蒼い呪縛
王ケ崎の断崖は自殺の名所でもあった。
夏場は海水浴で賑わう小さな町である。社の旅行などで訪れる観光客も多い。水がきれいなのだった。
八月の初旬。町は旅行者で活気に満ちていた。
田村は断崖の淵に立っていた。
田村は十九歳。浪人中だった。
“一流”大学の受験に失敗していた。両親や高校の進路指導者が、こぞってその大学を薦めた。田村自身は勉強を好きではなかったものの、成績だけは常にトップだった。父も母も高名な大学を出ていた。田村も小学校時代からそういう育ち方を強要されてきた。いずれ、お前のためになることだと。
しかし、受験のために必死に勉強しても、そうして身につけた学力や教養そのものが役に立つわけではない。卒業した学校の名前が問題なのだ――それはなんとなく、確信していた。受験問題などは、一流への切符を得るための最初の暗号にすぎないのだった。それを悟りながらも、親の言いなりのまま自分の生き方を変えることができなかった。
父親を恐れていた。父親は敬うべきものだと、幼少時代からの記憶に根深く刻み込まれたものがあった。唯々諾々(いいだくだく)と従ってこれまでは生きてきた。父親にはどういうのか、田村を恐れさせる威厳のようなものがあった。田村は父親の目を恐れて育った。洗脳に近いものといえた。
受験に失敗したのがきっかけで目が醒めたような気がした。そこから、深層に鬱積していたものが急激に次々と意識化されたのだ。
もともと、一流などという形容詞のついた生き方など、田村は心の底では希んでいなかった。もっと、自由に生きたかった。他にやりたいことはたくさんあった。恋もしたかった。そういったことは一切、暗黙のうちに禁じられてきた。感情を押し殺したまま育ってきた自分を再認識していた。そんな生き方はもう、たくさんだと思った。それに、父親は本当に息子のためを思ってそういう生き方を強要してきたのではあるまい。自分の面目をつねに気にしながら神経過敏に生きている男であった。
田村は重度な神経症に陥っていった。単なる受験ノイローゼではなく、自身の内面に意識化された憎しみの、あまりの強さに打ちひしがれていた。
自分の生きたいように生きたい――その思いに至ってはじめて、気づいたことがあった。自分自身の希望の実態がつかめないのだった。自分というものが育っていなかったのである。
人との、仲間たちとの関係も深まることがない。他人に対して心が開けないのだから。開いた中に表現すべき自己が何もないのだから……。
家を飛び出したのは昨日の昼過ぎだった。旅費は友人から借りていた。これまでの嫌気のさす生活から、灰色の雑踏から、そして父親の呪縛から追われるようにして、田村は東京を出た。最初はどこへ行くあてもなかった。知らず知らずのうちに、いつか何かで見たこの地に向かっていたのだった。
――両親はどうしているのか。
田村がここにいることは誰も知らない。母の留守中に書き置きも残さずに飛び出した。父が怒り狂っている姿は想像に難くない。母はそれなりに控えめで優しかったが、こんなことは初めてだから当惑しているに違いない。
――もう、帰りたくない。
何度も何度も、田村はそうつぶやいていた。一方では、ほんの先の未来さえ塞がっていることを承知していた。友人から借りた旅費も底をつきかけている。
遠い眼下に蒼い海が見える。不思議な蒼さだった。見つめているうちに、ふっと、吸い込まれそうな不安がよぎった。この断崖が自殺の名所だとは聞いていた。その先入観のせいかもしれない。そういった場所では死者の霊魂が渦巻いていて、自分の意思とは関係なく引きずり込まれることがあるのだと聞いたことがあった。
田村はゆっくりと立った。
近くの岩の上で、赤い眼の海鳥が田村を見ていた。
ここでの自殺者は後を絶たない。いまでも年間に二、三人はいる。そのほとんどが東京をはじめとする都会からの旅行者だという。いまの田村にはその理由がわかっていた。
