調理
牢番と囚人と共に私達は監獄の調理場へと向かった。石造りの廊下を進むとバターの香ばしい香りがした。
テレーズは「美味しそうな香りですね〜」と頬を緩ませる。牢番と囚人は朝食がまだの様で「ぐぅ〜」とお腹を鳴らした。対して私は無関心だった。どうやら別の世界で見たあの料理にしか興味が湧かない様だ。
牢番が木製の扉を指差す。
「ここが調理場です」
私は「ありがとう」と案内してくれたお礼をして牢番と囚人と別れた。そして目的地である厨房の扉をノックした。すると「はい。少々お待ち下さい」と男性の返事が扉越しに響いた。暫く待つと40代のコック帽を被った穏やかそうな男性が扉から現れた。
「おや可愛らしいお嬢さんですね。面会ですか? ここは厨房で、面会室は逆ですよ」
どうやら囚人に面会に来た人かと勘違いされた様だ。私は首を横に振った。
「いいえ。私は厨房に用があります。今日からここで料理を作らせていただきますドゥニーズです。以後宜しくお願い致します」
「……確かにその様な話はありました。しかし、か弱い女性がこの様な場所に居ては危険です。やめた方が良いです」
どうやら、ジャン様の方から打診はあった様ですね。そして、このコックさん普通に良い人みたいです。ならば、ゴリ押ししてしまいましょう。
「私はおてんば娘でして、婚約者から見捨てられた挙句、両親からも見捨てられました。ここで働かせてもらえれないのなら後は野垂れ死ぬだけです。どうか貴方まで私を見捨てないで下さい!」
悲劇のヒロインチックに情に訴える作戦に出た。どうやら本当に良い人なコックさんらしく、涙を浮かべてます。
「可哀想に! 安心して下さい! 私は貴女を見捨てない! 好きなだけここで働いて下さい!」
「ありがとうございます!!」
私は感激のあまり冷たい床にしゃがみ込もうとして侍女に止められた。はいはい。わかりましたよ。情け無い体勢はやめときますよ。
侍女が「自分強いと嘘吐いた挙句にまた嘘ですか。息吐く様に嘘吐きますよね本当」と呆れてますが私は気にしない。私は強いし、ジャン様と婚約破棄したから両親にきっと見捨てられますからね!
「私の名前はフランシスです。ドゥニーズさんこれからよろしくお願いします」
さん……さんですとっ!?
さん呼びなんてされた事ない。大概は様か呼び捨て……新鮮!
ちょっと感動した。
「フランシスさん。よろしくお願いします」
私もさん付けにしてみた。これで、さん仲間よ!
侍女が「あー。これはドゥニーズ様の正体に気付いてませんねー」と遠くを見つめた。
「これから、朝食を運ぶので手伝ってもらいます」
フランシスさんは当然私が手伝うのだと思っている様です。しかし、私の視線は朝食のクロワッサンでもなく、カフェオレの香りがするポットでもなく、樽に積まれた蕎麦粉をとらえた。
ここにフランシスさんがいなかったら私は小躍りしていたに違いない。それぐらいハイテンションになりました。
あの粉が触りたい!
絶賛、欲求に負け続けているドゥニーズはまた嘘を吐いた。
「……私、囚人が怖いのです。申し訳ないのですが、そこにいるテレーズに任せます」
さっきフォークで囚人に刺されたのにケロッとしてる人の台詞ではない。
侍女が何言ってんだコイツ? と思っているに違いない表情で私を睨んだ。
絶対に良い人なフランシスさんは「そっかぁ。女の子だもんね。気にしなくて良いよ」と頷いてくれました。
侍女が「どうせ。私は女の子ではありませんよ」と悪態を吐いている。
因みに侍女テレーズは24歳です。私も18歳なので女の子なのかは微妙なところです。
テレーズよ。フランシスさんに悪意はありませんよ。
こういう男の何気ない言葉に女というものはすぐ拗ねるのである。
本当、大変だよね。
ドゥニーズはその女の概念に自分を入れてない。他人事であった。
ぷんすかと不機嫌なテレーズはクロワッサンとポットの入った籠を抱えてフランシスさんについて行った。厨房にはドゥニーズだけになった。厨房用の服に早技で着替えた。
……咎める者は誰もいない。
私は不敵な笑みを浮かべ蕎麦粉に近づいた。
フォークが刺さった時に蘇った記憶にあった粉だった。もう一種類の粉があれば……あったあった!
