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悪魔が語る体外授精児

作者: 坂口正之

 八十才を超え、もう患者など診ることのなくなった老医師である私は、自宅の応接間で若い二人を前にして、二十数年前のことを思い出していた。

 あの二十数年前のことは、昨日のことのようにしっかりと覚えている。まさかそれが繰り返されるとは思わなかったが、今日と全く同じ状況だった。

 さらに、その元となった五十年以上前のことの記憶を辿れば、これも鮮明に思い出すことが出来た。

 とにかく、二十数年前の話をしようではないか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 当時、私はある医科大学の産婦人科教授だった。

 教授室の古めかしい応接セットには、どことなく正義感に溢れ血気盛りに見える男と清楚で家柄の良さそうなお嬢さんの二人がいた。

 その若者は言った。

「僕たちは、近々結婚することになっています。今日、先生を訪ねて来たのは他でもありません。僕の出生についてぜひ聞かせてほしいと…。回りくどい言い方は止めますが、僕も彼女も体外授精児なのです。それもちょうど同じ頃、そう二人の誕生日は五日と離れていませんが、この大学病院で生まれているのです。体外授精児と言っても僕の場合は、母の子じゃないのです。いわゆる他人から卵子の提供を受けて母が産んだのです。つまり、戸籍上の母は、他人の受精卵をもらって妊娠して僕を産んだのです。そして、その時の主治医が先生と聞いています」

「もちろん、私は若い頃からずっとこの病院で不妊治療をやってきたし、体外授精による治療も多く手掛けてきたが、君がその時の体外授精児かどうは覚えていないし、直ぐには分からない」

 私は、事務的にそう答えた。

「母から聞きました。村山と名乗れば先生は必ず覚えているはずだと…。なぜなら、当時も今も、他人の卵子を使った体外授精児の妊娠、出産は倫理規程により禁止されていて、それを承知で先生に無理に頼んで生ませてもらった子だし、先生はその時随分悩んでいる様子で、何度も何度も、本当にそれで良いのか、後悔しないのか聞いていたから、絶対に覚えているはずだと…。話を少し戻しますが、母は先天的に卵巣に異常があって妊娠できない体でした。それと、父にも問題があって無精子症だったのです。排卵の無い母親と無精子症の父親ですから、その組み合わせがまるで宝くじに当たるような希な確率なのかどうか分かりませんが、とにかくそのままでは、絶対に子供なんかできっこない状況だったのです。でも、母は他人の受精卵を使えば妊娠が可能でした。両親は、どうしても子供が欲しかったのです。もちろん、養子をもらうことも考えたそうですが、やっぱり、母親は自分のおなかを痛めて産んで、一から育てることにより愛情を注ぎ込みたいと考えたのです」