都会は喧噪に満ちている。大気は排ガスで汚染され、濃い酸性雨が降る。ひしめき合う人間の群れ。誰かが、都会の生活は砂漠に似ていると言った。孤独に耐えられなくて犯罪に走るのだと。人間は一人で生きていないというが、本質的には誰もが孤独なのだと田村は思う。心を許せる人間がいない。雑踏ですれ違う人々の誰もが心の裡に殺気のようなものを秘めているように思う。都会には熾烈な生存競争がある。自然界の弱肉強食と変わるところはない。いままでのつまらない人生で、それだけはわかったような気がする。都会に憧れる若者が多い一方で、都会に住む人々はそういった日常生活からの逃避を求めているのだった。
そして、自殺は人生からの逃避。自己の存在責任放棄。
ふつう、自殺する人間の精神状態は正常ではないという。それでも、死に場所だけは都会から離れた地を選びたくなるのだろうか……。
蒼い海を見つめているうちに、体が吸い込まれそうな感覚はいっそう、強まっていた。崖に波がぶち当たって悽愴たる音を立てていた。その波の音も田村を呼び込んでいるように聞こえた。ふっと、海の蒼さが増したような気がした。飛び込もうと、田村は思った。あざやかすぎる蒼さが田村の心に拡がっていた。心が透き通っていくようだった。あの水の中に飛び込めば、全身に溜まった淀んだものが全て浄化されるのではあるまいか。
自殺の名所――その本当の理由を、田村は思い知った気がした。
海に誘われるように、田村は一歩、前に出た。自分の足で動いたという感覚さえなかった。
「泳げるんですかァ?」
ひどく楽しげなその声を背に受けて、田村は動きを止めた。
「そこからじゃ、無理ですよ」
振り返ると一人の少女が笑っていた。他に人影はない。
しばらく、田村は言葉を失っていた。我に返れば、熱が急激に冷めたようなショックだけがあった。完全に自身を見失っていた恐怖が全身を引きつらせた。いったい、自分はいま何をしようとしていたのか……。
「みんな、ここから海に入るつもりで飛ぶらしいですけど。無理なの、それじゃ」
少女は無邪気そうに笑っている。
田村は海を見た。さっきまではずっと近くにあった蒼い水面が急に遠ざかったように思えた。田村はのけぞっていた。
「海まで届かないの。ここから見ると小さいけど、下の岩場ってけっこう広いから。みんな、そこに落ちるんです」
自殺者のことを言っているのだとわかった。しかし、その言葉の内容とは裏腹に少女の笑顔には屈託がない。
「……きみは?」
ようやく、田村は言葉を押し出した。
「近くに住んでいる者です」
少女は短く答えた。
田村はもう一度海を見て、崖淵から数歩、離れた。足に震えが出ていた。おびえから生じる震えだった。
「東京から、ですか?」
少女が訊いた。
「……うん。でも、なんで、わかるの?」
田村は少女を見つめた。短めの、柔らかそうな黒髪が微風になびいている。おそらくは十代なかばの年頃だった。
「そんな気がしただけ」
ふと、少女は笑みを絶やした。田村の横に来て海を見つめた。遠い目になっていた。
田村は少女にならって同じ方向を見た。
蒼穹に真っ白な雲がくっきりとはりついている。都会で見慣れた空とは、まるで違っていた。蒼い海は水平線に近づくほどいっそうその濃さを増し、蒼穹と区別できるかどうかの色を残して溶け合っていた。そういえば、ここに来て空などに心を向けたのは今が初めてだった。
「この場所、素敵でしょ」ややあって、少女が話しかけた。「私の大好きな場所なんです」
「うん……」
田村は水平線を見つめたまま、小さくうなずいた。
「ゴミなんか、捨てないでくださいね」
「わかっているさ」
視線を戻すと、なぜか食い入るような目線で少女は田村を見つめていた。
「どうしたの?」
「…………」
少女は答えなかった。やがて目線をそらして一歩下がると、着ていた青いTシャツを脱ぎ始めた。小さな乳房が出た。田村はあっけに取られて見ていた。言葉をかける余裕もなかった。少女はTシャツを岩の上に置くと次には短パンを脱いでしまった。田村の目の前で服を脱ぐことに、少女は何のためらいも見せなかった。手早く、脱いだものを次々と岩の上に置いた。靴も脱いだ。
結局、少女は全裸になって、脱いだものをまとめて抱えた。それを持って田村の前に立った。
「すみませんけど、これ、下まで持ってきてもらえませんか?」
「…………」
少女の思考を理解できないまま、田村は服を受け取った。目のやり場に困っていた。服には少女の体温がそのまま残っている。
少女はきびすを返した。少女が背中を向けても、田村はその姿をまともには見られなかった。
