奈々。現在ベッドの上である。……裸なう。
そして右隣には知らない男の頭。ぺらりと布団をめくり、そっと下ろす。こちらも裸なう。
オーケーオーケー落ち着けー、私は冷静沈着、無問題。
昨日の記憶は……うん、あるわ。それはもうばっちりと。多分酔っていたんだと思うけど全部ハッキリキッカリ明確に覚える。願わくば酒に溺れて全部忘れてしまえればいいのに、とか思っていたけどそうは問屋が卸さない。
ていうか、この状況に関しては忘れてしまったらヤバイ気がする。うん、覚えていて良かったー。現実逃避は時には大事だよね。
南井奈々、23歳派遣社員。20歳から実家を離れて単身赴任中。仕事内容は派遣先によってちょくちょく変わる。そう、三年働いたのだ。頑張った。本当に。
夢もやりたいこともなかった。将来もキャリアプランも何もなかった。バイトもしたことなかったし、一人暮らしもしたことなかった。20歳まで親の金で生きていた。
最初は良かった。仕事はこんなもんだって不満は特になかったし、一人暮らしも喜楽で楽しかった。楽観的な性格も功を奏したのだろう。一人が寂しいとか悲しいとかそんな気持ちは全くといっていいほど湧かなかった。
親とは不仲ではない。引っ越し先は決まって他県だったが月に一度は会っていた。実家に帰省したり親が遊びに来たり、旅行に行ったりと内容は様々だ。一人が好きだが家族といるのが嫌いというわけではない。逆に、拠点が増えて活動範囲が広がったと喜んだほどだ。
一人暮らしでもお金に困ることはなかった。それどころか確実に貯まっていった。物欲がないから無駄遣いをしようにも出来なかった。欲しい物はなく、かといって要らないものを買って無理に物を増やす気もなかった。変に何かを買って引っ越し時の荷物を増やすのも嫌だった。
面倒ぐさがりの怠惰なもので生活は必要最低限で済ませていた。家電も家具も最小限。食に興味もないからレンジだけで基本食事面はまかなえていた。食べたいものが出来たら外食すればいいのだから。調理器具は何もなく、レンチンで済むのを買っていた。
衣服に興味がなく、化粧っ気もなく、美容にも無関心。趣味はゲームや漫画を読んだり、ウォーキングをするぐらいだ。ゲームといっても基本無料のアプリゲームだし漫画も無料のものを読み漁る。ウォーキングなんてもってのほかで、趣味事に殆どお金はかからない。
これが実家で働ける仕事だったら今より貯金は多かったのだろうが後の祭りだ。今さらだ。かもしかも仮定の話も考えるだけ無駄だ。だって終わった時間で変えようがない過去だから。それについてあれこれ考えたって無意味なことだ。
仕事はずっと辞めたいと思っていた。思い始めたのは最初の派遣先が終業したときだ。夜勤もあってか新卒にしては稼ぎがいい働き先だった。仕事内容も難しくなく、そこの会社も緩い雰囲気で働きやすかった。そして最後の日に別の派遣会社の派遣社員の方とたまたま給料の話になった。そのとき、知ってしまった。自分と他の人の給料が全然違った。その額およそ数万。少なくはない金額を取られていたのだ。自分の派遣先はどうやらなかなかに詐欺だったようだ。
それを知って退職すればよかったと今でも思う。新卒で同じ派遣先だった同期の子は一年も経たずに退職したと人伝に聞いた。私は、辞めなかった。働き初めに新卒の退職率は高いと聞いて、せめて三年は続けようと決意した。……してしまった。それを守ってか、今までズルズルと来てしまった。
それからずっと頭の隅に退職の二文字がひっそりと、だが確かに存在していた。仕事に不満があるわけではない。人間関係に問題があるわけでもない。ただ忽然と辞めたいと思ったのだ。大層な理由は、ない。引っ越しやら初めての業務で大変だけど泣くほど辛いということはない。
ただ、ただ、疲れたんだと思う。
自分でも分からない。気楽に楽しく生きていけたらいいと人生甘く考えていた。ほどほどに働いて無理ない程度に生活出来ればいいと……。人生なるようになると、本当にそう思っていた。ポジティブに日々を楽しく生きようって。
その思考は高校生からあった。全部が嫌になった。学校も他人も生きることでさえも全部全部全部! 他人に関わりたくなくて一匹狼のように他人を避けて、食欲がなくて食べることにも面倒になって、生きる活力もなかった。鬱になっていたと思う。だから高校生活は黒も真っ黒、暗黒な黒歴史だ。笑って話せる黒歴史。
だから心臓に毛が生えているとか何があっても生きていけるとか言われても、深層心理には大きな深い闇は抱えていた。それは奥底に根を張って表には出なくても少しずつ、身体を心を侵蝕していった。考えないようにしていた。大丈夫、まだ大丈夫だと、自分に暗示のようなものを無意識にかけていた。ノートに毎日「死にたい」と何回も何回も書いて、夢やふとした時に自分が死ぬ想像をする。それは明らかに大丈夫の範疇ではなかったけれど、彼女にとっては『大丈夫』だった。
閑話休題。
現実逃避は時と場所を考えて行おう。TPOは大事だよってね。私の過去は別にいいんだ、どうでも。大事なのは今! これからのことを考えて生きていこー。
さて、今差し迫った問題は二つ。どうやって会社を退職するか。そして謎の男(笑)をどうしようか。一個ずつ考えて行こう。うん。
まず、退職。現在三年を迎え切りよく終業した。次の就業先は決めずにあとは退職願を出すだけというところまで来ている。そう、退職願を出すだけでいいのだ。だが何を思ったのか、普通に退職するのは味気ないと考えてしまっている。本当に、自分でも馬鹿なのではないかと思うわ。この性格どうにかして。
次に、隣の男性。名前は知らない。年齢も知らない。職業も知らない。つまり、何も知らないのだ! いや、違うな。何も、ではない。知ってるのは……声と体温。…………それだけって逆にヤバくね?