 私は、村山と言う名を聞いて、即座に思い出していた。いや、思い出したというより、ずっと忘れられなかったというのが本当のところかもしれない。

 このような日が絶対に来ないとは思っていなかったものの、まさか、その日になろうとは思いもよらなかった。

 とにかく、彼の話を聞きながら自分の焦りに気付かれないよう、冷静を装って言った。

「それで…、君が聞きたいのは?」

「僕の本当の父と母は誰なのかということなのです…」

「村山君とか言ったよね、君の今の話は誰から聞いた話なのかね?」

「母からです」

「ほう…、そのお母さんは、今はどうして?」

「昨年、癌で亡くなりました」

「それは、残念なことに…。お父さんは?」

「僕が高校二年の時に交通事故で亡くなりました。この話は、母が病床で最後に話してくれたことなのです」

 両親とも亡くなったと聞いて、やや安心した私は、落ち着いて話し始めた。

「村山君、君がこの病院で産まれた体外授精児かどうか今の私には分からない。しかし、君も知っていると思うが、人工受精児、つまり体外授精児とは少し違って、父親側に問題がある場合に他人の精子をもらって、妊娠、出産する場合だが、この場合も本当の父親は絶対に明かさないことになっている。母親に対しても父親に対しても、もちろん生まれた本人に対してもだ。それと、精子の提供者にも明かさない。これは絶対だ。万が一、君のお母さんが、他人の受精卵をもらって君を産んでいたとしても、受精卵の提供者、つまり真の父親と母親は絶対に明かさないという約束のもとで、その治療が行われたのではないかね。君も考えれば分かると思うが、大きくなったその子が本当の父親や母親を知ったらどうなると思うかね。会ってみたいと思うのが人の心理だろう。それで、もし、会うとどうなると思う。これまで、普通に生活していた人にとって、突然知らない息子や娘が目の前に現れたら…。その逆も問題だ。突然に本当の父や母が現れたら、それこそ、色々なトラブルが予想される。だから、本当の父親や母親なんて明かさないし、絶対に明かしてはいけないんだよ…」

「分かっていますよ! そんなこと…。普通なら明かさないことを。でも、僕たちの場合は、特別なんですよ!」

 村山は怒鳴るように言うと、握り拳で応接テーブルを叩いた。テーブルの端に寄せてあったステンレス製の安っぽい灰皿がカタカタと小刻みな音を立てて振動した。

「はっきり言いますよ。僕たちが心配しているのは、僕とメグミが兄妹じゃないかということなんですよ。もし、僕とメグミが兄妹だったら結婚できないことになるんですよ!」

「…」

「もう少し詳しく言いましょう。さっき言ったように、僕もメグミも体外授精児です。僕の両親もメグミの両親も、今から二十六年前にこの病院で不妊治療を受けていました。そうして、どちらの両親も体外授精を選択しました。それも、同じ時期に…。メグミの母親は卵管が閉塞した病気でしたから、僕の母の場合と違って卵子の採取が可能でした。また、メグミの父親には、何の異常もありませんでしたから、実の母親の卵子と実の父親の精子を使って体外授精させ、受精卵をまたメグミの母親の子宮に戻した訳ですから全く問題はありません。しかし、問題は僕の方なのです。僕は他人の卵子と精子なのです。ここで心配なのは、誰の卵子と精子を使ったのだろうということなのです。精子はともかく、卵子の採取はそんなに簡単なものじゃないと聞いています。腹腔鏡を用いて採取するので、母親にも相当な影響を与えるし、ひょっとしたらそのせいで後遺症が残る可能性も全くゼロとは言えない。そもそも、今から二十数年も前にそんな卵子の採取にボランティアで協力する奇特な女性がいたのかということなのです。ところが、一方で体外授精の治療を受ける時は、卵子の採取は一つだけということはないのです。排卵誘発剤を飲んで、一度に何個か採取して精子と授精させ、受精卵の細胞分裂が始まったことを確認して、その内の一つだけを子宮に戻すのです。ということは、何個かの受精卵は余ってしまいます」

「村山君、驚いたよ…。君は随分勉強しているんだね?」

 私は、顔色一つ変えずに言ったつもりである。

「当たり前ですよ…。僕とメグミが結婚出来るかどうかにかかっているんですから…」

「君の推測はこうだ。つまり、メグミさんの両親の余った受精卵を君のお母さんの子宮に着床させたのではないか。その理由は、自分の体を傷付けてまで卵子を提供する奇特な女性はいないだろうし、当時、たまたま余った受精卵があったじゃないか。言い方が悪いが、きっとそれを転用したのではないかと…」

「そうです、その通りです。もし、そうだとすれば、僕とメグミは兄妹になってしまいます」

「君達は、どうして知り合ったのか教えてくれるかね?」

 私は、体外授精児どうしが愛し合うことになった理由を知りたかった。

そのような確率はゼロではないことは分かっているものの、現実にどうして起こり得たのか知りたかったのである。

「僕とメグミの母親がこの病院で僕らを産んだ時、同じ病室で仲良くなったのです。もちろん、二人とも体外授精で子供を生んだなんてことは言いませんから、そのことはお互い知らなかったのですが…。でも、もし、最初からそれを知っていれば仲良くならなかったのかもしれません。お互いの家がそれ程遠くなかったので、僕たちがまだ赤ちゃんの頃から随分行き来したり、一緒に旅行に行ったりしたのです。その付き合いはずっと続きました。そのうち、知らず知らずのうちに僕とメグミは互いに引かれ、愛し合うように…。先生…、本当のことを教えてください」