十メートルほど田村から離れた場所で、少女は振り返った。
「見ててね!」少女は叫んだ。「これくらいは助走をつけなきゃ、だめなの!」
「待て!」
少女が崖下に飛び込もうとする意図をようやく察した。田村は少女の服を持て余した。そのときには少女は走り始めていた。
赤い眼の海鳥が舞いたつのが田村の視線の片隅に映った。
少女の白い体が目の前を擦過した。
「よせ!」
田村が叫んだときには、少女の足はポンと地面を蹴っていた。両手両足を伸ばしていた。十字架のように見えた。白い十字架は小さな放物線を描いて海に向かって落ちた。海鳥がひと声、かん高く鳴いて少女のあとを追うように急降下した。少女が飛び込むのを待っていたように見えた。田村は這うようにして眼下を覗いた。少女と海鳥が白い点となって何度か交錯した。
水面ぎりぎりで海鳥が急カーブを描いて反れた。少女の白い点だけが蒼い海に消えた。飛沫が上がったのが見えた。腹ばいで見下ろすと確かに岩場が見える。そこから十数メートル離れた海に少女は飛び込んでいた。
田村は身じろぎもせずに見ていた。ややあって少女が浮いてくるのが見えた。少女は田村に向かって手を振ったようだった。
少女の温もりが服に残っていた。
結局、田村はその日は東京には帰らなかった。
断崖から距離のない場所に小さな民宿を見つけて、そこに一泊を置くことにした。独り住まいの老人が経営している民宿で、泊まり客は田村だけ。質素な建物でふつうの一軒家のようなたたずまいだった。食事がついて宿泊料は格安だった。
「最近はこの辺りにも、きれいな旅館がたくさんできたからな。こんな民宿には、客もあまり来んようになってしもうた」
老人は寂しそうに笑いながら、食事を運んだ。細長いテーブルが二つばかり並んだ食堂だった。
潮風のなかで育った老人は赤い皮膚をしていた。七十代なかばだというが、もともと漁師で鍛えられたという老人の体は、たしかな骨格であるのがシャツの上からもうかがえる。細身の田村よりも歩き方はしっかりしていた。
話好きの老人のようだった。田村が食べているあいだは向かいのテーブルにいて、いろいろと話題を持ちかけた。
町には高級旅館やビジネスホテルはない。海水浴シーズンだけに開かれる、家族経営の副業的な規模の宿ばかりである。本業の民宿でもせいぜい十組も入れば満杯となり、その宿も秋が深まれば閉鎖される。温泉でもあるのならともかく、四季を通じての営業は成り立たないのだ。夏以外には特別に観るもののない町が、このシーズンだけは潤うのだった。
夏場は町のあらゆる場所に宿の案内図が掲げられる。田村もそれは見ていた。どの宿もアルバイトに年頃の娘を使ったりして客引きに力を入れているようだった。二ヶ月にも満たない営業期間でも、結構な収入になるのだという。
八月が終われば、日帰りの観光客はいても宿泊客はパタリと途絶える。
少女のことを、田村は訊いてみた。
「それァ、蒼依ちゃんだ……」
老人はパイプから煙をくゆらせながら答えた。
「あおい、ちゃん?」
「ああ。あの子のことは、この小さな町の人間なら誰もが知っとる。あの子はあの場所が好きらしくてな、たいていの時間は、あそこにおる」
「この近くに、住んでいるのだと……」
「そうだ。しかしまあ、可哀相な子じゃよ。詳しくは知らんが、幼いときに両親を亡くしたとかで、いまは親類のもとにあずけられておる」
「そうですか……」
遠い視線で海を見つめていた少女の瞳を、田村は思い出した。なぜか、印象に強く残っていた。
「それと、あの子、言葉づかいはまともだが、感覚がちょっと、な……」
老人は声をひそめた。
「…………」
「あの崖が自殺の名所だと言われとるのは、知っとるか」
「ええ、まあ……」
「いまでも年に二、三人はおるわ。まあ、東京あたりからわざわざ来て死ぬんだから、バカみてえな話だが、な……」
「…………」
田村は老人から目をそらした。老人に、自分の心の奥を覗かれているような気がした。
「その死体を、たいていは、あの子がみつける」
「死体を、彼女が?」
田村は茶碗を置いた。何かで叩かれたような衝撃を受けていた。
「どこか不思議な子なんだよ……」