別の樽に小麦粉が入っていた。触ってみると、硬くもなく柔らかすぎでもない中間のさわり心地。
材料が揃ってるなら、作るしかないわね。
棚にしまってある大きなボールを取り出して蕎麦粉を入れる。次に小麦粉を入れて混ぜる。水瓶に溜めてある綺麗な水をカップですくい少し入れたら手早く混ぜる。徐々に粉が玉となって固まってくる。水をまた少し入れて手早く混ぜる。
忙しい! とっても忙しい! でも楽しい!
忙しく動く事が苦手なドゥニーズだったが、蕎麦造りは別だった。
この感触が懐かしい!
粉を丸めて潰して折りたたんで丸める。そんな作業の繰り返しが懐かしくて楽しかった。
良い感じの弾力になり、麺棒で生地を伸ばす。そして……私は引き出しにしまってある包丁を見つけた。興奮で手が震えたが何とか包丁を握る。
ふふふふふふふふふふふ
ドゥニーズのなけなしの理性は吹っ飛んだのであった。
暫く経つとフランシスさんとテレーズが空の籠を抱えて戻ってきた。そして、作業台の上のものを見て固まる。そして、やり切った清々しい表情の私を見てキレた。
「「勝手に何やってんじゃあああ!?」」
いやあー。最高の気分ですわー。
怒られても聞こえない。自分の感情こそが全ての良い性格をしたドゥニーズであった。
麺は後は茹でるだけ。そしたら、麺つゆを作らないとねー。
私はフランシスさんに訊いた。
「ボタンは何処にあるんですか?」
フランシスさんは蕎麦の麺を見て考えていたそうだ。
「……ちょっと待って下さい。状況を先ずはまとめましょう。この麺はまさか蕎麦粉を使ってるのですか?」
「そうですよ」
「私はガレットを作る予定でした。何故この様なものを作ったのですか?」
ガレットとは蕎麦粉のクレープの事だ。この国の定番料理である。
「作りたかったからですよ」
「これは食べれるのですか?」
「もちろんですよ。今から仕上げです」
「ボタンって何ですか?」
「ボタンを捻ると火がばっと付く優れものです。台所にある筈です」
「……そんなものありませんよ」
なっ何だとっ!? 調理場なのにあの火がばっと付くボタンが無いだとっ!? 解せぬっっ!
「窯はあります」
フランシスが指差す方を見ると暖炉の様なものがあった。私は首を傾げた。
「何ですかこれ?」
フランシスさんは固まり、侍女は「知らない筈ですよね〜」とため息を吐いた。
侍女が使い方を教えてくれた。
「先ずは木を組みます。藁や紙屑を間に敷き詰めます。火付け石をこうして叩いて火を付けます。そしたら、上にある窯に調理したいものを入れて下さい」
実際にやって見せてくれたテレーズに感謝した。
私は窯に水を注ぎ、お湯を沸かします。沸騰したところで先程切った麺を入れます。そして完成!……じゃなかった!?
私は冷たい床に崩れ落ちた。
悲しい。悲しいよぉぉ。
テレーズとフランシスさんはドン引きです。
「「……どうしたんですか?」」
「お醤油がない」
「「はぁ?」」
「お醤油がないぃいいい!!」
蕎麦の麺は温かくても冷たくても必ずしもお醤油が入っている。ざるそばにも麺つゆが付いてるし、麺つゆにはお醤油が必須だ。温かい汁に蕎麦が入っても、その汁には麺つゆが入ってるし、麺つゆにはお醤油が必須だ。つまり、ドゥニーズはやってしまったのだ。
この国にはお醤油などないと図書館で調べていたのにも関わらずに、欲求に負けて作ってしまった哀れな麺達の行方は果たして!?