「ふう…」

 私は、思わず大きな溜め息をついて、二人を交互に見詰めた。

「もし、君達二人が兄妹だったらどうするのかね?」

「分かりません…。戸籍の上では他人ですから結婚は出来ます。でも、障害児の発生の確率を考えると子供は作れません。でも、それ以上に実の兄妹が愛し合っているなんて、精神的にとても耐えられません。まして、もうメグミを抱くなんて…」

「メグミさんは?」

 極めて淑やかで清楚に見える彼女は、うつむいたまま初めて口を開いた。

「私は…、彼のことがとっても好きですし、このまま結婚できるのなら…。もちろん、兄妹だったら子供は…。でも、実の兄妹だということで彼が私に対して…、そんな思いを…」

彼女の水色のスカートの上に、大粒の涙が続いて落ちて吸い込まれていった。

 私は、何と答えて良いのか言葉を失った。そして、十数秒の沈黙のあと、おもむろに口を開いた。

「村山君、君のお母さんのことは良く覚えていますよ。もちろん、お父さんも。メグミさんは、クボタメグミさんでしょう。クボタさんのご両親も良く覚えていますよ。二人とも私の手で体外授精により産まれたことに間違いありません。りっぱに成長されて、直接お会い出来て本当に嬉しいですよ。産婦人科医として、こんなに喜ばしいことはありません。さて、問題の村山君の件ですが、実は他人の受精卵を使うに際して、村山君のご両親が大変気にされていたことがあるのです。それは、まさに村山君が言っているようなことが起こらないかということなのです。つまり、子供が成長して、知らないうちに血縁者と愛し合うようなことにならないか、あまりにもそれはかわいそうで、悲劇だから、それだけは、何とか避けるようにしてくれないかと、それはそれは、切にお願いされました。でも、私としてもこれには大変困ってしまいました。実の親を明かすことが出来ない一方で、絶対に血縁者と愛し合うようなことにならないよう、それは、隕石に当たる程の小さい確率かもしれませんが、どうやったら保証できるのかと。例えば、地域的に遠く離れて、出会うようなことが考えられないような人の卵子や精子を使うとか…。でも、海外にまで目を向ければそれは大丈夫かもしれませんが、生まれてきた子の髪が金髪だったり、目が青かったりしたら困ってしまいます。それに、村山君が言ったようにボランティアで自分の体を傷付けてまで卵子を提供する人はいませんでした。今だったら、それ相当のお金を払えば提供者はいると思いますが…。では、どうしたら良いのか? どうしたら村山君のご両親の願いをかなえてあげられるのか? 私は、悩みに悩みました。そして、諦めかけていた時、あることに気が付いたのです。でも、それは、村山君のご両親には言えませんでした。ただ、絶対に、『近い血縁者とは愛し合うようなことにならない』から、私を信じてくれ、私に全てを任せてくれ、と言うだけでした。ご両親も、本当に実の親を教えてもらえるなんて思っていませんから、それ以上は聞かず、私のその言葉を信じて君を身籠もったのです。結論だけを言いましょう。お二人は、兄妹でもなければ血縁関係でもありません。安心してご結婚できます」

「そんな…、そんな簡単にそう言われても…」

 彼は、不満げにつぶやいた。

「だから、大丈夫です。子供を作られてまったく問題ありません。私が保証します」

「信じろと言われても、ちゃんとした説明もなく…」

「本当のご両親を明かさないのが鉄則です。これは、医師として絶対に遵守しなければならないのです」

「いいかげんにしてくださいよ、人をバカにするのも!」

 再び彼の右手が大きく振り下ろされ、テーブルを強く叩いた。テーブルが飛び上がると灰皿が跳ね飛び、床に転がった。

「信じろと言われたって、そんなんじゃ心のわだかまりは取れませんよ! 絶対に血縁関係じゃないと断言できるのだったら、個人名はともかく、その理由とか、もうちょっと具体的なことを言ったらどうなんですか! とても疑わしいことは事実なんですよ。あなた方医者は、患者のことを本当に考えているんですか。単に病気が治ればいいとか、不妊症の人が妊娠すればいいとか…。上辺だけでなく患者の心まで考えているんですか。どうなんですか!」