蒼依はつねに断崖にたたずんでいる。学校には通っていなかった。老人とは顔見知りであった。もう七、八年も前から、老人は蒼依の姿を断崖で見かけている。何度か声をかけた。蒼依はいつも独りだった。あの場所で誰かと一緒にいるところを見た者がいない。
蒼依は老人になついた。二人で海の話をしたりした。老人は自分の漁師の経験や海の逸話などを話して聞かせた。蒼依は目を輝かせながら聞き入ったものだった。
そういった話はしても、老人は蒼依の身の上のことは詮索しなかった。両親を失っていることだけは、蒼依が自分から話したから知っていた。蒼依は孤独なのだった。老人は蒼依のことが可愛かった。老人には子供がいない。蒼依のような孫がいればいいと、そう思っていた。
蒼依には不思議な力があった。海鳥と心が通じるのだった。
それを知ったのは去年の夏のことだ。断崖に出てみると、蒼依は一羽の海鳥と戯れていた。
「あの子、独りぼっちなの。私と同じように」
飛び立った海鳥を見送って、蒼依は老人にそう言った。
阿比という名の海鳥であった。
阿比はきれいな色をした渡り鳥だ。潜水が巧みで、魚の居場所を教えるから漁業には益鳥とされていた。海の汚染が深まった地域では、阿比もめったに姿を見せなくなったと聞いている。血の膜を張ったような真っ赤な眼を持つ鳥だ。人間に対する警戒色のような色でもあった。漁に出ていたときには海に浮かんでいて老人のことを近くで見ていたことはあるが、一定域には近づかないのだった。ましてや、野生の鳥がある日突然に人間と戯れているなどは非現実的だ。
――海の子。
蒼依は人々にそう呼ばれている。ふっと、老人は何か不吉なものを感じた。
蒼依には両親がいない。幼い頃に両親を亡くして、その顔はもちろん一緒に過ごした記憶さえもないのだという。蒼依はもしかしたら、本当に海から生まれてきた子ではあるまいかと、そんな気がしたのだった。
それがなぜ不吉なことに思えたのかは、老人にはわからなかった。
田村は海沿いの道にあるバス停に向かっていた。
――海の子、か。
昨夜、民宿の老人の話したことが脳裡から離れなかった。たしかに、田村も見た。海鳥が少女のあとを追うように海に向かって急降下したのを。
老人は少女の感覚が少しおかしいと言った。言われるまでもなく、田村もそれには気づいていた。一つは、初対面の男の前で無造作に裸身をさらすなど、少女の言動にはアンバランスな面がうかがえた。そしてもう一つ、それとは違う奇異な感覚があるのだった。老人が言っていたのがそれである。どうしても払拭しきれない奇異な感覚の正体が、田村にはようやくわかり始めていた。
あの断崖から海に飛び込むには助走が必要だ。助走がなければ岩場に落ちて体はバラバラになる。そんな危険な場所を選ばずとも飛び込める場所は他にもあるし、自殺の名所ともなれば普通の人間は近づいたりしない。海水浴場のざわめきも届かない。少女にとっては独りで過ごすのに最適な場所だった。しかしそのために、自殺者の死体を最初に見つけるのはほとんどが少女なのだった。
幼い頃から死体を見てきた少女には、死体に対する恐怖感が、他人の死に対する恐怖感がないのかもしれない。ただ、他者や生き物の死に直面することで命の重みに触れ、死を恐れていくようになるのが普通だ。何かの恐怖が少女の感情の育成を阻んだのだろうか……。いずれにしても少女の欠落した〈死〉への感覚が、見る者にどこか不思議な印象を与えるのかもしれないと、そのことに田村は気づいていた。
それでも田村の見るかぎりでは、少女の精神状態そのものは健康であった。あのとき、我を失い海に飛び込もうとしていた田村の方がむしろ危険極まりない状態だったといえる。
ゴミを捨てないでと、少女は田村に言った。あれはおそらく、田村が飛び込むことを拒否する意味だったのだ。助走なしで飛べば下の岩場は血の海になる。少女にとってそれは自分の好きな場所を汚されたという程度のことに過ぎないのかもしれない。
バス停に着いた。
時刻表を見ると、バスが来るまでにはまだ間があった。近くに三軒ばかりの店が並んでいる。かき氷などの看板が目についた。その横の自動販売機で田村はジュースを買った。この辺りには日中でも、一時間に二本程度しかバスは通っていない。
「こんにちは」
声をかけられて、田村は振り向いた。
昨日の少女――蒼依が後ろにいた。
