七年後の年賀状
私は、考えた末に、婦人科で緊急避妊薬をもらうことをやめた。
よっちゃんに対する罪悪感よりも、子供が持てるかもしれない嬉しさの方が勝った。それに……この年齢で妊娠する方が稀だ。
ネットで調べたら、私の年齢での自然妊娠は三割にも満たない。妊娠しても半数は流産をする。もうそういう年齢なのだ。
たった一晩で、そうなるわけがない。
無理矢理抱かれたとは思っていない。私はちゃんと合意して孝志に抱かれた。大人になっても、小さい時から繋いでいた、懐かしい手の感触は変わらなくて温かかった。
そういえば、私はよっちゃんといる時に、いつもどこか緊張している気がする。
身体を重ねる時もそうだった。
孝志には、恥ずかしかったけど緊張なんてしなかったのに。
いつまでも待ってくれる人がいる。家族のように育ってきた孝志が、いつでも帰ってこいと言ってくれていることが、今の私の唯一の救いになった。
よっちゃんは、私が実家に帰っている間に、何かあったのだろうか。
私の様子も意に介さず、始終ボンヤリすることが増えた。
「よっちゃん、大丈夫?」
「ん?ああ、大丈夫。ちょっと疲れてるだけでさ」
優しく笑うよっちゃんは、私の知らない人みたいだった。
毎日あの香水が部屋に香る。ミントグリーンの蓋の、100mlの大きなスプレーボトルがよっちゃんのブリーフケースに入っていた。
多分よっちゃんは、この香りから片時も離れたくないんだ、きっと。
最近は、オルゴールをいつも鳴らしている。珍しいから買った、という美しい青い箱から流れるメロディーは、よっちゃんが好きなアーティストの好きな曲だった。
あなたはオルゴールを鳴らして、誰を思い出してるの?
同窓会から戻って来てから、私はたまに孝志とメッセージのやり取りをするようになった。内容は他愛無いもので、友達同士の会話だったけれど、やっぱり孝志との関係は何かが変わってしまった気がした。良くも悪くも。
良かったのは、孝志との気の置けない関係が変わらなったこと。悪かったのは、私の気持ちが、完全によっちゃんから離れてしまいそうなこと。
孝志に抱かれて一番変わったのは、よっちゃんのことを好きだと思っていたけれど、本当にそうなのか分からなくなってしまったことだった。もう二十年以上一緒にいる人なのに、何を考えているのか未だに分からない。孝志の考えていることはあんなに分かるのに。そしてもう、よっちゃんは私の方を向いていないという間違いのない事実。
”生理は来た?”
私にそんなことを訊くのは孝志しかいない。よっちゃんですらそんなことは訊かない。高校生の時、生理痛がひどくて、”お腹が痛くて遊びに行けない”、と言った時に、”生理?無理せずに寝とけよ”、と直球で言ってくるような人だった。
でも、今回は意味が違う。妊娠したかどうかを訊いているのだ。
生理は、予定日から二週間以上過ぎているけど来ていない。ひどく眠たくて、よっちゃんの香水が香ると、胸がムカムカしてくることにも気付いていた。
”私の年齢なら、半数は流産するんだって”
そう書いて送ったら、すぐに孝志から電話が掛かった。
「茉優。おめでとう」
私は一言も妊娠したなんて言ってないのに。どうしてすぐ感づくんだろう。
「まだ、調べてないからわかんないよ……」
「茉優は子供が欲しいんだろ?俺も茉優との子供なら大切に育てる。そっちでこそこそ病院に行くぐらいなら、もう帰ってこい。電話に出たってことは、この時間にもお前の旦那は帰ってきてないだろう?」
時計は夜の十時を回ろうとしていた。
「仕事だよ、管理職だもの。忙しい仕事、だから……」
それでも私は泣きながらよっちゃんを庇った。レスになった最初のきっかけは私だから。
「……茉優、お前と旦那との間で何があったとしても、お前が泣いてるってこと自体が、もうダメなんだよ俺からしたら。茉優、明日家にいるか?」
「うん……」
「迎えに行く。待ってろ」
「ダメ!それに流産するかもなのに!」
「茉優、わかってないな。俺はどうなってもお前を引き受けるつもりだけど。旦那がいるなら俺が話をする。明日旦那は?」