 彼は、大声で捲し立てた。

「ふう…」

 私は、再び大きなため息をついた。

 その時、一瞬私が何を考えたのか分からない。もし、本当に二人の幸福を考えていたならば、その事実は話さなかったのだろう。

 私の心の底に住み着いていた悪魔が、突然、二十数年ぶりに再び私を蝕み始めたのである。

『おう、おう村上、偉そうなこと言ってくれるじゃないか。本当のことを言えだと? 言ってやろうか、言いたいのはこっちの方なんだよ! お前のために我慢しているのが分からないのかよ!』

 私は、いつの間にか静かに口を開いていた。

「分かりました。それ程聞きたいのならお話しましょう。ただし、君が言うように個人名は出しません。なぜ、二人が近い血縁者ではないかにだけ絞ってお話しましょう。何度も言うように、卵子を提供するボランティアはいませんでした。じゃ、どうやって卵子を探したか? 一つ方法がありました。それは亡くなった人から採取するのです。でも、亡くなった女性から採ると言っても現実には無理なのです。死体を勝手に傷付けることはできませんし、遺族が承諾する訳がありません。だとしたら、もう残された道はないのか? それが、あったのです。自由に卵子を採取できる道が…、全くの盲点でした。我々産婦人科医が毎日のように扱っていたものでした…」

 私は、一瞬言葉を止めて彼を見詰めた。

「それは…、妊娠中絶児。そう女の堕胎児でした。堕胎児でも既におなかの中に卵子を持っているのです。それが使えないものか研究を始めました。いざ、その卵子を取り出して実験してみると、それ程難しくもなく受精卵が出来たのです。まさか、そんなに簡単に出来るとは、私も思いませんでした。しかし、これは私にとってもう一つの苦悩の始まりでした。そもそも、堕胎児を使ってそんなことをして良いのか、医師の倫理として、いや人間の倫理として、その様なことをして良いのか。研究をすることさえも罪悪感にさいなまされ続けました。もちろん、この研究成果自体大変なことと思いましたが、当然どこにも発表できませんでした。結局、その成果は、君のお母さんに対して使ってしまったのです。君のご両親から言われた、『絶対に近い血縁者とは愛し合うようなことにならない』ことを担保するという大義名分によって正当化されて…。考えてみてください。この場合、生まれてきた子の母親はこの世に生を受けていない訳ですから、兄弟は絶対に存在しないのです。これだけでも懸念していることが起こる可能性は、ぐっと低くなります」

 私は、彼の顔を見上げた。彼の顔は青ざめ、唇だけが小刻みに震えていた。

「うそだ…」

「本当です。いまさら嘘を言ってもしょうがないでしょう。君の本当のお母さんは、この世に生を受けていないし、戸籍もなければ、その存在の証拠さえもありません。信じられないかもしれませんが、そうなのです。もう一つ、君のお父さんについてもお話しておかなければなりません」