「もう帰るんですか? 東京」
蒼依は田村に続いてジュースを買った。
「うん。次のバスでね。……座らないか?」
田村は蒼依をバス停の椅子に誘った。
目の前に海が見える。道路の下は狭い砂浜になっていて、波の音がすぐそこに迫っていた。店の経営者がいるだけで路上には他に人通りがない。車の通行もまばらだった。
「お礼、言っておくよ」
田村は切り出した。
「あのときはべつに、自殺するとか、そういうつもりじゃなかった。とにかく、すべてを投げ出すつもりで、ここに逃げてきたから……」
田村は受験に失敗したことを手短に話した。
蒼依は黙ってジュースを飲みながら聞いていた。
「両親、いないんだって?」
蒼依の動きが止まった。
「いやなこと、訊いてしまった……悪かったよ。でもぼくは、君のことが羨ましい」
「え?」
蒼依は田村を見た。
「ぼくの両親は生きている。でもぼくは、父さんが好きじゃなかったんだ。あんな父親なら、いなくてもいいとさえ思ったことがある。いままで、ぼくは父親の言いなりだった。何が好きで、本当は何をしたいのか、どんな希望があるのか――そういったことは全て、表には出せずに生きてきた。父親にとって都合がいい息子の役割を、ずっと演じ続けなければならなかった。長くて長くて、辛い演技だった、あまりにも」
「…………」
「それに比べて、君は自由に生きている。毎日のように、好きな海を見るために、好きな鳥と遊ぶために、あの崖にやって来る」
「…………」
「そんな自由さえ、ぼくには羨ましい」
「…………」
理解しているのかいないのか、蒼依は無言だ。
「それにしても、あの崖から見た海の色――不思議だった。まるで、体が自然に吸い込まれていくような、ひょっとして、飛び込んだら体中の汚いものが全て洗い流されるような、そんな気がしたんだ」
「…………」
「でも、君のおかげで目が醒めたよ。ありがとう」
「私は何もしていないわ。ただ、あの場所を汚されたくなかっただけ……」
蒼依は静かに立って、横の屑籠に飲み終えたジュースの空き缶を落とした。
そのまま蒼依は道路を横断して、向かいのガードレールの側に立った。
「いいな、東京! 私も行ってみたい」海をながめながら、蒼依は伸びをして見せた。「女優になるのが、夢なんです」
「女優か……」
田村は蒼依の傍に寄った。ふっと、成長した蒼依の姿を思い浮かべた。
「でも、だめなんです。どうしてもここ、離れられなくて」
蒼依は海を見つめたままだった。
「海から声が、聴こえてくるんです」
「え?」
蒼依の美しい黒髪が風にとけている。
「あの崖に立つと、いつも呼ぶ声がするの。海が私を呼んでる……。だから、私は飛び込んでいくわ。思いっきり助走をつけて」
「…………」
あの子、感覚がちょっとな――田村の脳裡に、そう言った民宿の老人の顔が浮かんだ。
「私って、変ですか?」
蒼依が振り返って、訊いた。
「え? いや……」
田村は口ごもった。
「ううん、やっぱり変ですね。知らない人の前で、いきなり裸になるなんて――それを、特別に恥ずかしいとも思わないなんて。どうかしているのかも」
「そんなこと、あるもんか。ぼくをたすけてくれたんじゃないか」
思わず、田村は声を高くした。蒼依が驚いたように田村を見上げた。しかしその表情の中に、どこか悲哀じみた色が浮かんだのを田村は感じ取っていた。田村は目をそらした。蒼依の顔がまともに見られなくなっていた。自分を情けなく思う気持ちが溢れ出たせいかもしれなかった。
バスが来たのはそれから数分後だった。
「また来て、くださいね」
蒼依はバスに乗り込む田村を見送りながら言った。
「うん。機会があれば、また会いたいね」
社交辞令ではなく本気で、田村はそう思った。
生きていて、いつかまたこの地に来ようと思った。
席はあいていた。田村は座らなかった。蒼依の姿を見るためにドアの傍に立った。
ドアが閉まった。同時にバスは動き出していた。
蒼依の顔が左側にゆっくりとスライドした。
<たすけて……!>
田村の脳裡に声が響いた。耳ではなく脳裡で、はっきりと叫びを聴いた。
田村はあわてて車内を見回した。数人の乗客がいる。目の前の老人は眠っていた。誰かが悲鳴を上げるような事態は起こっていない。
――蒼依!