「仕事……」
「じゃあ朝十時に車で行くから。荷物できるだけまとめとけよ」
「ダメよたっちゃん!」
「……旦那は一緒に育ててくれないだろ?俺の子供だし、俺がちゃんと話をつける。じゃあまた明日な」
「たっちゃん!」
電話は一方的に切れた。地元から車でここに朝十時って、いったい何時に出れば間に合うんだろう。
呆然としていると、よっちゃんが帰って来た。
「ただいま」
「……おかえり……」
また香水の香りがする。グリーンティーの爽やかな香りも、今の私には悪阻の種でしかない。
「よっちゃん、お風呂湧いてるよ。入って入って!」
「ああ、そうする」
私は気付いた。私が妻であることでよっちゃんを縛っている。そして私もよっちゃんに縛られているんだ。もうお互い……あの頃みたいにお互いを見つめていないのに。
孝志に抱かれた日に、拒まなかったのは、本当は心のどこかで、もうこの暮らしから抜け出したいと思っていたからなんだ。この先何十年もなんて無理。
私、行かなきゃ。もうここにはいられない。
朝、よっちゃんを送り出した後、私は急いで荷造りをした。
毛糸と綿と編み棒と作り方の本以外、必要だと思うものはあまりなかった。
午前十時過ぎ、インターフォンが鳴った。
「たっちゃん!」
玄関ドアを開けると、孝志が少し疲れた顔で立っている。
「たっちゃん……」
抱きついて見上げると驚いた顔をした孝志が、私の背中を擦りながら、
「小学校以来だな、こんな風にお前が抱きつくの」
と言って微笑んだ。
「茉優、本当に荷物これだけなのか?もうここには帰ってこないぞ?まだ積めるから運ぶもの言えよ」
「うん。いいの。あと、このダンボールは途中で発送していいかな」
依頼されたあみぐるみを知り合いに送るために箱に詰めていた。
「わかった。じゃあ、行こう」
私はよっちゃんに手紙を書いた。ごめんなさい、私は子供が欲しくて幼馴染に抱かれました、と正直に書いた。だから離婚してください、よっちゃんも好きな人の所に行ってください、と。
私が置いた手紙の横に、孝志がジャケットの内ポケットから封筒を出して置いた。
封筒には、”長束頼和 様”と、よっちゃんのフルネームが書かれていた。
「きっちりお前の旦那と話をするから」
「うん。私もちゃんと話すよ」
孝志の大きな手が私の背中を押した。
玄関を出て、鍵を閉め、私は小さな封筒に鍵を入れると、新聞受けによっちゃんと暮らした部屋の鍵を落とした。
地元に帰る車の中で孝志は言った。
「俺は子供が欲しいからお前を抱いたんじゃない。お前が好きだからそうした。だから、お腹の子がもし産むのが難しかったとしても、もう帰るな。俺のとこにいろ」
「うん……そのつもり。もう帰らないよ。よっちゃん、多分、好きな人がいるんだ……」
車のハンドルを握る孝志の顔色が変わったのがわかった。
「……いつから気付いてた?」
「ここ三……四か月くらいかな。昔の人を思い出すみたいな顔してるから、多分だけどね」
「……そうか……茉優、少なくとも俺はそれはないから心配するな」
孝志はニコッと口を四角くして笑った。その顔は、彼が中学生の時によくしていた笑顔だった。
田舎の口さがない人たちから出戻りと言われても、石女と言われたとしても、よっちゃんとの暮らしを続けるよりはいいと思ったのは、孝志が絶対に味方だとわかっているからだ。
私は、この”絶対”が欲しかった。何があっても私の味方でいてくれる人がいる、安心感。いつしかよっちゃんにそれを求めることは難しくなっていた。
「休憩しよう。酔ってないか?」
パーキングエリアに車を止めて、孝志は私の体調を気遣ってくれた。
「うん、たっちゃん。大丈夫、ありがと」
「茉優、手。転んだら大変だから」
孝志は私の手を引いて歩いた。仲の良かった子供の頃と同じように。
母さんは、孝志と一緒に帰って来た私を見て、何も言わず私を抱きしめた。
「病院には行ったの?」
「ううん。まだ」
「孝志さん、茉優を祭坂にある産婦人科に連れて行ってくれる?あそこは評判がいいから」