 私は、今度はメグミさんの方を見た。彼女は、ただうつむいたままであり、どの様な表情なのが私には分からなかった。

「私は、君の父親の選択に関しても医師としての倫理を超えてしまいました。それは、既にこの世にいない人の精子を使ってしまったのです…」

「それは、どういうこと…?」

「この大学病院では、昔から人工授精による不妊治療が行われていて、数多くの人の精子が保存されているのです。精子は適切に冷凍保存さえすれば、半永久的に保存可能なのです。君のご両親からその条件を提示された結果、私の出した結論はこうです。堕胎児の卵子とともに、既に亡くなっている人の精子を使えば良いではないか。それも、独身でこれまで子供のいない男性の精子を使えば良いではないか。そうすれば、兄弟の存在は有り得ない、でした。精子の冷凍保存庫を調べたところ、それに合致する精子がありました。もう、十年以上も前に採取されたもので、採取者は不慮の事故で八年前に亡くなっていました。通常ならそれは廃棄されるところでしたが、整理が悪く残っていたのです。つまり、君の兄弟はもちろん、異母兄弟も異父兄弟も有り得ないのです。さらに、卵子を採取した堕胎児は、生まれてくることが望まれなかった不義の子ですから堕胎児の兄弟も有り得ません。すなわち、君にとって母方の叔父や叔母も有り得ないということなのです」

 私がこう言って再び彼を見上げた時、彼は私を見詰めているようだったが、その視点はとても合っているようには思われなかった。

「お分かりでしょうか? これでよろしいでしょうか? あなた方二人は、兄妹でもなければ、近い血縁者でもないということが…、安心してご結婚されてください」

「うそだ、うそだ…、そんなのうそに決まっている!」

 彼は、大声で怒鳴った。

「僕の実の母が、この世に生まれてくることが望まれなかった堕胎児で、父が僕の生まれる八年も前に死んでいたなんて…、そんなことが信じられるものか…。うそに決まっている。やっぱり、僕とメグミは兄妹なんだ…」

 彼は、頭を抱えて応接テーブルに頭を打ち付けた。

 その時、私の心の中の悪魔は、彼を見下ろしながらこうつぶやいた。

『おい、おい、真実をあれほど聞きたいと言って元気が良かったのは誰なんだね。お望みどおり本当のことを聞かせてやったよ。これで安心してメグミと結婚するんだね。末永く二人で幸せになってくれよ…。おおっ、どうしたんだ…、今度はメグミと兄妹になりたいのかい。どっちなんだよ…。どうしようもないな、君は人間がまだまだできていないよ。真実は、真実として謙虚に受け入れないと…』


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 それから一週間後だった。

 私のもとに再びメグミが訪ねてきた。今度は、彼女一人だけだった。

 同じようにテーブルの向こうに座ると言った。

「先生、お願いがあるのですが…」

「どうされました?」

「実は私、妊娠しているのです。彼の子を…、四か月になります…」

「それは、おめでとうございます」

「それが…、私。産みたくないのです…」

「えっ、なぜ?」

「先日、先生のお話を聞いて怖くなってきたのです。生まれてくることが望まれなかった堕胎児の子のさらにその子がおなかの中にいるのかと思うと、その怨念というか、呪いが、だんだんとおなかの中で育っているようで…、もう、たまらないのです…」

「大丈夫ですよ。彼は全く普通の人ではないですか。おなかの中の彼の子も全く普通ですよ。気になさることはありませんよ」

「いいえ、もう耐えられないのです…。お願いです先生、何とかしてください」

「どうしろと…」

「堕してください…」

「堕すと言っても…、彼はなんと言って…?」

「彼は、あれ以来おかしくなってしまいました。先生からの話を聞いてから自分の部屋に閉じ籠ったきり出てきません。私が行って何度も声をかけても、うるさい、あっちへ行け、と怒鳴った声が返ってくるだけなんです。あんな彼は、これまで見たことがありません」

「彼は、あなたが妊娠していることを知っているのですか?」

「知っています。その時はとっても喜んでくれたのですが…。それもあって、先日、先生のところに二人で訪ねたのです」

「そうなのですか…、そんなことは全く知らず…」

「いいんです。言わなかったのはこちらですから…。彼は、部屋の中から怒鳴るんです。そんな子供堕しちまえ! お前は気持ち悪くないのか! 呪いと怨念がこもっているんだぞって…」

「…」

「先生、お願いします」

「結婚はされるのですか?」

「もう出来ないかもしれません、彼が元にもどっても…」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 これが、二十数年前のことだった。