田村は目線を外に戻した。
蒼依の姿はバスの後方に流れていた。蒼依は両手で顔を覆っていた。泣いているようだった。田村はバスの挙動に揺られながら後部座席へ移動した。
海岸線で独り、泣き崩れてゆく小さな少女の姿が遠ざかっていた。
夏が、去った。
夏は諸々の情緒を奪っては過ぎてゆく。恋、夢など、夏とともに失われていくものは多い。
九月のなかばになるともう観光客の姿は激減した。都会から来た多くの若者たちをはじめ、人々はそれぞれにさまざまな想い出を残して、去った。
そして今年もまた、人々が捨てたゴミだけが町に残された。
八年の歳月が流れた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
東京都新宿区。
ビルの屋上に一人の若い女の姿があった。
女は長い時間、遠い目で街を見下ろしていた。
「ねえ、あれ、飛び降り自殺じゃない?」
そう言ったのは、真知子という名の女子事務員だった。
「ねえってば、田村さん。あれ、自殺っぽいと思わない?」
真知子は田村の向かいの机に座っている。ペンで隣のビルの屋上を指していた。
田村は十二階建てのビルの一室にいた。勤務地の会社の本社ビルである。入社直後から本社に配属されて三年になる。田村はあるセクションの主任であった。年内には係長に昇格するという話が来ている。入社して四年目にそこまで昇格するのは、この社では田村が初めてだという。
結局、田村は父親の希望どおりに一流という生き方に足を踏み入れていた。
その父親は二年前に死んだ。癌であった。田村は悲しまなかった。皮肉なことに、親の死を悲しむべき感情が父親自身の支配性によって抑制されていたのだった。父親の生き方を受け継ぎはしたが、ようやく、自由になったような気がした。強請された生き方ではあったが、いまでは後悔はない。田村はエリート街道に乗った。自分自身を見抜く経過にはそれなりに年月を要したものの、田村なりに人生を楽しもうとする気構えができつつあった。
大きな企業がなぜ大卒の人間を採用しようとするのか、田村には一つの解釈があった。べつに大学を出たところで、人間として特別に優れているわけではない。能力や教養といったものが、ある程度の水準でまとまっているからにほかならなかった。そのほうが会社側としては、歯車の一部として扱いやすい。それだけのことだ。
「自殺か。そうかも、しれないな」
田村は向かいのビルの屋上を一瞥した。素知らぬふりを装っていた。
「気にならないの?」
「べつに。他人のことなんて、いちいち気にしてはいられないさ」
「ふーん。エリートの考え方は、違うわね」
真知子はおどけて見せた。二十代なかばだった。社内には百人以上の女子社員がいるが、その中でも一、二を争う容姿の持ち主といわれていた。真知子を狙っている男は多いと聞く。真知子もまた自分の魅力を充分に心得ているようだった。
田村もその容姿の美しさは認めていた。性格的にも明るさは感じさせる。ただ、真知子は自分の美しさを少しばかり鼻にかけるようなところがあった。
「自殺したいほど悩んだこと、ないでしょ」
「…………」
田村は答えなかった。脳天気な連中に自分の過去などを話す気はない。自殺と無縁なのはむしろ、真知子の方であろうと思う。
――彼女も、泣いたことはあるのだろうか。
ふっと、そんなことを想像する時がある。人事担当の上司が何かの時に話したことを思い出すのだった。うちの社で何年ものあいだ、トイレでの悔し泣きを経験しない女子社員などは皆無であろうと。
真知子は人々に囲まれてはいても、いわゆる八方美人とは少し違っていた。男にしろ女にしろ、合わない人間は自分の意思で見分けて距離を置いているところがある。孤独感から周囲に人を集めている様子でもない。少なくとも、好かれるために生きているような卑屈さはほとんど感じられなかった。それなら心理的なエネルギーを消費して燃え尽きることもあるまいと思えた。
田村は書類作成に戻った。十二時を回っている。会社は昼休みに入っていた。新米の女子社員が田村の机にお茶を置いていった。
真知子の周りに数人の男女が集まっていた。お茶を配っていた女子社員もそこに加わった。真知子が向かいのビルの屋上を指して何やら説明している。
田村はさりげなく立った。さすがに、無視できなかった。ふだん退屈な連中は面白半分に見て話している。本当にビルから飛び降りるなどとは思ってはいまい。その一方では何かが起きるのを、ひそかに期待しているのだ。田村も気になりかけていた。しかし、興味本位ではない。飛び降り自殺と聞くと八年前の王ケ崎での出来事を思い出さずにはいられないのだった。生涯を通して消えることのない記憶だった。