「わかりました。じゃあ、茉優は少し休んでろ。荷物下すから」
「でも!」
「いいから。寒いから中に入りなさい」
母さんは私をリビングに連れて行った。こたつに入る。
「実家なんだからごろ寝しなさいよ?」
「うん……」
こたつが暖かい。私は疲れたのか眠ってしまっていた。
夕方、私は産婦人科を受診し、妊娠二か月だということがわかった。
「一旦帰るけど、また夜来る。旦那から電話がかかるだろ?何時くらいに帰って来る?」
「早ければ、夜の八時、遅かったら午前様かな」
「わかった。じゃあ八時過ぎには来る。またな」
孝志は抱きしめた私の背中をぽんぽんとして、仕事に戻った。
その日の夜中、よっちゃんから電話が掛かって来た。
「茉優、ごめんな。俺はいい夫じゃなかった。……妊娠は、してるのか?」
「うん。妊娠二か月だって」
「無事に、元気な赤ちゃん産めよ。本当に、すまなかった」
よっちゃんは、私を責めることもなく、謝ってばかりだった。私も、もう浮気の数々を責めることはしなかった。最後に一言だけ言った。
「長い間ありがとう。よっちゃんも好きな人と幸せになってね。ずっと好きな人がいたでしょう?」
「茉優……ごめんな……」
よっちゃんは大きく息を吸うと、電話口の向こうで泣き出した。結婚して二十年一緒にいたけど、一度も聞いたことのない、奥歯を噛んで必死に堪えている嗚咽だった。
よっちゃんの好きな人は手が届かない人なのかな。でももう私にはしてあげられることは何もない。
嗚咽をこらえてよっちゃんは言った。
「明日記入した離婚届を送る。そっちで出してもらってもいいし、送り返してくれたら、俺が出すよ」
「わかった。じゃあね、よっちゃん元気でね……」
孝志が、肩を叩いた。俺に替われ、と言っている。
「よっちゃん、あの……」
「岬さんだろ。替わってくれ」
私は孝志にスマホを渡した。私はとても話を訊くことなんてできなくてその場を離れたから、男同士でどんな話をしたのかは知らない。ただ、孝志は電話を切った後に、
「茉優、何も心配するな、後は書類さえ出せばいいし、後は俺が連絡取るから」
と言って私を抱きしめた。
私は、速達で来た離婚届に自分の名前を書いて印鑑を押した。
同封されていた便せんには、”茉優と一緒になって良かった、長い間ありがとう”と癖のあるよっちゃんの字で書かれていた。
赤ちゃんは無事に生まれ、子供に関する籍の諸々の問題を解決してから、私は孝志と結婚した。
それから六年。小学生になった私たちの娘はすくすく育っている。
「ママー!ねんがじょうね、おいものはんこでつくりたい!」
懐かしい芋はんを彫りながら、娘と一緒に年賀状を書いた。よっちゃんにも欠かさず毎年送った。もう、親戚のようなものだから。
元日の朝。
「どのくらいねんがじょうきてるかな?」
「真衣、上着着てから玄関出ないと寒いよ!」
子供と一緒にポストを見る。
「たっくさんきてるねえ」
孝志は旅館の経営者だから、山のように年賀状が来る。これでも減った、と言っていた。
「これが、パパ、パパ、まい、ママ、パパ、パパ……」
仕分けの作業は真衣の担当だ。
孝志に送られた年賀状を、今度は仕事関係のものと私的なものに私が分けていく。
「あ、よっちゃんだ……」
よっちゃんからの年賀状は、”岬 孝志様、茉優様、真衣ちゃん” と家族全員に宛てられており、よっちゃんの名前の横には、知らない女性の名前があった。
”長束 頼和・晶(旧姓:林田)”
裏に返すと、年賀状からあの爽やかな香水の香りが、ふわっと漂った。
これで「オルゴールを鳴らして」シリーズは完結です。
ご愛読ありがとうございました!
孝志以外は皆既婚者なのに、まあ勝手なことを、と眉を顰められた方もおられるかもしれません。
人を好きになることって何だろうな、とかずっと続く気持ちとそうでない気持ちって何が違うのかな、と考えながら書きました。
どれだけ考えても、どれだけこうしてお話を書いてもわかりはしないことだとは思いますが、これからも「好きになってしまう」、という感情を描いていけたらと思っています。