 今、老いぼれた私の前には、同じように結婚を目前にしたカップルがいる。やはり、どことなく正義感に溢れた若者と清楚なお嬢さんだ。

 その若者は、話を続けている。

「実は、僕も彼女も体外授精児なのです…。体外授精児と言っても僕の場合は、母の子じゃないのです…。先生の治療によって妊娠出産した…」

 その時、私の心の中に住み着いている悪魔が、再び二十数年ぶりに目を覚まし、囁き始めた。

『おいおい、真実を聞きたいのかい? 本当に言っていいのかい? 言ってやろうか? お前の母親は堕胎児で、母方の祖父は気が狂れて自殺しちまったって…。いいのかい、そんな話を聞いても…。ついでに、その狂った祖父の母親も堕胎児だったなんて…。まあ、いいか…。祖父の母親の話まで聞いたって、そんな話ややこしくて理解できないよな。ところで、そこのお嬢さん、あなたは妊娠しているよね、間違いなく…。私には分かるんだよ…。でも、三日も経てば中絶したくなるから、またおいで…。もう、老いぼれの私にはそんな堕胎手術なんか出来ないから、いい先生を紹介してあげるよ…。でもその時は…、もし、堕胎児が女の子だったら卵子だけは大切に預かるからね…』

 そんな悪魔の囁きは、いつまでも私の耳に聞こえていた。

(おわり)

バイオ、医学の技術の発展スピードは目覚ましく、羊や牛(人間も?)といった哺乳類でのクローン化が成功しているように、この小説のような話は、全くの作り話ではないような状況になりつつあります。今回のネタも、現実にはそれほど突拍子も無いことではなく、技術的に可能ではないかと言われていることだそうです。

余談ですが、女性の卵子は既に胎児の時に全て作られており、その後、成人してから基本的に毎月一つずつ排卵されます。ダウン症(染色体異常の一種です)などの遺伝子疾患の発生確率は高齢出産になるほど増加するのですが、なぜ、高齢出産になるほど発症確率が上がるのかと言うと、胎児の時に卵子が作られてからの経過時間が長くなるので、それだけ染色体異常などを発生する確率が高くなるとのことです。つまり、染色体異常のリスクは、毎日のリスクの時間に対する積分値になるということなのです。

一方、男性の精子は、卵子と違って毎日(常時)作られるため、男性の方が高齢になってもダウン症などの発生確率は上昇しないとのことです。

それで、ネタがネタだけに、小説としてどのようにオチを付けるのか悩み、結局、今回はホラーチックに書くことになってしまいました。

徹底的にホラーにするなら、胎児がおなかの中で育っていくに従って、異常な現象や怖いことが次々に起き、とうとう最後の出産では…。とかするのですが、とてもホラー小説など書けませんので、いつものマンネリパターンで終わせることにいたしました。

ところで、人工受精(体外授精ではありません。人工受精とは他人などの精子で母親の体内で受精させるもの)による妊娠、出産の倫理問題は昔から議論されているところで、小説の中で取り上げた「血縁者との結婚問題」は、ほとんどゼロに近い確率であることは十分に予想されますが、時折指摘されているところです。

もちろん、狭い地域社会なら有り得ないこともありませんが、小説では、土屋隆夫氏の推理小説「不安な産声」などで使われています。

今回の作品の特徴は、珍しく第一人称で書いてみたことで、また、最大の特徴は「悪魔」を出してきて喋らせたことです。私としては、科学的背景を重要視したいので非科学的な悪魔の登場には忸怩たるものがありますが、オチを付けた終わり方をするためには、こうするより仕方なかったかと思っております。

なお、本作品は、2005年(平成17年)7月30日に作成したものです。このため、教授室の応接テーブルの上には灰皿が置いてあることを書いてありますが、今だったら、そのような状況はとても書けないですね。

また、「受精」と「授精」の使い分けですが、人工授精では「授精」を用い、体外受精では「受精」使うとのことです。このため、改めて見直し修正を行いましたが、体外授精の場合も受精卵については「受精」を使って良いのかなど、だんだん分からなくなり、大変混乱しています。使い分けに誤りがあるかとも思いますが、どうぞご容赦ください。

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