人間の生き方というのがあまりにも、多様化しすぎた。
だからこそ、自分の意志と責任で選択を繰り返さなければ、人はいとも簡単に生き方を見失う。
ビルにたたずむ女を見て、田村の呼吸が止まった。
「あの子……」
田村は絶句した。八年前の出来事を思い出していた矢先でもあった。遠目に見た女の姿に、一瞬、八年前の蒼依の姿がダブった。
田村は走り出していた。
エレベーターに飛び乗った。
――蒼依なのか。
エレベーターの中で田村はそれを思った。影で女の顔は見えなかった。服装から若い女だと判別できただけだ。まったくの別人であってそれが自殺志願者でもなんでもなかったとなれば、田村は笑い者かもしれない。そう思ってはみても、田村はその女の顔を確かめずにはいられない衝動に駆られていた。
会社のビルを飛び出し、道路を横断して、向かいのビルのエレベーターに入った。エレベーターは一階で待機していた。
東京に行ってみたいと、八年前、蒼依は田村に言った。女優になるのが夢なのだと。いま、蒼依は二十歳を幾つか過ぎている。蒼依が当時の夢を追いかけているのなら、東京に出てきて劇団や芸能プロダクションなどに所属している可能性は高かった。そういった企業団体の事務所はやはり、都心に集中している。
エレベーターが最上階に着いた。田村は屋上までの階段を駆け上がった。
ドアの向こうに女の小さな背中があった。
女が物音に振り返った。
あかく染めた髪が風になびいていた。
小さな衝撃が田村を叩いた。間違いなく蒼依だった。髪を染めて濃い化粧をしてはいても、田村はその女の素顔をわずかな瞬間に知ることができた。八年前の面影が女には残っていた。蒼依の顔を田村は忘れてはいない。
「きみ――蒼依ちゃん、だろう?」
田村は声をかけた。
「あなたは?」
蒼依は完全に向きを変えて田村を見た。缶ビールを持っているのが見えた。
「覚えて、いないかな……。ほら、王ケ崎の近くで、君にたすけて、もらった……」
田村はうまく言葉が続かなかった。蒼依の、完全に流行化した姿に驚愕し、わずかに失望していた。あのとき、素裸で海に飛び込んでいた清純なイメージが消え去ってしまっていた。
「おぼえて、ないわ」
蒼依は素っ気なく答えた。そんなことはどうでもよかった。いま、蒼依は何かを思い出そうとする気にはなれなかった。それに、自分に誰かを助けた経験などあるわけがない……。
「そう……」
田村はいささかガッカリした。八年前と比較して田村の顔はさほど変化していない。しかし、蒼依は田村を思い出してくれなかった。
「でも、こんなところでまた会えるとは思わなかった。いつ東京に?」
田村は気を取り直した。劇的な再会といえる。とりあえずは素直に喜んでおくべきであろう。
「向かいのビル、うちの会社なんだ。社員が窓からここを見て、自殺じゃないか、などと言うものだから、気になってね」
「じさつ?」
呆あきれたように、蒼依が訊き返した。
「違ったみたいだけどね」
田村は苦笑した。
初夏の風が鳴って、通り過ぎた。蒼依のあかい髪がささくれ立って揺れた。わずかな時が流れた。
「ねえ」蒼依が口をきいた。「ここから見る都会、海みたい」
蒼依は缶ビールを飲み干した。
「海?」
「そうよ。どこを見ても灰色で、まるで薄汚れた海……」
蒼依は無造作に空き缶をビルの外に放った。
「よせ! だれかに当たったら……」
田村は駆け寄って下の道路を覗いた。アルミ缶は気流の抵抗を受けたのか、思ったよりも頼りない速度で視界を離れていた。アスファルトに缶が弾んで甲高い音が届いた。さいわい、その辺りの通行人はまばらだった。その通行人がいっせいに見上げた。田村はあわてて身を引っ込めた。
蒼依は鉄柵につかまって街を見下ろしていた。眼下の通行人の視線には無関心だった。
「私、故郷から逃げてきたの。あの蒼い海から、逃げてきたんだ」
蒼依は独り言をつぶやくように、喋った。誰だかわからないけれど、男は蒼依のことを知っているという。駆けつけるなり蒼依の名を呼んだのだから間違いはあるまい。ただし、どうでもよいことだった。
「どういう、ことなんだ」
田村は訊いた。
「ふるさとの海は、まっさおだったわ。その海が、私を離してくれなかった。海の虜になっている自分に気づいたのよ。私は東京に憧れていたわ。海だけじゃなく、もっと広い世界を見たかった。でも、どうしても離れられなかった。海が私を呼ぶのよ。海の声が聴こえるのよ。私は振り切って、逃げてきたわ」
「…………」