いやーここまでくると笑えるね。一夜の過ちって本当に存在するんだ。創作だけの話だと思っていたぜー。……ふう。昨日の記憶を辿る。
どうやって退職しようか考えていた時、私は居酒屋に行った。初の居酒屋だ。酒を最後に飲んだのは成人式の日の同窓会だ。特にお酒を美味しいとは感じず、飲む必要も感じなかった。だから久しぶりの酒。前々からやってみたかった飲み比べ。ワインとかビールとかいろんな種類の酒を注文して飲んだ。限界とか知らない。そこまで飲んでこなかったから。飲み会もなかったしね。
それで……いつの間にかこの男がいた、気がする。他人に興味がない私は勿論恋の一つもしたことがない。友人も少ない。社会人になってからは一人でいるか家族でいるかしかなかった。学生時代の友人とは連絡すら取っていないし、新しい友人など存在しなかった。
私がウザ絡みしたのか、はたまた彼がナンパしたのか、定かではないがなんだかんだあって一緒にいたらしい。記憶はあっても覚えているとは限らない。興味がないことは寝れば忘れるのだー!
スマホを見て、黙る。写真フォルダの左上、一番新しい写真には紙の上に二人分の左手が映っている。その写真には婚姻届と書いてあって自分の名前と恐らくこの男性の名前が書いてある。……猪飼弥太郎。これがこの人の名前か。そして光に反射して光る銀色。左手薬指に輝くは銀の指輪。小さな宝石がはまっている。シンプルなものだが主張しない華やかさがある。
書類はすでに役所に提出してしまって受理されている。つまりは私とこの男は夫婦なわけである。実感ねぇ~。ちなみに婚姻届は私の所持品で指輪は男の所持品だ。何故こんなものを持ち歩いているんだろうとは私も言えない。何か持っていた、とでも言っておこうか。
そして机の上には離婚届。こちらも勿論記入済み。役所に出してしまえば離婚して晴れてバツイチとなるだろう。
……なんでこんなことになったのか、私には分からない。彼だったら分かるのかな。寝ているから聞けないけど。今日は月曜日。今日も仕事だ。終業したから待機だけど。現時刻は6時。ここがどこか分からないけど家に帰って落ち着いてから退職届出そう。寿退社っていう面白可笑しな理由が出来てしまったからね。
結婚とか考えたことなかった。好い人なんてできたことなかったから。恋というものがどんなものか分からない。他人に興味がないから。恋愛のれの字も知らない。してみたいと思ったこともないけど。
身支度してスマホで地図を開く。家からはそう遠くはないみたいでほっとした。いまだ起きない男に小さく「さよなら」と告げて部屋を出る。勿論離婚届を持って。
無事、今の会社は退職した。そして荷物を纏めて引っ越し準備をする。荷物は多くないからそんなに時間はかからずすぐに終わる。役所に行って書類を提出する。……一日を経たずしてバツイチか。
何の感情も湧かない。結婚したからといって何かがあるわけではないし離婚も同義だ。酔っていても頭は冷静な部分が働いていたのかな。じゃないと婚姻とかしないだろうし。――まあもうなんでもいいか。
「さーてこれから忙しくなるぞー」
退職してからの生活は考えていた。アパートを解約して実家に帰る。暫くは働かないでゆっくりする。そんで実家の近くの就職する。うん、完璧!
「利用するようでごめんね、猪飼弥太郎さん。夜遊びもほどほどにしないと痛い目見るよ。ま、私に言えた義理はないけど。これも人生経験ってことで」
綺麗な夕空に向かって呟く。周りには誰もいない。私は清々しい気持ちで車に向かった。あー明日から楽しみだな~。