「でも、ここに来て気づいたの。ここは私の求めていた世界なんかじゃない。海よりも広い世界なんてなかった。ここは汚れた海なのよ。私も汚れてしまったわ。それに、この灰色の海からは、あのやさしい声も聴こえてこない」
「…………」
「だから、もう、帰ることにしたの。あの蒼い水が見たいわ。あの声を聴いて、また海に飛び込んでいきたい」
「そうか……」
田村は声を落とした。蒼依の傍をそっと離れた。蒼依はもう田村を見ようとはしない。
蒼依は遠ざかる男の足音に背を向けたまま、灰色の街並を見つめていた。
なぜ、ふるさとを捨ててここに来たのかと思う。
蒼依は海が好きだった。蒼依には海の喜怒哀楽がわかる。凪いでいる海の小さな感情の変化もわかる。海のことなら何でも知っているという、透徹した思いがある。その好きな海を離れて今ここにいる自分は、無残に破壊された幻想の欠片だけを身にまとった、汚れた女になっていた。生活費のためにスナックに勤めて、アルコールを口にした。男と寝た。その男とも縁を切ったばかりだった。博愛主義の仮面をつけた内に、つねに隠しきれない猜疑心の塊が見え隠れしている男だった。正義や愛や規範を振り回しながら、本音では心の奥の奥まで何かを責め苛んでくるような男だった。
幼い頃からみていた女優になる夢は、とうに、この灰色の海に消えてしまった。
――蒼い海に、飛び込もう。
蒼依はそれを思った。
離れてみて、あの水の色の神秘性に気づいていた。数年前までは、蒼依は夏の海に助走をつけて飛び込んでいた。その頃の自分をようやく、思い出した。飛び込めば、海はいつでも暖かい水で蒼依を抱いてくれた。蒼依の母は海そのものだった。自分が海の子だと言われているのを蒼依は知っていた。それは本当なのかもしれない。親の記憶は蒼依にはなかった。なぜか、写真さえも残されてはいなかった。自分は海から生まれてきたのだと思っていた。
また、あの海に飛び込む。母の胎内に飛び込む。いまは汚れてしまった自分。あの蒼い水が、体中の汚れてしまったものを、すべて洗い流してくれるかもしれない――。
蒼依はふと、顔を上げた。
あれはいつだった? もう何年も前に、同じようなことを蒼依に言った男がいた……。
蒼依は振り返った。
男の姿はない。
田村はビルの下の道路に来ていた。
蒼依の捨てたビールの空き缶が放置されていた。
――薄汚れた海、か。
拾い上げながら、声には出さずに、つぶやいた。
そう思うのなら、帰ればよい。田村はその薄汚れた海で育った。田村には田村の、そして蒼依には蒼依の生き方がある。内容はまるで違っても通じるものを、田村は感じていた。
蒼依は海の持つ神秘的な呪縛から逃れようとして都会に逃げてきた。田村は自己からの逃避で断崖に立った。結局、田村の逃避は未遂に終わり、いまはエリート街道に乗っている。蒼依は蒼依で都会の暮らしに順応できなかった。蒼依にふさわしいのはやはり、あの神秘的な色の水をたたえた世界だった。
田村も蒼依も、自分の育ってきたそれぞれの〈海〉に帰るしかないのだった。
田村は売店の回収ボックスを求めて、空き缶を処理した。
蒼依は田村を忘れていた。しかしそれよりも、八年前、ゴミを捨てないでと言ったあどけない笑顔の方が、田村には哀しく思えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ふるさとの海は、汚れていた。
毎年訪れる観光客の捨てたゴミがあちこちに浮いていた。
蒼依は断崖に立って汚れた海を見つめていた。
水の色も薄汚れていた。
一緒に飛び込んでいた海鳥の姿もなかった。
海は、蒼依に呼びかけなかった。
蒼依は膝をついて泣きだした。
長いあいだ、蒼依は泣いていた。
<おいで……>
蒼依の脳裡に呼ぶ声が聴こえた。
蒼依は目を開けた。
海を見た。蒼い水があった。神秘的なあの色がよみがえっていた。水面にはゴミ一つない。真っ青な空に白い雲があざやかにはりついていた。
<おいで。飛び込んでおいで……>
「海がまた、呼んでいるわ」
蒼依はつぶやいて、ゆっくりと立った。
「でも、私、すこし汚れちゃったよ」
蒼依は着ているものを脱ぎ始めた。
蒼依は助走をつけるために下がった。汚れたものを洗い流してくれるのはこの海しかいない。蒼依は走り始めた。
小さな岩の傍を通過する間際に、蒼依の助走がにぶった。岩陰に海鳥の死骸が横たわっているのを蒼依は見た。断崖のすぐ傍であった。勢いを失った蒼依の体が空間に踊った。
蒼依は海を見た。
ゴミの浮いた汚れた水が戻っていた。
蒼依の体は海まで届かなかった。
完